昨日の話なんだけどさ
心のキャパシティが限りなく狭く、あるいは真っ当な人間の一般的なそれより明らかに足りないために、すべての物事に対して真っ向から向き合う際に、「これに対して全体の心のどのくらいの部分を割けば適切に対応できるのか」「どのくらいの距離感を保っていれば適切な関係になれるのか」という脳内会議をよくしてしまいがちだ。
まあこの会議、何に対してでも、何回もやることにはやるんだけど、結局ぜんぶの関係をおじゃんにしてしまいたくなる突発的な衝動の方が勝ってしまって、たいていのものをぶっ壊してしまうのが常ではあることも今はおいておく。
さて、その会議の議題の具体的な例に「セフレはその時に何人まで必要か」というのがあると思う。
昨日、東京の西のさびれた街で知り合いと飯を食い、心理テストをしながらそういう話になり、わたしは何人まで必要だろうか、と考えながらバーでなぜかオムライスを頬張っていた。
「おれはねえ、1週間に8人だった時があったよ」とそのバーの店長が話に割り込んできたりもして。1日誰とも会わない日があるのに1日に3人会う日があったらしい。いや、そこは満遍なく行くもんじゃないの。3人って、それ2番目に会う人って平均的にどのくらいの時間しか話さないで終わるわけ。ビッチかよ、と思わず呟いてしまった。いや、おれは誰にでもちゃんと付き合おうと思ってたよ、とかいう返しもなんだかなあ、と思ってしまったんだけど。
それを聞いて、わたしは一時期に精々ふたりだろうなといい、話題を振った知り合いは5人かな、という話になった。
でもこれって、その人がビッチとか遊び人とかそういう人間性(しかも割とマイナスイメージの方のね、)を映しだすのもそうだけど、その人の心のキャパシティの広さもある意味示していることにならないだろうか。
わたしはわりと他人のことを、深く、からだごとというレベルで、受け容れる容器としてはあまり向いてない。ていうかそもそも人づきあいが死ぬほど悪い。飲みにいこうよ、と言われた時に大抵はどうやってやり過ごそうかなということを考えてしまうタイプの人間なので。
別にからだを受け入れたら心も受けいれるというわけでもないんだよな、ただ会ってしまうともう簡単には分断できない何かに成り下がってしまうから、自然と「この関係がおわる時はどんな時だろう」と考えざるを得ないということなんだとおもう。
だから、なんとなく一時期にたくさんのひとをそれなりに受けいれられるといった目の前の知り合いふたりを、どこか羨ましい目でみている自分がいて。
自分はまだまだ人間的に不完全なのかも、と変に落ちこんでしまったんだよ、という話だった。今日お酒やめとくねえ、と数分前の発言を早々に撤回して飲んだウォッカが美味しかったのにも関わらず、酔いがすぐに醒めるのが堪らなくさみしくなった水曜の夜の話でした。
透子
死んでもいいI LOVE YOU、あるいは、冷蔵庫について
うまくいえないひとたち、というのは、意味の位相の中で呼吸している人たちと同義かなと思った。例えばだけれど、愛について語るときに、これは愛かも、とすらとても言えない時があって、それは言葉にすると、始まるのでなく終わってしまう恐れがあるからじゃないだろうか。どこかに向かって形を変えていく生きる姿そのものの意味が、言葉にすることによって、スタティックになってしまう場合もある、誰にでも、ある。私たちは、青空を超えられないけれども、青空で待ちぼうけする雲なんだ。
冷蔵庫について考えると、ほとんど哲学的な気持ちになる。彼(というのは、もちろん冷蔵庫のこと)に、どんなにつらい時でさえ生きるのはなぜか、と問うと、夜中にうーん、とうなっていた。ベランダの風は、さあね、と答えた。小さな部屋を照らすスタンドは青い目で私を見詰めていた。
秋の夜空に、ううううう、ああああ、と吟じて、冷えきったメロンのような運命味の恋がなくなった後の生活――冷蔵庫の中の在庫、その消費、を思う。なぜ、愛のきらめきは必ず儚くて、人間はその中で永遠に生きられないのだろうかと、誰かを責めたい気持ちになる。愛のきらめきを教えてくれる人も、しらけきった愛を教えてくれる人も同じということが、ざらにあるけれど、それは幸福なことなのだろうか?
さあね。冷蔵庫の扉を開けると、同じ返事しか返ってこない。愛については、誰もわからない。私は、愛を知らない。うちの冷蔵庫も。
けど、いつか死にたくなったらあなたと結婚するからその時は、と約束した時、私はたしかに愛を願っていた。荒野に出る、その時までは。と、彼が言う。まなざしの先に時間の大河があって、水面が出会った人たちで瞬いている。未来が人待ち顔して、ほほ笑んでも、愛のきらめきの中で息絶えることができたなら。
一緒に死ぬときは、薄化粧して綺麗な洋服を着て、身辺整理もして冷蔵庫も捨てる。
わたしが目を醒ます
はじめまして!だんごちゃんだよ。
お題箱に「大森靖子が好きな人はいませんか?」という投稿を頂きました。私は大森さんが好きです!……ということで、今回記事を書かせて頂く運びになりました。よろしくねっ!
大森靖子さん、好きなんです。私は大森さんがメジャーデビューする半年前くらいに偶然知って、それから必ず新曲はチェックしてます。ライブはタイミングが合わなくて数えるほどしか行けてません。だからファンを名乗るのは畏れ多い。でも、好き。大森さんはライブが本当に最高なので、行ける人は絶対ライブに行きましょう。(自戒)
まずは、大森さんのダイマしますね!
大森さんはギターで弾き語りを基本スタイルとしているシンガーソングライターです。メンヘラだとか病んでるだとか、そんな評価をされがちだけれど、多くの人が語るありきたりでちっぽけな枠組みなんかじゃ収まらない情熱的で真剣なパフォーマンスをしています。日夜、生の苦痛が醜くSNSで暴れ狂って生きづらさを抱えた今の時代に寄り添う不器用で優しい歌が特徴的だよ!
フェスによく行かれる方は一度くらい「絶対彼女」「ミッドナイト清純異性交遊」を耳にしたことがあるかな。アニメ好きな方だったら『食戟のソーマ』でED曲に使用された「さっちゃんのセクシーカレー」を、アイドルが好きな方はゆるめるモ!あのちゃんとコラボした「勹″ッと<るSUMMER」を知っている…のかな??Youtubeに沢山魅力的なMVが公開されているので、是非検索してみてください。MVでおすすめは「ドグマ・マグマ」です。可愛い。みんな大好き(!?)大槻ケンヂも出演してます。
この先はファンの勝手な語りです。
私は大森さんの歌詞が好きだ。例えば「きゅるきゅる」だったら「誰でもいいなら私でいいじゃん」ってカラオケで叫ぶのが楽しい。「デートはやめよう」なら「コンビニで一番高いアイスでエロいことをしよう」とかも最高。好きな歌詞を永遠に列挙できるくらい好きな言葉がいっぱいある。それは大森さんが手垢のついた言葉を使わないからだと思う。初期の生活感が漂う単純な歌詞も、最新の意味不明とも言える歌詞もどちらも大森さんが書いた歌詞だ。大森さんの思想が濃く、濃く出ている。それでいて、大森さんの書く歌詞はカーテンを閉め切ってアイフォンの液晶だけが灯る部屋で一人流れてくるツイッターの文字列をダラダラ見ている貴方や貴女や私の言葉になる。不思議な共鳴が起きる。「この歌あたしのことうたっている。」この歌詞は私の言葉だ。私はこの言葉を叫びたかったんだ!という出会いがあったらもう大森さんの虜。「パーティードレス」っていう曲を初めて聴いた時は衝撃的で涙が止まらなかった。当時は幸せが分からなかったから。
大森さんの素晴らしいところは、初期の曲から最新の曲まで、どんなにえげつない歌詞でも、圧倒的な肯定があるところだと私は思う。暴力的だし、回りくどいこともある。でもどんな絶望の中でも死にたみも全部、全部、全部肯定して意地でも生きてやるという強さがある。自分やファンの傷を舐め合うだけで終わらない大森さんの歌詞は、きっと色んな人を生かしている。明日を迎える恐怖や救いようもない劣等感、人間の醜さを包み込むエネルギーが大森さんの曲には存在する。
大森さんも必死だし、聴いてる方もすっごく必死。多分、真面目なんだと思う。真面目に生きるっていうのは、社会の規範に従うことなんかじゃない。自分の言葉を叫び、自分の思想に従うことだ。真面目に生きるのは苦しいんだ。現在の音楽シーンはとにかく銀盤が売れなくて四苦八苦しているわけだけど、大森さんは手を抜くことなく音楽に魂を込めている。この間、ツイッターで「ガンガン無料でもたのしめるようにしていきたい派ではあるんで、なるべく多くの曲をMVつくって動画アップしてるんですが/ずっともっと良いもの作りたいのでCDよかったら買ってください。/ライブ来てください。/私のでなくてもお金を払って何かを得て、その体から剥がれない経験にしてください。」と言ってたときはさすがに驚いた。このひとは「マジックミラー」辺りから薄々感じていいたけれど、聖母なんだなあと思った。人間を人間として扱わないのは虐待に等しい行為だからあまり神聖化したくないけど、大森さんはきっと私たちと地続きのふっつーのお姉さんでありながらも神様業もやってるって言いたくなってしまう。(いや、聖母になろうと足掻いている?それが大森さんの生きる方法だった?……これは酷い解釈だと怒られそう。)
進化し続ける大森さんは新譜が出る度に、音楽から絶望の香りがする。しかしそれに屈せず抗う光の道が必ず提示してある。影だけを追い掛けない。必ずどこかに息が出来る、私が私として存在できる場所があることを信じて、辿りつくことを諦めない意志がある。歌いたいから歌う。ただそれだけがどれほど難しいことか。大森さんの楽曲に闘いの歴史が見える。届かない伝わらない広がらないこんな世界でも誰かには響いていると信じている、きっと。
「わたしみ」はすごいよ。はちゃめちゃすごいよ!こんな愛が溢れた曲、書けないよ。死ぬ気で生きてなきゃ生まれてこないよ。大森さんは昔から大森靖子なんだけど、どんどん磨かれて純化している。これからも大森さんが生きている限りこの世に名曲が生まれ続けると思うと私は生きていける。こうして文章を書いている間も新たにYoutubeに動画を公開している。大森さんは現在進行形で生きている。
生きよう!
好き勝手書いちゃいました。ご覧いただきありがとうございました☆
だんご(@Fdng7)
What's My Age Again?
自分っていくつだっけ?
学生と社会人の境界線まで来て全然大人になれていない自分たちを痛感したのは、幼なじみと地元のサイゼで3時間ねばって勉強しながら、将来に対しての愚痴を言った後の帰り道。
まあ、その幼なじみは大学院に行くつもりだから社会人までもうちょっと猶予はあるんだけれど。それにしても見事なまでの中高生コースをキメてしまった。
さて、唐突に話は変わるが中学生の時に好きになったBlink-182というカリフォルニアのポップパンクバンドの曲に “What's My Age Again?”という曲がある。
blink-182 - What's My Age Again?
簡単に言えば大人になれない男の曲だ。 23歳になっても全然子供っぽいことをやめられなくて周りにあきれられる話。
彼女と盛り上がってきたとこでテレビをつけるのが我慢できなかったり、その彼女の親にしょうもないイタ電かけたり。
俺っていくつだっけ?
年相応ってなんだよ?
PVの方も全裸でメンバーが街を走り回るだけのホントに愛すべきバカの一言に尽きる一品。
でも、いい年して地元のサイゼで愚痴るしかできない自分たちも根本はこの曲と大して違いがないのかも、なんて。だって中学生の頃からなにも変わっていないんだもの。
この曲に出会った頃は「まあ、そんなこと言っても23歳ならそれなりに大人になってるでしょ。」って思っていた。
ところがあの頃からまったく進歩していなくて、8年経った今になってこの曲が心臓をえぐってくる。
23歳まであと1年もないがどうなるのだろうか。どうにもならないんだろうな。
実際年相応ってなんなんだろう?
余談だが、この曲のPVを彼らの最新アルバムで男女逆転セルフパロディPVにしていたのでそちらも必見。残念ながらポロリはないです。
She's Out Of Her Mind - blink-182 [MUSIC VIDEO]
そして遅くなりましたが初めまして。Yutakaです。
ブログという場所に文を載せるのがあまりに久しいので少しどぎまぎしていますが、また調子に乗って投稿するかもしれません。その時はゆるっと見守ってください。
よろしくお願いします。
Yutaka(@comeasur731)
宝くじは買わない
はじめまして。いきなりですが、みなさんはよく宝くじを買いますか?
私は付き合いでスクラッチを買ったり、くじ付の年賀はがきを買うくらいで、自ら進んで宝くじを買ったことが無い。
宝くじを買わない事に明確な理由は無いが、ある日突然大金が舞い込んでくる事に恐怖を感じる。5000兆円欲しい!ともそんなに思わない。こんな事言うとさとり世代、なんて揶揄されてしまうかもしれないが、お金が要らない訳ではない、清志郎のように恋に惚けている訳でもない。ただ、実感のない豊かさが怖いのだ。
宝くじを買う人の大半の心理は、
・どうせ当たらないがわずかな可能性にも賭けてみる
・もし当たったらどうしようと考える時間が楽しい
といった事が挙げられるらしい。確かにロマンは感じる。でもこれって、わざわざ宝くじを買わずとも、日常に存在するロマンなのでは?と思う。
例えば、もし明日地球がこなごなになってしまったら?無人島に一つだけ持っていくとしたら?なんて想像、誰しもした事があるのではないだろうか。あるいは、何にも変わらないのに身体測定の前日だけ夕飯を抜いてみる、とか気になる人が自分の事を好きになってくれる確率だとか。
私たちは、毎日のように目に見えない宝くじを引いているのかもしれない。自分の知らないうちに大当たりを引き当てているかもしれないし、誰かの大当たりが自分だったりするかもしれない。つまり宝くじは可視化された幸福の可能性なのだ。
私は、誰の仕業か分からないが、人生には悲報と朗報がちゃんと50:50でやってくると思っている。どんなに情けなくて寂しい夜があったとしても、亀のようにのろまかもしれないが必ず幸福がやってくると信じている。
だから、私は宝くじは買わない。ただ今は、その時がやってくるまで、次の夜や次の朝を待っている。
概念(@__oldfriends)
こえだめ
ぼくは学生時分に便秘であった。はじまりは小学生の低学年、ひょっとするとそれ以前から。25年間生きているほとんどを便秘の身として過ごしてきたものだから、はっきりと記憶していない。
母いわく「うんちを我慢する癖があった」らしい。便意も催すと両手両膝を床に着けて四つん這いになり、お尻を突き出す格好になるんだとか。
なるほど、肛門を上に向けていれば、うんちを排泄しようとする腸の動きにすこしは抗えるのかもしれない。なにせ、この地球には引力が働いているものだから。
もしもぼくが、もっともっと早い時代に生まれていたなら、この我慢法に「引力」発見の糸口を見出したのかもしれない。
科学の教科書には「ニュートン」ではなく、ぼくの名が載っていたのかもしれない。かの「木から林檎」は「肛門からうんち」であったのかも。
便秘があたりまえと思っていた人生、改善に努めようと思ったことは一度もなかった。
しかし、大学を卒業し社会人となってから、次第に改善へと向かった。殊更なにかをしたわけではない。ぼくの就職した会社の環境がそうさせた。
デスクワークが基本的な業務の会社であった。残業があたりまえな業種であるがゆえ、毎晩遅くまでオフィスで、パソコンのディスプレイとのにらめっこを強いられた。いつもドロー。そう、どちらも笑わない。
ディスプレイは「笑わない」と表現するのが至極当然だが、ぼくについてはそう表現すると少し誤りがある。
ぼくは「笑えない」のであった。
原因は、オフィス内に蔓延る重苦しい空気にあった。発信源はトップの上司。要するにそのオフィスのなかでいちばん偉いひと、である。
常に眉間に皺を寄せ、話しかけるといかにも機嫌が悪そうな低い声色で「んん?」と返事をする、そんな彼から放たれる過度な緊張感に、入社初日から圧倒された。他の社員たちが威圧され小声で話す様を見て「どうやらこの部屋には寝かしつけた赤児がいる……?」と思ったほどだ。
極力その上司とは話したくないのだが、判断の難しい事案があれば、しぶしぶ彼に話しかける必要があった。そのときは皆、ドミノ倒しを並べている最中のような「触れてはいけないが、近づかなければ事が進まない」というストレスと戦っていた。
そうしたオフィス中にある重圧に耐え兼ねたぼくは、トイレに逃げ込むようになった。やはり重力には逆らえないものである。
トイレの個室に避難すると、すぐさま便座に腰を下ろす。それからの数分間だけが、ぼくの心が平静を取り戻す唯一の時間であった。
ぼくはトイレで毎度、ツイッターを見ていた。そして、思うことがあればつぶやいた。上司をはじめとする会社への不満をぶちまけるときもあれば、無関係で阿呆なことを書いたりした。
そうしていると、投稿する文字を入力している間に、便意がやってくることがある。どうやら頻繁に便座に座っていると、うんちは下へ下へと引力で落ちてゆくらしい。……やはりニュートンの席にはぼくが座るべきでは。
現実、座っているのは、便座。
次第に引力によってうんちが出るようになり、社会人になって丸一年が経つ頃には便秘が改善された。それはトイレに避難し、ツイートし続けた、ということでもある。
ぼくにとって会社のトイレは、うんちを出す場所であり、ストレスを吐き出す場所となった。
毎日、目的を持たない声を、トイレからタイムラインへどんどん溜めている。それは今日まで続いている。きっとこれからも、繰り返すのだろう。
そんなぼくにとってのツイッターは、「声溜」とでも呼ぶべきだろうか。
ぼくはいったい、クソみたいなツイートをいつまで続けるつもりだろうか。
やれやれ。
快便なのに、笑えないのであった。
以上
駄文を失礼
ぱまお(@pamao__)
においについて
季節の変わり目は匂いから知る。暖かさ、涼しさ、寒さ、暑さ、みな、そのあとにくる。秋は金木犀、春は桜?花の香りなら、暖かくなってから、暑さが過ぎてから。でも、そうではない、匂い。何の匂いなのだかは分からない。
今年も、ああ、もう秋か、と、夜歩いていて思った。その匂いが鼻腔をくすぐったから。まだ、暑かった。3日して急に涼しくなった。虫も鳴きだした。秋が訪れた。
何の匂いなのだろう?
雨の匂いはペトリコール、というらしい。調べると化学式など、いろんなことが書いてある。この不思議な季節の匂いというものも、いつか解明されるのだろうか。あまり期待してない。どっちでもいいからね。
梔子の花の香りを知ってる?
淀君の 墓梔子の 白似合ふ (池田とみ子)
梔子の香りを知らなかったら、この歌でどんな香りを思い浮かべる?知らない香りはどんな香りだろう?
私は梔子の香りを知らなかった。当時、懸想人が好んでいると聞いたガーデニアの香水を知りたくて、この歌だけを携えて、どの花だろう、この花か、あの花か。と歩き回っていた。高貴な女性の墓……淀君は気が強い女性だったらしい……
3年ほど知らずに考えていたけれど、気づいたら今年の春、住居の近所で咲いていた。ひとに教わった。この花が梔子。そのとき、その香りは、ずっと探していた香りとは違った。もっと、こう……。ガーデニアは(くちなし)で、「梔子」ではなかったのかもしれない。
香りと言えば、プルースト。失われた時を求めて。失われた時を求めて、香りという紐で記憶を手繰り寄せる。香りは記憶と密接に結びついているから。
視覚も、聴覚も、触覚すらも、いまやインターネットで伝達可能な時代だけれど、嗅覚だけは、まだ。この不可思議な領域には、いろんなファンタジーが詰まっている。季節を知らせる香り、知らない香り、記憶と結びついた香り。
私がおすすめするのは、知らない香りの、歌を読んで、どんな香りが想像を巡らせてみること。これはとっても面白いと思います。歌にある視覚や聴覚や触覚の情報から、イメージを膨らませて、嗅覚を感じ取ってみる。短歌や俳句の豊かさって、そのイメージのふくらみにあるから、とても楽し旅になると思いますので、ぜひ。
ところで、私、初めてここに書き込みさせていただきました。毎日更新を楽しみにみなさんのブログを読ませていただいてます。これからどうぞよろしくお願いします。
「そうだよ」
女の子が好きな女の子はダメですか?
流行りのLGBTの論に乗ろうとか全く思ってないです
この前バイト中突然私は女だけど女が好きだなあって思って過呼吸を起こしかけたオタクですどうも
そもそも私は女の子のアイドルさんが大好きなのですよ
卒業してしまう推しの公演のために就活中全く先が見えないしもしかしたらまだ内定ないかもなって4月の時点で解禁直後の6月に公演当たるかも分からないけど博多に行くための飛行機と宿取ってみたり、握手行ったりね、かわいい女の子のためならなんでもできる
私は小学校あがる前からモー娘。が好きで、振りコピしたり歌ったりして遊んでました
学校にあがると憧れる対象がアイドルから身近な友達とか先輩になり、過ごしてきました
いまは女子アイドルをおいかけつつ周りのカワイイ子にちゅっちゅこして生きてます
私は基本的にそういう愛でる対象としては女の子ばかり慈しんできました
女子大に入った私は、周囲に全く男がいない環境というのに慣れていきました
もちろん関わりがゼロではないですが、学校生活で男性と関わらずに生きていくことは難しいことではなく、そして女しかいない環境を心地いいと思う私がいました。
ここからが本題なのですが、私は自分の「女性性」みたいなものが本当に嫌です
毎月生理がくるのも気持ち悪くて他の子が生理で体調悪いとかわいそうに思うのにそれが自分だとその現象そのものが気持ち悪くなるしどこぞの老害かのように「甘えんな」とおもいます
かわいくなりたいとかかわいい女の子にあこがれるとか言いつつ自分がそういう目で見られたり男の人から好意を向けられるとそれを受け入れられないしそういう人を信じられない気持ちになります
女の子らしさとか女子力とかそういうのは大好きだし自分で持ってても大丈夫なのですが、性に関わることになると本当に気持ち悪いなあって思います
潔癖とかではないです
むしろ汚いほうです(?)
いろんなことを考えた時にふと「女の子と付き合ったり結婚する自分」を考えている自分がいて、その中で自分は確実に女の役割をしてないんです
すんなり「私は男になりたかったんだ」って思いました
自分は女だと思っているし生物学的にも女だけれど、女の子扱いされたくない、男として生きていきたいって感じです
そう思ったら「恋愛対象としての女の子」がすっと浮かんできました 「好きかもしれない」と思いました 死にたくなりました
今まで友達だと思っていたしこれからも友達だと思いたいし向こうはなにもそんなこと思わないだろうに、多分私はその子のことを恋愛対象にしていました
その子にはそんなこと思ったって一生言わないつもりです
言っても何もならないどころかこれから一緒にいられないかもしれないし
多分今まで私は自分のことをストレートだと思っていたし、本当にストレートです
(いま恋愛対象として愛しく思っている人は男性です)
でもどこかでほんとに私の好みの女の子がいて、自分がもっと早くこのことに気づいていて、その子が許してくれるなら、そういう道を歩むこともあったのだろうなあと思ったのです
そう思った時自分が怖くなりました
確かに女の子は好きだし、LGBTとかも分かる、でもそれが自分の事として受け入れられないと思いました
そんなもの望んでいないとは思いながらも自分への親からの期待や世間からの目、さらには自分を受け入れてくれるだろう女の子にも同様のものがあり、そこには法的拘束力や確かなものがないというなかでの強いつながりを持とうとする…
それら全てを受け入れることってすごく体力も気力も覚悟もいります
自分には無理だと思ってしまいました
世間のLGBTのひとたち、ほんとうにすごい
この話って「自分が『普通』である」ってことに安心してる、「『人と違う』ことを受け入れる」って話なんですよね簡単に言うと
そこに「相手」というひとりの人間が加わるだけでこんなに複雑で難しく考えてしまうのです私はオタクなので(?)
よく私は女子アイドルの話もするし、周囲の女の子にちゅっちゅこしてまわったりもします
その度に「レズなの?」「違うよ」という会話を当たり前にしてきました
私の心はまっさらなストレートではないと思います
もし「レズなの?」ときかれて「そうだよ」と答えたら周囲の私に対する反応はどう変わるのでしょうか
私をどう受け入れてくれるのでしょうか
そう考えた時に、いろんな可能性がある中で「そうだよ」と答えるってすごく勇気のいることです
きっと私はこれからも「レズなの?」という質問に「ちがうよ」と答え続けますが、心のどこかでは女の子を恋愛対象にしていますしそれでいいと思って生きていきます
こんな私をいやだと思いますか?
私の友達は私が女の子が好きでも仲良くしてくれますか?離れないでくれますか?
女の子が好きな私は、ダメですか?
かおるん(@kaaaaaoruuun)
ロールプレイング
「おれおれ!おれだよ!おれ!えっ?!おれだよ〜〜?!おれのことわかんない〜〜?おれだけど〜〜〜?!」
ダメ、絶対。ダメですよ。ちょっとボケてる善良なおじいちゃんおばあちゃんの預金をさ。ダメだよ。全国の高齢者の箪笥に875兆円が眠っているとか言うけどさ。どんなにワープアだからってダメだよ。今からなりすましの話をするけど、それは悪意じゃなくて希望の話なんだから。
さぁみなさんどうですか。日頃からキチンとなりすましてますか。
考えてみよう。なりすましてるでしょ。この現代社会、毎日毎日仮面をとっかえひっかえで大変な人もいるんじゃないですか。
僕はそらもう、なりすましまくりですよ。仕事に行けば「なんかいつもダルそうにしてる飄々とした感じの人」だし、家に帰れば「献身的に家事やら恋人の世話やらするけど、どこか抜けてるうっかり者」だし、友達の前では「几帳面で細かくておしゃべりで意地悪だけどなんだか憎めない人」だし、インターネットでは「ソシャゲの沼にハマったアタマのおかしい競馬おじさん」ですよ。一応言っておくけど、大体自称じゃないですよ。
現代人が当たり前のように行う「キャラクターの使い分け」の一例なんですけど、まぁどれかが本性だということもなく、環境や立場に応じて過ごしやすいキャラクターになりすますわけです。
もちろん誰もが何者にでもなれるわけではない。人にはそれぞれ引き出しというものがあるし、無い袖は振れない。
それでも「私は私だし、私以外私じゃないの。私を私として受け容れてくれる人としか関わりたくないんだもん。私私。私私私私私私私私私私」なんて言ってたら生きづらさマックスだろうし、全てから拒絶されているような気分になるときもあるだろう。ハートが複雑骨折でアタシもうオカしくなっちゃうみたいな状況になりかねない。 絶望ですね。
だからなりすます。適応するための戦略として。一度各コミュニティで各キャラクターが居場所を得さえすれば、あとは慣性に従うだけでいい。キャラは勝手にひとり歩きしだすから。
「人生とは物語である」みたいな価値観は生きやすくさせてくれるよという話だったんですけど、うまく言えたかな。
主人公をいろんな物語に同時並行で登場させると、物語の外側にいる作者はカオナシになっていくから、その辺のことだけアホの子みたいに「よくわかんなーい」つってハナクソをホジっておかないといけないんだけど。
ハナクソもたまにはホジらないとね。たまには。ティッシュを使ってホジるか、ホジったあとは手を洗おうね。おじさんとの約束だぞ。
ふわっふわの毛布 (@soft_blanket101)
告知
みなさんこんにちは、
そういや今年の夏はかき氷を食べていなかったなあ、といまふと思い出してちょっと悲しくなっているおれです、どうも。
夏が物凄い速さで通り過ぎていって、もちろん何にも手につかないまま、何にも手に入れられないまま、夢みたいな夏の感じ方を今年はしました。ほんとうに今年の夏、マジでなにしてたんだろう。東京をあちこち駆け巡って、実家に帰って怒られて、店長に店長代理を頼まれてうわーマジかーってうっすら思ったことしか記憶にない。あれ?
てな感じで、まもなく9月がやってきます。
9月はみなさんにとってどういう思い出がある月ですか?わたしは歴代の彼氏の誕生日が9月に集中しているため、個人的にため息が止まらなくなる月です。
でも今年の9月は次の月である神無月に向けて、ちょっとずつ面白いことを仕込んでいこうかなと思っています。なんせ10月はほら、おめでたいことが待ってますから。
さて、ここからが本題。
10/7はこのブログの誕生日です。もうすぐ一歳になるんです。
ということで、10月中に一歳記念企画として、週に2本、月大体8本くらいのペースでバトンを回したいとおもってます。
なので有志は最低8人を目安に募ろうかとおもってますが、足りなかったらまあ、管理人が…代わりに…2本書くかな…しんどいのでみんな書きに来て!お願い!
有志が多すぎて困る〜!ってことはないです、むしろそういう状況になりたい。
お題は前の人から受け取って次の人がそれで書く、という感じでいこうかと。
ここからは具体的な話。
有志募るのはTwitterでやりたいとおもいます。「書きたい人はこのツイートにいいね押してくださーい」みたいな感じ。拡散はバンバンしてください。
とりあえず9月初っ端から応募をかけて、大体9/10くらいになって様子みて応募打ちきります。
で、その後に書く順番を決める公開キャスをわたしがします。くじ作って引くやつね。これひとりでカラオケでやろうかとおもってるんですけど、考えただけでめちゃくちゃ空しいな。
ということを9月中にやっておきたいな、という話なんです。
わたしも9月からは私用でバタバタしている頃合いなので、うまくできるかわからないのですが、みんなよかったら気軽に参加していただけたらと思います。
書くタイミングを見逃していたりするひと、必見です。ただ今回は自分の好きなことを語る場ではないので、お題があったら書けるんだけどなあ、というひとにはぜひ参加してほしいな。
これ、一応共用ブログのアカウント使ってキャスでも告知するのでよかったら聴いてくださいねえ。
それではまた9月に会いましょう。
透子
秘密が、わたしをつくる
見上げるともうすっかり、空は秋めいている。
私の住む場所は恐らく、全国の中で一番先に季節が巡る位置にあると思う。最近、朝晩は15℃を下回る時も多い。
そうやって段々と冬に向かっていくにつれて、思い出さざるを得ない記憶が2つある。
ただ、今回はそれについて直接的に話す訳ではない。
記憶、というワードを出すと、ほぼイコールで私の頭の中に想起されるのは「秘密」というキーワードである。
「秘密がわたしをつくる」とツイートで公言している以上、秘密という言葉に対して私は独自のロジックを持っている。
それでは私の最大にして最初の秘密をここに記しておく。
「秘密があるか、ないか」
それが私の秘密である。
秘密の有無の真偽についてはどうでも良い。もし本当に秘密が無いのなら、「秘密が無い」ということを秘密とでも言っておけばいい。
人間は「知らない」「わからない」「掴めない」ものに対して、どうしても興味を持たざるを得ないし、惹かれざるを得ない。
秘密という言葉で、誰かの心に少しだけ引っ掛かる、けれど忘れられない、そんな人間になれたらなぁと思う今日この頃。
そんな訳で、初めまして。
遅ればせながら名乗らせて頂きます。
朔です。どうぞお見知り置きを。
ここのブログには皆様それぞれが素敵な文章をお書きになられていますが、私が一番稚拙且つ意味の解らない文章を書く自信があります。
宜しくお願いします。
さて、この文章の始めに出した、
「そうやって段々と冬に向かっていくにつれて、思い出さざるを得ない記憶が2つある」という一節。
本当に2つなのか、思い出す季節は今時期なのか、本当に思い出すのか、そもそも思い出すような記憶はあるのか?
それもまた、秘密である。
朔
■
襟裳岬
はいどうもどうも、
夏の日差しの和らいで来る今日この頃、いかがお過ごしでしょうか。
貴方の心のガンジス河、ストロンガー猿です。
夏らしいこと、なにか皆様いたしましたか。
猿めはというと、たいして何かをやった覚えがなく……
海も行かねえ……!祭りもねえ!
蝉、クワガタも採っちゃねえ!
レーザー・ディスクは何者だ!
襟裳の春は何もない春です!!
そんな我々1.7メーター級インドア大型猿が僅かに享受できる夏の悦び。
琥珀色したニクいヤツ。ビアです。
ビアのお話、いかがスか。
暑い暑いソーラー・エネルギーにやられた体を引きずり働き、
日の終わりにセルベッサをペルファボーレ。
たとえひとりでもヤーーンセン!
うまい!(テーレッテレー‼︎)というのが我ら黒人奴隷に許された夏の悦び。
切支丹達がその人口の多くを占める欧州、あちらでは土地や職や自然現象などに守護聖人というものを置いたりするのですが、ビールにも守護聖人がいるのですよね。
同名のビール絡みの聖人🍻が複数いてややこしいのだけれど、
聖アルノーという人がですよ。
彼はビアマグ一杯しかなかったおビアを、
枯らすことなく次から次へと湧き出させたという奇跡により聖人認定されたという男。
賢明な読者諸賢はもうお分かりでありましょうが、強化系の念能力者ですね。強キャラです。
(特質系と相性は悪い)
僕の冷蔵庫の守護聖人にもなっていただきたいし口に直接サーバーを繋げたい。
しまった、アノ……すいやせん、
話をどこに帰結させようとして書いてたか見失っちまいやした……
助さん「まったく八兵衛、お主はうっかり者だなあ。」
へへ……すいやせん……
オウなんじゃい!
わしが一番うまく言えとらへん人やろがい!
光圀公「全く八兵衛、お主はうっかり者じゃなあ。」
へっへへ……すいやせん……
irreplaceable
英語に irreplaceable という単語がある。replaceble の否定系で、日本語での意味は『取り換えられない、代わりの効かない』と言ったところ。転じて『かけがえのない』といったようなニュアンスで、大切な恋人や友人に使われる。また、とてつもないスキルを持った人に対して職場等でも使われる、便利な単語。
先日ネットのどこかで見た記事によると、バイト関連の悩み相談で多いのが『辞めたい程大変な思いをしているのだけれども、私が辞めたらお店が回らなくなるかもしれなくて心配で…』というものらしい。バイトでも数年働けばその仕事に対して一通りのスキルセットは覚えることになる。新しいバイトの人たちが入ってくれば、後輩を持ったような気持ちにもなるかもしれない。そういった過程の中で、店長あるいは上の立場の人からなまじ期待をされ、バイトながらもお店に対して責任感も芽生えていく。責任感と言えば聞こえがよいが、『お店が心配で辞められない』という責任感はそもそもバイトが持つべきレベルの責任感を明らかに超過している。
日本人の持つ責任感は他の人種の人から見ても特異に見えるという話をよく聞く。私の周りのニュージーランド人や中国人の友人も良く話をしているので、私たち日本人は本来そういうものなのかもしれない。しかしながら、そういった『やめられない』人達は『自分はこの社会の中で掛け替えのない irreplaceble な人間でありたい』という少し屈折した願いから、超過した責任感を持つに至っている気もする。
ニュースだって今はコンピューターが自動で作ってしまう時代だし、車の運転だって人間なしで出来てしまう時代だ。人間そのものが replaceble である時代なのだから、自分の irreplaceble性をこの社会生活の中に見出していくのは何かのスキルに特化したスーパーマンでもない限り中々に難しい。だから私たちはそれが間違いだとしても信じたくなるのでないか。『私はこのコミュニティで掛け替えのない存在』なのだと。
ニュージーランドでの大学生活が終わり、一ヶ月半程日本をぶらぶらしていた。その時現地でやっていた家庭教師のバイトやアプリ開発のプロジェクトは関係者に話をし、完全にホールドしてもらった。当然のことながら、それでも彼らにとっての生活は止まらないわけで。私が教えるべきだった算数は誰か他の人が教えたかもしれないし、私が作るはずだったアプリの新しい機能は他の人の作業に割り当てられたのだと思う。私は完全に replaceble だった。少し残酷なのかも分からないが、それは当然の事実だった。
それでも嬉しかったのは、私が日本滞在中には色々な方から『いつ帰ってくるんですか?子供たちが凄く会いたがっています!』だったり『早く帰ってきて算数見てほしいです!この間の息子の成績おかげさまで凄くよくなっていました!』という連絡をもらえたこと。ニュージーランドに帰ってきたその日にも、『今日帰ってきたの?今日からまた算数見てもらえる?』という連絡を頂いた。私の代わりはいくらでもいるのだから決して irreplaceble なんかではない。しかしながら、それでも、私が近くにいるのであれば喜んで私に replace したいと思ってくれる人たちは確かにいるのだ。
責任感を持つことはもちろん大事で、それが良い仕事に繋がっていくことはもちろんある。ただ、度を過ぎた責任感は捨てさった方が楽に生活出来るようになるんじゃないかと思う。言い換えれば、自分は決して irreplaceble なんかではないんだと肯定的に捉えていくことからスタートしてもいいんじゃないかなということ。適度な責任感で肩の荷をおろしながら、適切な距離感を保ちながら社会と関わる。その中でも、やるべきことをしっかりやっていく。そうすれば1人で躍起にならなくても、サポートしてくれる人は自ずと出てくる。
そういう社会との付き合い方が出来れば、この社会はとても優しいもので、心地の良い生活しやすいものになるはずで。誰にとってもそんな居心地の良い社会に replace されればいいなって思った話。
おしまい。
うまくいえないなゆき(@nayukinz)
1周年記念が近いということで
みなさんこんにちは、
地元の駅が20分に一本しか電車が来ないことにホームで電光掲示板を見てようやく思い出してうなだれながら待合室でこれを書きはじめた次第のおれです、どうも。
帰省をしていました。3泊4日。
帰省したその日の夜に「どうせ怒られに帰ってきたんだろ」と父に鼻で笑われたので、かえってそうです、というのがラクになったような、まあでも思ったより怒られてはいないけど呆れられているのはひしひしと感じたので、実家というものはやはり居づらいところだとおもいました、完。
まあ、あなたがたとは住む気はないし、地元に帰るつもりもない、あなたがたに甘えるつもりもないのだ、という旨だけは伝えられたので、それだけでも大きい収穫なんです、やったねえ。
そして昨日の夜、こっそり仲のいいTwitterの方たちと話していて、「おもしろそうだから」という理由だけで、ついにこの共用ブログ専用の投稿通知アカウントを作ってしまいました。
書き手さんで投稿はするけどTLへの通知は切りたい、というひとはまあ切ってもいいよってことで、これもまたゆるゆるやろうと思っています。続いたら幸い、続かなかったらまあ仕方ないね、くらいの心持で。
今のところこのアカウントも共用にしています、ただの投稿通知アカウントにしたくないのでちょいちょいどうでもいいことを呟きますが、ご愛嬌ということで許してくれたら嬉しいです。
基本的にフォローしているひとはこのブログを書いてくれている書き手さんだったり、読んでます!といってくださった方たちを中心に、あとは「書いてくれないかな…」と密かに思っているひとだったりします。
だから全然関係ないのになんでフォローされたんだろう、とハテナが浮かんでいるそこの方、あなたですよ、ぜひこちらにいらしてください。
このブログからTwitterに飛べるひとは、ぜひ以下のアカウント名で検索してください、いつもみてくださってありがとうございます。
☞うまくいえないひとたち。
☞@neednt_say_well
それでは、失礼します。
透子