うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

タイムアタック・三曲おすすめしようずの巻

 

 

 

えーと。
とりあえず、渋谷から吉祥寺に着くまでの時間で1本ブログ記事を書けとかいう謎の指令を承ったので書いてます、どうも。何言ってんだてめえ、という反論ができないままこうして書き始めている。

 

 

 

最近よくつるむひとがお題を出してプレゼンしたがるタイプのよくわからん狂人で。

それに躍起になってわたしもモノを選んではみるんですが、大抵その狂人の方がうまいセレクトにうまいプレゼンをぶちかましてくるという災難に立て続けて2回ほど遭っています。悔しい。

 

今回はそれをリメイクして、お題に基づいたおすすめの三曲を頑張って紹介する、的な内容にしたいとおもいます。

今回は、「ちょっとだけひとりでいてさみしくなった時に聴いてほしい」というものを集めてみました。いやお題じゃないじゃーん!とかいうツッコミはしないで。お願い。なんでもするから。 (もし「その曲知ってるー!」とかそういう声があがったらごめんなさい)

 

 

 

1. Ed Sheeran "I'm a Mess"


https://m.youtube.com/watch?v=OtZRC_0Vc_A

 


最近みんなTLでバンバン流れているかとおもいますけど、"shape of you" サイコーじゃないすか。
個人的にコードと歌詞がちょっとえっちな感じなのが好きです。聴いててからだが動いちゃうような曲はやっぱりウケますよね…

というところから始まって、Sheeranのちょっと若くてトーンは高いのに温度の低い声にハマった結果のセレクトがこちらです。

これいま慌てて歌詞調べたらがっつり失恋の曲らしいですが、それも頷けるような最初のさみしそうな歌い出しがとてもいいです。かなしいけど消して暗くはないテイストが聴いてて苦にならないというか。
失恋しなくても聴いて。失恋しても聴いて。

 

 

 

2. Kronos Quartet "The Beautitudes"


https://m.youtube.com/watch?list=PLtHA2-PaAY7eIpgF1Z_iKRK_IMlSlKV4z&v=FskOzt6INlQ

 

はい、サントラです。
パオロ・ソレンティーノの『グラント・フィナーレ』という最近の映画のサントラを探していたら偶然出会った曲なんですが、これがまた割といいんですよねえ…

バンド自体は現代音楽中心にやる弦楽四重奏団なのですが、この曲自体もサントラみたい。言い方ふわふわなのは全然調べてないからなんですが、この時点で次吉祥寺です。もう無理ゲーかよ。

曲についてすこしばかり。
冒頭をよく聴くと、中低音勢が静かにいるのがわかるんですが、そこに自然に乗っかってくる第1バイオリンの旋律のあたたかさにまずは聴き惚れてみてください。
全体としてゆっくりと拡がって収束していく流れと、かなしくはないのにどこかさみしそうなコードに注目ということで。

 

 

 

3. ペトロールズ "ないものねだり"


https://m.youtube.com/watch?list=PLtHA2-PaAY7eIpgF1Z_iKRK_IMlSlKV4z&v=UD-4bLTw3bU

 

はいきました、ペトロールズです。
東京事変が好きだったために、2代目ギタリストである浮雲さんの追っかけをしていたら辿り着いたこのバンド。これはまあみんなよく知ってるかなーと思ったんだけどでもオススメしたい。

うっきーこと長岡亮介氏のギターの見どころは、ずばり〈いろんな顔をみせてくれる〉ことにあります。事変の時もそうだったけど、うっきーが2代目としてメンバー入りしてから事変の曲のテイストの幅が広がった気がしませんか?あれは間違いなくうっきーのキャラクターが寄与して起こったことだと思っているんですが、めっちゃオタクっぽい文章すぎて書いてて引いた。

では曲について。
"ないものねだり"は、ペトロールズという3ピースバンドが決して長岡亮介を主体とした三角形ではなく、ベースのジャンボやドラムのボブの要素も欠かすことはできない、3人でひとつなのだと改めて思わせてくれるような曲だと思っています。無駄のない、洗練されたお洒落な曲という感じだろうか。歌詞はこれもまた失恋の曲なんだけどこれ失恋がお題でもよかった気がするね?

 

 

 

 


はい、ということで無事、三曲紹介し終えたので朝飯食ってきまーす。
朝起きてブログ書くの、割と楽しいけど全然時間足んねえわ。
みなさんよかったら聴いてみてくださいね、。

 

 


透子(どこよ @camelzback139)

 

 

 

 

 

 

大型新連載開始!!

 

 

あー***(@****)である。
管理人サマより「おまえは名乗るな!」とのこと、どうせ検閲で消されると思うんだけど、最初に名乗りを上げてみた。紳士だし。

 

 

さて、ブログですか?
何人かで無秩序に運営するブログはいずれ、コンクリートの壁に落書きされたグラフィティアートみたいな感じになるのかな。なにしろ書くテーマは自由らしい。私的な身辺雑記が塗り重ねられる場所では、まわりに類似色がない“固有の色”を出す方が賢そうだ。

 

 

固有の色、だとさ。

人間を色に喩えた安易は措くとして、そもそも個人の言葉に於ける固有性ってなんだろうね、という話だ。その延長上には、みなが「個性」として崇め奉る御神体の正体もありそうだ。

 

はっきり言うと、俺は個性という幻想をまったく信用していない。必死に自分の個性を吹聴する凡庸は、たとえばよく耳にする「わたしってよく変わってるって言われるの〜」という言いぐさへの反感を想像すれば分かりやすいと思う。
なんというか、個性は本来“孤性”とでも書くべき性質で、ほんとうに変わっているやつはいつも申し訳なさそうに俯いているものなんだ。どうせありがちな個性なら、それを恥じる羞恥心の方がずっと好ましい。

 

ところで、弱っている人間が魅入られやすい言葉にはふたつあるという。ちょっと考えれば分かる話なんだけど、それは「永遠」と「あなただけ」というやつだ。このふたつに通底するのは、人間に潜在する祈りである。

 

ひとは誰しも、特別で固有な存在「あなただけ」として認められたい。あまつさえそれが「永遠」に続くことさえ願う。
それはひとえに、たった1回だけ遊べるクソゲーで自分をやり抜くしかないからなんだけど、せめてそこに意味や価値を見出したい願いが個性を要請している。もちろん、マヌケな日教組が一緒になって個性教育の旗を振ってきた事情もある。実は教育の場で「個性」が謳われるようになったのは戦後からなんだ。人間それぞれの個性を価値として肯定しはじめたのは民主主義である。

 

そういえば、最近マストドンで友人がこんなことを言っていた。

 

「自分が特別枠じゃないと絶対に気が済まないんだよね、特別扱いしてくれない相手には興味がないんだよ」

 

なるほど率直である。
友人はたしかに衆目が認める個性的な人間ではあるけれど、俺はこれを「子どもの言い分である」と断じた。やや気分を害したらしい友人は「僕は精神年齢が著しく低いと自覚してるし大人を繕うつもりもなく散々公言もしてるが…」と抗弁する。

 

消極的な抗弁には少し違和感を感じたのだった。
子どもの振る舞いに開き直っている人間に「子どもの言い分」を指摘して、なぜ反発が生まれたのか。
察するにそれは、自分を特別な存在だと内奥で信じることはさておき、それを他人に求めても当然する発言には、やはり一定の羞恥を覚えたからだと思われる。

 

なんというか、「固有の色」を笑ったところから、いつのまにかずいぶん話が広がってしまった。これがブログの醍醐味だと言い訳することは易しいけれど、SNSとかブログとか、誰もが自分自身のあり方と格闘しているのが現代だとも思う。
一方で、自分らしさとか、個性とか、自分が特別な存在である証明とか、そういう幻想に裏切られた先に人間の成熟があるような気もしていて、自己紹介を管理人から禁じられた俺はいま、人間の成熟などずいぶん昔に放棄した俺はいま、30分で書き殴ったテキストにどんな色が泛ぶのか、少しだけ愉しみな心持ちでいる。

次は何について書こうかな。

 

 

 

 

 

 

 

日記とブログについて語るときにわたしの語ること

 

 

はい、タイトルからしてハルキストみが深いのをわかって頂けるかとおもいます、どうもおれです。

 

 

個人的に割と長く付き合いのある毛布兄貴から、「日記を書け、カッコ悪くてもいいし超大作じゃなくていいから書け」という脅し、アッいやお達しがありまして、自分の中のルール的に日記って他人に見せるものじゃないんですがまあ書きたいとおもいます。

 

 

 

 

 

まず日記というものについて、わたしの中のルールがあります。そこから明記していきますけど、書いてるおれがいちばんめんどくさいので読むのめんどくさくなったらまあすみません。

 

 

ルール1. 日記の内容が最悪誰にもわからなくていい、読んでる時に文脈が100パーセントわかる人間がわたしひとりであるならいちばんよい

 

ルール2. ぼかさない、ぼかすならばその理由さえきっちり書く(うまくいえないことを理由付きで述べる、と言い換えてもいいのかもしれない)

 

ルール3. 分量を定めない、思い出した時に思い出して書き留めておきたいことを書く

 

 

といった感じでしょうか。

みていただいた通り、わたしの日記は他者の存在が前提じゃないです。読者がわたしひとりという前提を覆す気はあんまりないんですね。だからテキトーに書くし、その時その時で日記の言葉選びの正しさの度合いみたいなものが全然違います。

女性は特に生理周期を測定するために毎日体温を測るひとがいますよね、男性だったらある一定の周期で髭を剃るでしょう、その時に自分がどれだけ"前と違うのか"で自分を見直すとおもうんですが、そんな感じと一緒だとおもってくれていいとおもいます。

 

これはキャスでも言いましたが、日記を書く、しかもmixiやブログではなくアナログにペンと紙を使いながら、という行為は、わたしにとって無駄遣いに浸る贅沢さを味わう意味と、自分の形を伴わない秘密を形作る整理整頓的な意味とがあります。そしてそれはひとりで行うからよりどちらの意味においても精度が上がるのであって、そこにわたし以外の人間は居ないし要らないのですね。

 

 

と、ここまで読んでくると

「じゃあなんでこのブログ立ち上げたの?」

っていう疑問が出てくるのは間違いないです。だってブログって日記じゃないの?ブログがある限り他者の存在は無視できないじゃん、やどかりのバカ!ってことになります。

 

なんの詳しい説明もなくこのブログを立ち上げて、もうすぐ1年が経とうとしています。このブログのルールは基本的に存在しません。それがルールだといってもいいくらいに基本的には自由です。まあ誹謗中傷はやめようね、というくらいです。

どれだけ書いてもいいし、どれだけ書かなくてもいい。

書くひともわたしの知り合いっぽければ基本的に誰にでもアドレスとパスワードを教えています。だからTwitterで知り合った本名さえ知らないひとの文も存在するし、同じキャンパスに通う仲間の文も存在する。

書く順番も決まってないので、全く更新のない月もあれば月に何本もブログが更新される時もあります。本当にムラがあって、そこが逆に面白いんだけど。

 

 

この場を作ったのは、大学の友達が仲間内で共用ブログを作っているのに憧れて真似っこしたのが始まりではあるんですけど、わたしはその"共用"という範囲を限りなく拡げてみました。

共用ブログを立ち上がる時からずっとおもっていたことなんだけども、Twitterは140字しか呟けないという制限の中で表現する場というだけなのにこんなにもたくさんのツイートが洪水のように毎日溢れていますよね。これって日常に即したツールだから勿論その時々によっても上手い下手があるし、長くいればいるほどどうツイートすればうまく言えるのか、うまくたくさんのひとに見てもらえるのか感覚として掴めますよね。だからこの場にいればいるほど、うまく表現できるかどうかの優劣みたいなものが目に見えてくるようになるんだと思っています。

 

わたしはTwitterを始めた時からずっと思っているんだけど、たまにうまく表現できない劣等感に押しつぶされてTwitterにすらいたくないとさえ思うことがあります。好きにやればいいのにどうしてもいうのが恥ずかしくなる。表し方が下手なのをなんとかして隠したくなってしまって。

で、まあ、居場所がないなら作っちゃおうねってことで、こうやって作ったわけなんですよ。あとはやるならみんなも巻き込んでやりたいし、どうせ気持ちよくなるならみんなも気持ちよくなれるような場所にしたかった。気軽に共有できて、かつ書き手個人のプライバシーがある程度守られて、ゆるく繋がっていられるような場で、拘束性がほぼない居場所。サイコーだと思いませんか?

 

 

ということで、今も変わらずこのブログは24時間365日ずっと書き手を募集しています。わたしの知り合いっぽければ、なんて書いたけど、別に知り合いじゃなくて、このブログになんとなく惹かれてどうしても書きたいんです、とかいうひとでもいいです。寄稿するのが一度きりでも構いません。募集しています。

 

 

この話のオチとしては、管理人のわたしがいちばんこのブログに積極的に書こうとしてない、というところです。

相変わらず言いたいことがしっちゃかめっちゃかでまとまってないけど、毛布兄貴許してくれ。

 

 

 

 

 

透子(どこよ @camelzback139)

 

 

 

 

うまくいえないひとたち。

366日目になった。

 

僕がまだうら若きバカだったころ(乙女に対応する言葉が男にはないのは不公平だ)に、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んで、こんなことを書いていた。

 

ーーー

その糸は、もう二度とほどけないんじゃないかと思うほど、グチャグチャに絡まってしまうことがある。

ほどくために自分が何をすべきか考え、糸が絡まってしまった原因を考え、ほどけなくなってしまう前になぜ気付かなかったのかを考える。その過程で、自分の過ちを想定する。

過ちを償うことはできない。背負うことしかできない。過ちは過ちでしかない。

だが、それは「なぜ?」の答えになる。

この世界では「不明である」という状態が最も恐ろしい。不明だったことが明らかになって、それに納得すれば消化できるし、必要なら反省もできるし、そこまで行ったら忘れることさえできる。

その糸は、ほどけたら失われてしまうのかもしれない。「関係」という、その一本の糸は。

 ーーー

 

そこにいたことを大切にしたい。今だって、いないけどいるんだから、不思議な話だ。

またな。クソッタレ。

 

 

ふわっふわの毛布

 

私とは合わないけど尊敬してる

よく当たると評判の、「しいたけ占い」の乙女座へのアドバイスが更新されていました。


私はハイパー乙女座と呼ばれる乙女座で、現実主義者のくせに占いをわりと良く読みます。

統計学をまぁまぁ信用しているから。「おばぁちゃんの知恵袋」と同じくらい。

乙女座の人らをいっぱい見てきたおばぁちゃんの言うこと、ちょっと参考にしたい。



そうはいっても占いは占いなので、誰にでも当てはまるようなことを書いてある場合が多いわけですが、今回気になったのは"「私とは合わないけど尊敬してるよ」と相手に言うことが大事"だという話。

これって、乙女座に限らず対人関係では大事なんじゃないかなぁと思います。

(乙女座がどうしても他人に合わせたり巻き込まれたりしやすい性質だから、たまには切り離してもいいよという話だとは思いますけど)



"私とは合わない"って言われたら結構ショックだけど、その後に"尊敬してる"なんて言われたら、先ほどのショックを大きく上回って気分上々↑になりますよ。

こんなん、対人関係における魔法の言葉なんじゃないでしょうか……。



私個人は「尊敬する」という言葉は「降伏する」くらいに重い言葉という認識があったので、そんなにポンポン使いません。

でもこれからは少し苦手な人でも尊敬できる部分を探して、正直にそう言っていきたい。


今後私から「尊敬する」と言われた人、私とは合わないけど尊敬してるので許して〜〜!



会いたい人には

どんなに時間が無くても、どんなに疲れていてもその人1人くらいを気遣える余力が残っていたら会いたい人に会いに行きたい。

 

旧友でも好きな人でも知らない人でもネットの人でも沢山の会ってみたい人に出会って話して色んな考え方を知ってみたい。

 

今も変わらずそう思えるのはこの一年で出会ってくれた人と過ごした時間がとても、とても楽しかったから。

 

ありがとう。

 

人と出会うことに対して一歩踏み出してからもうすぐ一年。

 

また一年楽しく過ごしてやるぞ!

 

 

何をするにもまずは健康でなくてはね。

暑い日が続いておりますがこれを読む皆さまもよく食べよく眠りよく心を動かしご自愛下さいませ。

 

 

おやすみなさい。

よい夜を。

 

 

 

お恋

ラーメンと、アイドルマスターと、人生を形成する3つのサムシングについて

「書く」ということは、僕が動物のようになってしまうことを回避するためには絶対に必要なことだと思っている。もちろん、呼吸をするかのように書き散らすとまではいかない。それが出来ないのだから、偉そうに「書く」ことについて語れるような立場でもないのだが。

ただ、ランダムにキーワードを募ってまで「書く」という作業に身を投じたくなるときがあるのだ。そしてその理由を説明していけば、きっとその過程で無作為な話題にも筆先が繋がっていくだろう。僕にとって「書く」というのは、びっくり箱のような、不思議で楽しいものだ。

 

ツイッターのネタになるかと思って大人になってから読み返した10代の頃のmixi日記で、僕はしきりに「書くというのは規定することだ」と綴っていた。

曖昧で形のない思念に、文字という記号で、目に見える輪郭を引いていく。 その営みの中で言葉になったものは、言葉になる可能性があったものの全てではない。だが、表現しきれなかったものは切り捨てられて、どこかに消えていってしまう。

 

たとえば「好きな食べ物を一つ挙げてください」というアンケートに「ラーメン」と記入したとしよう。この時点で、そのやり取りの中ではラーメンだけがスポットライトを浴び、カレーとかオムライスといったラーメンに引けを取らない他の好物たちは否応なく退場させられてしまう。

また「ラーメン」とだけ書けばあらゆるラーメンに対して好意を持っているということになるが、一方で僕は絶対に味噌ラーメンは食べない。とすれば、そこで「ラーメン」という回答をするのは相応しくないことになる。

とはいえ「味噌以外のラーメン」と書けば殊更に味噌の存在を強調してしまって「味噌ラーメンが嫌いだ」という表現だと受け取られかねない。

そんなわけで、僕はラーメンの種類をさらに限定して、鶏ガラ系の醤油ラーメンや魚介系の塩ラーメンに後ろ髪を引かれながら「横浜家系ラーメン」と書かなければならない。

このとき、その記入スペースには「薄焼き卵でチキンライスを包んだクラシックなオムライス」と書かれていた可能性も同等にあったはずだ。しかし、僕は「横浜家系ラーメン」を選択し、他の可能性を捨ててしまっている。

「書く」というのはそういうことだ。

 

僕は筋金入りの東京タラレバ息子だったから、「あのときこういう風に言えていれば」とか、「こう言ってたらもっとうまくいったかもしれない」なんて無意味なことを、よく考えていた。

結局のところ、自分が表現するときに持っている発想力のモノサシで届かない範囲の物事は、そのときの自分には取り扱いようがない。それは誰にとっても同じで、誰にもどうすることもできない。後からもっと長いモノサシを引っ張り出してきたところで仕方がないのだ。

僕たちはそのときに取り扱える範囲で表現を規定し、はみ出す部分は捨てるという選択をしなければならない。

まだセンシティブだった10代の僕はその受け入れがたい事実と向き合うために、繰り返しそれを確認していたのだろう。

 

 選ぶ。決める。捨てる。

この3つの行為は、僕の人生のあらゆる局面に登場してきた。誰でもそうだと思う。与えられた自由の中で人間的に生きるためには必要不可欠なことだ。

それをしなければただそこに立ち尽くすばかりで、どこにも進んでいくことはできない。いつまでも保留していたら、そのままいたずらに生を消費して、生産性の無い存在になってしまう。それはいかにも動物的で、社会的生活とは言えない。考えただけでもだんだん苦しくなってくる。

 

選んで、決めて、捨てる。そして前に進む。

それはアイドルを育成するのとよく似ている。

 

 

 

 

 

…いや、今のところ似てないよ。似てないんだけどさ。この流れでアイマスぶちこむのは正直結構キツいって。だけどしょうがないじゃん。とりあえずぶちこんでみたらいいじゃん。ぶちこんでから考えればいいじゃん。

 

 

……それはアイドルを育成するのとよく似ている。輝く星に憧れてオーディションにやってくる原石たち。まさしく可能性の宝庫だ。しかし、全員がアイドルになれるわけではない。

河原の石ころは磨いても光らないとか、決してそういうことを言いたいのではない。宝石がどこにでも転がっているものだったら、それは河原の石ころと変わらなくなってしまうということだ。

 

いや、やっぱ無理だわ。「書く」こととアイドルの育成は似てない。全然似てないよ。アイドルを育てたかったら文章なんて書いてる場合じゃない。金を積め。金を積んで石を買うんだ。石を砕いて射幸心の虜になるのだ。それがアイドルの育成だ。射幸心の家畜となって動物化していくのだ。ブヒブヒ言うのだ。

 

えー、ゴホン。さて、僕にとって「書く」ということは「選んで、決めて、捨てる」という行為について考えるための手段で、それによって僕は自分の人生を形成し、目指すべき方角を照らしてきた。手探りで書いてみないと、今自分が何を考えているのか、何が大事で、何が大事ではないのか、僕にははっきりと分からないのだ。だから書く。きっとこれからも、そうしていく。

 

ふわっふわの毛布

ラ・ラ・ランド

ネタバレどんと来いさんいらっしゃいませ。こんばんは。

 

今日はふわっふわな毛布のお兄さんへ捧げる旬な映画のレビューをネタバレありでお届けします。

 

 

この映画をまだ観ていないひとに紹介するとしたら「舞台は夢を追いかける人々が集う街ロサンゼルス ハリウッド。それぞれの夢の実現を目指すミアとセバスチャンが出会い過ごす日々がロマンチックかつ心躍るオリジナルサウンドのもと往年の名作を彷彿とさせる極上ミュージカルで描かれる。」って感じでしょうか。

 

予告に使われていた楽曲も良かったけれど、終盤でミアが独唱するかつてはふたりで歌った歌も好きだな。あれも入っているならサントラを欲しいくらい!

 

冒頭やパーティーでのダンスシーンの衣装はハッキリとした発色で歌とダンスに加えてそのカラフルさが楽しい。

 

所々、これって確か......と思わせるオマージュに心掴まれ......。(気になる方はまずはカサブランカ雨に唄えばを観てみて下さい。)

 

はあー。ミュージカルシーン最高。

 

 

でもね、皆が喝采するのはその心躍る部分の後にやってくるリアルがあってこそだと。ふわ毛さんが言っていたのはこういうことだったんだって。

 

ラ・ラ・ランドって聞くからに楽しそうな響きだし米俗でハリウッドという意味があるなんて知らなかったわたしは、ふわ毛さんのブログを読むまでは歌って踊って楽しくて分かりやすくハッピーエンドな映画だと思っていたんですよ。

 

実際は、、、うぅ〜ン!そう終わるかー!っていう全く予期していなかった結末。

 

でもその驚きは落胆じゃなく、夢見る子どものわたしを差し置いて現実に足を浸した大人なわたしが好意の興奮を覚える種類のもので。THE ENDを見た瞬間拍手したくなったのを我慢するくらい笑

 

酸いも甘いも苦さまでも知った大人に見て欲しい。あのラストシーンで見つめ合うセブ(セバスチャン)とミアの表情、あなたはどう思う?って聞いてまわりたい。

 

あんなに譲らないと言っていた店の名前をミアが考えたものに変えて夢だった自分の店を構えたセブ。そのお店を今や映画で主演をはるハリウッド女優でセブではない男性の妻となり一児の母となったミアが見付けてくれた。

 

セブは嬉しさとまだミアを想う情けなさと今ミアの隣に居るのが自分ではない哀しさとミアの成功と幸せを祝う気持ちとが混ざったような何とも言えない表情。

ミアは、「お店の名前をわたしが考えたあの名前にしてくれたのね。あんなに変えないって言っていたのに。わたしはもうあなた無しで暮らしているのに。二人でいる未来はもうないのに。」という感じの気持ちとお互いの夢の実現を祝う気持ちとまだセブを想う気持ちはどこかにちゃんとあるけれどわたしはわたしの幸せを生きるわって気持ちが混ざったような表情。

 

そしてお互い未熟だったよね、でも楽しかったみたいな気持ちもあったのかな。

 

わたしにはそう映った。

 

 

大人になれば誰かを片隅で大切に想いながら別のそれ以上に大切な人や大切にしなければならない人と暮らしていくこともあるでしょう。

 

お互いに生涯忘れない存在であり続けるという二人の終わりであり今後。

 

夢を追う日々をともに過ごした二人が報われて結ばれてハッピーエンドもいいけれど、これは現実を生きるわたしたちにはとてもリアルなハッピーエンドだったんじゃないかな。

 

観てよかった。

 

デートで観るのにお勧め?って聞かれたらうなっちゃうけれど、わたしはラ・ラ・ランドを観てよかったねって言い合えるひとと一緒にいたいからあえて観に行ってみたいな笑

 

好きな映画が1本増えました。 

 

 

それではこの辺で。 

お恋

『ラ・ラ・ランド』 〜 現実はいつも厳しい

2012年に『レ・ミゼラブル』でアン・ハサウェイが「I Dreamed a Dream」を歌い上げ、助演女優賞でオスカーを獲得してから5年という月日が流れた2017年、ロサンゼルスの街で暮らすワナビーたちが、今にも破れてしまいそうな夢を見ながら現実と向かい合うミュージカル映画ラ・ラ・ランド』が公開された。

 

恋人が予告を観るたびに観たい観たいと繰り返していて、なんだか逆に冷めていたというか、そこまでの熱量もなく付いていった映画館で、僕はスクリーンに映し出された物語に釘付けになった。上映終了後、恋人の数倍の熱量で感動を語ってしまった。早口で喋ることオタクの如しである。

 

核心に迫る内容を書きたい。以下ネタバレである。まぁ観に行けや。損はしないよ。すごくよくできてる。

 

 

※※※ネタバレします※※※

 

 

冒頭。渋滞中の高速道路で、大人数のド派手なダンス。歌われるのは「明日は新しい日で、いつか夢は叶う」という内容の明るいナンバー。現実にありえない光景。高速で人々が次々に車から降りてきて、歌って踊る。まさしく夢の空間。

それはそうだ。現実には、夢を追う人の列は大渋滞。明日まで待とうが車は全然動きそうにない。「夢は叶う」なんて言葉は大きな嘘。自分をギリギリ騙すための祈りの言葉だ。

 

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望。オーディションを受けたところで、ロクに取り合ってもらえないような毎日。

主人公のセバスチャン(ライアン・ゴズリング)はピアニスト。時代遅れになりつつあるジャズにこだわるが、演奏したくてもさせてもらえる環境すらなくなっていき、好きな曲を演奏できる自分のジャズバーを出店することが夢だ。

 

ふたりは夢をみる。しかし現実は非情だ。打ちひしがれる。自己実現の機会を求めてもNOを突き付けられる毎日。それでも夢をみる。夢を追えば追うほど、現実を見るのはつらくなる。夢を捨てたら夢を追った月日は無意味になるのだから。

出会ったふたりは、夢を追う相手に、夢を追う自分の姿を重ねた。すぐに惹かれ合い、支え合う関係になる。

 

ミュージカルナンバーがかかるのはラブリーでスイートな夢や恋の世界に没入していく瞬間か、諦められない夢や輝かしい未来を語るとき。それは全編を通して徹底されていた。そして曲が終わると、必ず厳しい現実が突き付けられる。オープニングからエンディングまでずっとだ。楽しくて華やかな歌と踊りで、映像と音声のテンションが上がれば上がるほど、現実に立ち戻ったときのみじめさが際立つ。

 

要するに「おとぎの国」を意味するタイトルが冠されたこの『ラ・ラ・ランド』という作品で描かれているのは、決して夢と希望と恋のめくるめく世界などではない。キラキラした夢で人を魅了するステージには、必ず舞台裏の人間臭い世界があるということだ。僕たちが懸命に生きる現実は、全然都合よく割り切れないということなのだ。

 

流石にここまで読んで、まだ観てなくてこれから観に行きたいという人はいないと思うから言ってしまうけど、はっきり言ってステレオタイプなハッピーエンドとは程遠いじゃないか。

互いに夢の実現を誓い合って、永遠の愛を語って、それで離れ離れになったふたりの間に5年という月日が流れ、互いに夢を叶えたら。物語は普通どのように閉じられるものなのか。

当然、再会してキスして結婚してハッピーエンド。この流れではないのか。それがフィクションにおける自然な理路なのではないか。映画館は非日常を提供するんだから、そこではカタルシスが差し出されるべきなんだ、観客はお約束を求めているんだ、という。

 

ラ・ラ・ランド』は、そんなもんは大嘘だ全部クソ喰らえとハッキリ言ってしまった。

セバスチャンは、街に貼られたミアの大きなポスターを横目に見ながら、念願のジャズバーにミアが提案した名前をつけ、いつかミアが来る日を待ち望んでいる。

しかし大女優になったミアは、セバスチャンではない、金を持ってそうな他の男と結婚して、あろうことか子供までいるのだ。

そうだ。そうなんだ。これが現実だ。スーパースターの女優様が、修行時代に付き合ってたピアニストと一途に結ばれるなんてあり得ないんだ。だってそうだろ。なんでわざわざ苦労した時代を噛み締めなきゃいけないんだ。華やかな世界を目指したんだから華やかな相手と華やかな人生を送るんだよ。

ラストシーン、ピアノの前に座るセブに微笑みかけるミア。なんとも言えない表情で返すセブ。お互い夢叶ってよかったわね、ありがとう、おめでとうみたいな表情のミア。なんとも言えない表情のセブ。なんとも言えない。

 

ラ・ラ・ランド』は最高に痛快な作品だった。人間は矛盾するし、嘘をつくし、嘘でもついて自分を騙しているくらいじゃないと夢なんか見ていられないのだ。現実はいつも厳しいのだ。

細かいところまでこだわられている作品なので、まだまだ言いたいことはあるけれど、キリがないので、今日はここまで。もう1回観に行こうかな。

 

櫻井ラーメン いそのかづお 札幌ブラック

今回のラーメンは、札幌において知る人ぞ知る隠れた名店、いそのかづおです。

 

 

 

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まず出迎えてくれるのは、この人目を引く個性的な看板。店主のこだわりとお茶目さが一目で分かります。

 

ここのお店の特徴として、まず開店時間が夜の10時から、ということ。お酒を飲んで〆の一杯として訪れる人が多いです。カウンター7席というこじんまりとした店構えですが、訪れた日も多くの人が並んでおり、結局1時間ほど並びました。

 

 

 

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そしてこちらが待ちに待った札幌ブラック(800円)!黒い!圧倒的なまでの黒いスープ!しかし口に含んでみると見た目ほどしょっぱくはなく、甘みも感じられ、スイスイと飲めていきます。

 

麺は黄色い太ちぢれ麺で、これがスープによく絡み、とても相性がいいです。

 

トッピングには、チャーシュー、メンマ、ゆでたまご、キクラゲ、ネギ、もやしとなっており、札幌味噌ラーメンと一緒の作り方で、フライパンで野菜を炒めてからスープを煮込んでいます。

 

 

 

夜の10時~朝の6時までという遅い時間帯にしか営業していないお店ですが、本当にここは美味しいのでみなさん機会があれば是非訪れてみてください。

 

 

[データ]

●店名:櫻井ラーメン いそのかづお

●住所:北海道札幌市中央区南5条西5-21 第2観光ビル1F

●営業時間:22:00~翌6:00(スープが無くなり次第終了)

●定休日:日曜日

 

股ずれ大五郎

消化に優しくないこと

SMAP解散。こういった時事ネタは鮮度の高いうちに触れておかなければならない。

 高度情報化社会において、もっとも優先されるのは速報性だ。誰もが容易に発信できるからこそ、新たな情報はいち早く出さなければ注目を集められない。

その次に情報の詳しさが求められる。より詳しく報じようとして、各メディアが少しずつ新情報を加えていきながら、繰り返し同じニュースを取り扱う。

受信する側は次第に食傷気味になり、そこまできてようやくそのニュースは報じられなくなる。それは擦り切れるまでリピートされたビデオテープが最後には捨てられてしまうのと似ている。

 

さて、SMAP

日本を代表する国民的アイドルだ。僕自身にとっても、物心ついたときには既に、そして常に画面の向こう側にいた馴染み深い存在。アラサー以下の世代の人たちは、みな似た感覚を持ち合わせているはずだ。

 

今日、アイドルがバラエティ番組で身体を張ったり司会をしたり、ドラマや映画で主役級の俳優として演技をしたりして、お茶の間に笑いや感動を届けるのは当たり前になった。その流れを作り、それを普通にしたのは、他ならぬSMAPだという。

SMAP以前のアイドルは、容姿の優れた人が歌って踊る、そこで完結して何ら問題がなかったそうだ。もっと言えばミステリアスなくらいがよかったのだと思う。人間性の部分はあまり晒け出さずに、まさしく偶像としての役割を担う。理想を背負う。トイレにはこっそり行く。

そういうステレオタイプを打ち破ったのが、SMAP

アイドルっぽいキラキラした応援ソングも勿論歌っているが、一方では「血圧がどん底だけど仕事だからとりあえずがんばりましょう」というようなゆるいメッセージも発信しているし、突出して光り輝くものがなければ埋もれてしまう芸能界にいながら「ナンバーワンじゃなくてよくない?人それぞれいいとこあるよ」と言ってのけた。

冠番組ではふざけたメイクやコスチュームでコントもした。罰ゲームを受けて情けない姿も晒した。

意図されたことではないだろうが過ちも犯すし、それでも表舞台から逃げずに反省して、申し訳なさそうに復帰した。

""アイドルだって人間""という演出が、彼らを親しみやすい人気者にしたし、支持を集めた最大の理由ではないか。

 

この辺のことはアイドル評論なんかを読むと全部既に書かれていることで、何を今更と言われてしまうような話だが、解散について触れるには振り返る必要があった。

というのも、2016年1月に年内の解散が報じられてから、SMAPはこの件についてほとんど何も語らなかったからだ。

 「SMAP×SMAP」の最終回を見ていて強く思ったのは、彼らの活動の軌跡、番組の歴史が延々放送されながら、2016年には全然踏み込まなかったなということだった。

木村拓哉の代表的フレーズと言えば「ぶっちゃけ」なのだが、全然ぶっちゃけなかった。人となりを、人間的な部分を晒け出すことで人気を博してきたSMAPは、2016年、物言わぬ貝になってしまったのだ。

 

なぜ解散するのか。

ファンの、そしてお茶の間の最大の疑問は、あくまで憶測としてしか語られていない。

しかし、そのことが、SMAPというグループを伝説的存在にしていくのではないだろうか。

 

死人は語らない。

カート・コバーンジミ・ヘンドリックスが現在でも世界中で知られているのはなぜか。生前の功績はもちろんのこと、その上で若くして何も語らずに逝ったからではないか。日本で言えば、尾崎豊だってそうだ。病死も括りに入れれば、松田優作夏目雅子にも同じことが言えるはず。

もちろんSMAPのメンバーひとりひとりは死んだわけでもないし、これからも個別に活動していくだろう。だが「SMAP」は何も語らないまま死んだ。

取り残された人々は、その死を消化できずにいる。分からないことが残っているからだ。明かされなかった真実は、明かされなかったこと自体が心に焼き付けられる。多分これからも簡単には明かされないだろう。恐らくはそういう演出意図があったはずだから。

 

ものすごいスピードで何もかもが消費されていく現代社会で、解散したというニュースは忘れられてしまうだろうが、SMAPという国民的アイドル自体は、過去のものになったとしても、簡単に擦りきれて捨てられてしまうようなことにはならないと思う。そもそも消費しきってしまうための情報が欠けているのだから。

 

日本のアイドル文化にもたらした功績も、その幕引きも、やはり彼らはアイドルとして色褪せないオンリーワンだった。そんなことを感じた。

 

 

ふわっふわの毛布

タマ's映画MEMO

チョリ~ッス!タマです。


アカウントは消えましたが、ガムクチャへのストレスは消えそうにありません。

昨日はガムクチャしながらのメモ書きをされたので、渡されたメモに飛んできたであろう唾が付着していて、私の意識も飛びそうでした。


そんなストレス社会と戦う私のストレス解消法のひとつ、”映画鑑賞”。今日は、最近(11月~12月)観た映画の感想を書きたいと思います!
映画選びの際の参考に少しでもなると嬉しいです。

 



タマ's映画MEMO

~11月・12月版~

※あらすじはメンドクサイので書きません。

 

➀『HK  変態仮面』(2013)

監督:福田雄一

出演:鈴木亮平ムロツヨシ安田顕、他

HK/変態仮面 [DVD]

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 オススメ度   ★★☆☆☆

スカッと度 ★★★★☆

イケメン度 ★★☆☆☆

くだらね~~~~!!くだらないのに、ちょっとなげぇ~~~~!!!!

『勇者ヨシヒコ』シリーズでおなじみの監督・福田さんの作品。最近話題になっている『銀魂』の映画化の際の監督も福田さんですよね。

この作品の一番の見どころは安田顕さんの演技だと思います。本当に気持ち悪かった(褒めてる)。クレしん好きな人にはオススメかも。くだらなすぎて笑えたのでスカッと度は星よっつです!!!

 

 

②『明烏』(2015)

監督:福田雄一

出演:菅田将暉城田優ムロツヨシ吉岡里帆、他

明烏 [DVD]

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オススメ度   ★★★☆☆

スカッと度 ★★★☆☆

イケメン度 ★★★☆☆

同じく福田監督作品。構成がポップな落語って感じで好きな人はスゴク好きだと思います。オチは見えているけど、ムロツヨシがずるいので面白いです。ムロツヨシを見て。ムロツヨシがムロッてるから。

今人気の若手俳優・菅田くんがコメディにも挑戦したってことですけど、コメディでもガンガン活躍してほしいですな!!

 

 

 ③『七人の侍』(1954)

監督:黒澤明

出演:三船敏郎志村喬加東大介木村功、他

オススメ度   ★★★★★

スカッと度 ★★★☆☆

イケメン度 ★★★★★

おなじみ(?)の今更シリーズですわ……黒澤監督作品見たこと無くてやっと観ました。オススメされたときは「え~~なんか小難しいやつ~~?メンドクサイんですけど~~?」と思ってたけど、周りの映画好きが絶賛するので観てやるか~くらいの気持ちで観たらホント面白かったです。”通が好きな映画”とかじゃなくて、純粋に今観ても面白い。こんなに昔の映画なのに面白いって凄くないですか!?

またね、このパッケージにデーンと出てる「菊千代」が本当に良いキャラで。タイトル通り侍が七人出てくるわけですけど、みんな別に美男子とかではない(菊千代は別)のに本当に格好いいのでイケメン度星いつつ!!!!

私のことも助けてくれ!!!

 

 

以上、最近観た映画でした。少なっ!!!

いつか小説版も紹介させてもらいます。

タマでした。

バイビ~~~!

 

P.S. ブログ開設してくれたとうこちゃんありがとう。ナイスブログ。みんなの記事、たまに読んでま~す。これからも楽しみにしてます。

 

世界はひとつになれない

賛否両論の暗喩と化した星野源の話をする。

 

イケメンではない。誰が言ったか知らないし、誰も言ってない可能性もまぁまぁ高い、星野源イケメン説。「イケメン」の定義にもよるが、やや魚顔である。

ブサイクでもない。チヤホヤされている彼を見て、なぜチヤホヤされているのか分からないがために、妬ましさから一定数の人が言ったであろう、星野源ブサイク説。「ブサイク」の定義にもよるが、やや魚顔なだけである。

 

芸能人は外見もひとつの商売道具だし、バラエティ番組に頻繁に出演しているのでもない限り、自分から詳しく知ろうとしなければ外見による判断がそのままタレントの評価になる場合も多々あるだろう。

 

世界はひとつじゃない

ああ そのまま ばらばらのまま

世界はひとつになれない

そのままどこかに行こう

 

星野源がソロデビューした2010年、最初にリリースしたアルバム「ばかのうた」の1曲目。「ばらばら」の最初のフレーズである。

今の彼に対する評価、彼について語ろうとする人々をそのまま詞にしたような、そんな歌。

そして、それは至極当たり前のことだ。とても普通の人が言う、普通のことだなと思う。少し安心する。

 

ただ、どちらかに偏った方が、生きることは刺激的になる気がする。

「人それぞれいろんな考え方があるからね、だから肯定的な意見も否定的な意見もあるよね」よりも「あれが好き!これが嫌い!」って表現した方が、しなかった人より何か起こりそうな気がする。良い意味でも、悪い意味でも。

客観的に物事を見ることができるのは重要だが、そのために主観を捨ててしまうなら、代わりに監視カメラでも置いておけばいい。そこにお前は必要ない。

観察者である前に、ひとりの表現者でありたい。だから僕は星野源が好きだと言おう。彼のマルチな才能は、いろんな場面で僕の心を少し豊かにしてくれる。

 

土はこれからもぬかるむだろうけど、アスファルトで固めようとしなかったくだらない心の上に建てた家で、ばかなうたでも唄いながら一緒に揺れようぜと、優しい声で語りかけてくる彼は、すごく魚顔である。

長過ぎた前置きを消すことができない弱さについて

残業残業雨残業(これはどの程度の範囲まで伝わるネタなのか)という感じの多忙な時期を乗り越えて、ゆとりある生活が戻ってきた。ゆとりがあり過ぎて午前9時ごろからブログを書ける。

残業といっても、世の中の社畜(会社に飼い慣らされて思考を停止し、動物化した畜生)様に比べると大したことはない。19時に業務を終えて20時過ぎには帰宅できるなんて、残業のうちに入らないとおっしゃる患者さんも多いことだろう。

 

ただ、朝の7時までには家を出て、帰ってくるのが20時だと、仕事のための時間が13時間。6時間くらい睡眠をとりたければ、残された時間は5時間しかない。

前日に残した洗い物を片付け、それから食事を作ればそれだけで1時間経つ。その上で食事を摂って、風呂にも入らないと。さらに、少なくとも3日に1回は洗濯をしないと困ってしまう。

当然、これらすべてを労働による疲れを感じながらこなさなければならない。

これは仕方ないのだ。分かっている。そうしなければ非人間的な生活をする羽目になってしまうのだから。

 

評論家の宇野常寛氏だったと思うけれど、数年前に氏のラジオ番組で、都心部において夫婦が共働きして生活するとき、家事を完璧にこなすことはとても難しいという話をしていたように記憶している。通勤時間を極力圧縮しないと無理っていう話だったかな。

実感として正しい話だと思う。私自身は家事をこなすためのエネルギーが残るように省エネで仕事をするように心掛け、極力定時で席を立って17時半には帰宅できるようにしているが、それでも平日に部屋の整頓や細かい部分の掃除までは手が回らない。

だって疲れるじゃん。

 

現代の都市生活には息苦しさが蔓延している。必要なカネに対して貰えるカネが少ないからだ。

旧世代が働き蜂として汗を流し、豊かにしてくれた日本という国に生まれた私たちは、技術力に比例して高くなった生活水準の平均値を維持するために、昔よりも多くのカネを必要としている。しかし企業は功労者たる旧世代に多くのカネを払ってしまっているので、後からきた若者たちには安い待遇しか与えることができない。

共働きするしかないでしょう。少なくともパートはガッツリやってもらわないと貯金なんかできませんって話だ。

あ、上位数パーセントの高収入若手の話はしてませんからお帰りください……って、

 

どうしてこんな話になったんだよ。

こんなつらい話をするくらいなら、ふわふわパンケーキが美味しいぽよ〜みたいな脳みそスカスカな話がしてぇわ。

そもそも生活に少し余裕が取り戻せたから少ない時間でクライムサスペンスもののアニメを見漁ってますって話がしたかったんだわ。

権力機構っていうのは暴力を合法的に独占することによって成立するみてぇな話から監視社会と化した現代を憂うみたいな話がしたかったんだわ。

 

ハーッ!おちんちんおちんちん!おちんぽちーーーーーんぽっ!!!おわりっ!!!!

帰らない、でも待っててね

 

 

 

今週土曜御茶ノ水で18:30に待ち合わせよう、というのがわたしと幼馴染との最終的な会話の着地点だった。

 

部活終わりにせっせと楽器を片して、弓についた松脂を拭う中で「前回会った時はつまんなかったよなあ」と幼馴染との再会を特に喜んではない自分がいた。

 

 

わたしと幼稚園から幼馴染の彼女は、正反対だ。

活動的でバレーボールをやっていた彼女と、インドア派で図書室でダレン・シャンシリーズを片端から読み漁っていたわたし。

わたしは私立中学に進学して、彼女は地元の中学へ進学して、それっきり私たちはいま住まう場所さえも違っている。

 

ただ、小学生の6年間の登下校を共にするくらいには、仲がよかった。他の幼馴染を含めて4人で毎週金曜は、わたしの家で先週のエンタの神様で観た芸人のネタを披露するそいつを他の2人とわたしが見ては笑い転げるのが通例だった。今考えたら意味わかんないけど、小学生なんてわけわかんないことで面白がってるもんである。

 

でも大学生になっても根本的な考え方は全然違うようで、家庭になんか入るもんか、ひとりで生きていくんだと意地を張るわたしにとって、家庭に入って安定した生活を送りたいと思う彼女はとてもつまらない人間のように見えていた。

「いまの彼氏は束縛強いけど、まあ結婚できたら安牌だよねえ」と日本酒をかっくらう一年前の彼女の姿を見ながら、「なにこいつ全然つまんねえなあ、もっと失敗しろよバーカ」と当時セフレがいたわたしはハイボールを静かに飲みながら思っていたわけで。

 

 

 

重い足を引きずりながら、御茶ノ水駅の聖橋口で待っているという彼女の姿を探して、目に映るまでは、ほんとうに帰りたかった。無駄な時間なんだろうと。

 

 

 

ただ、聖橋口の切符売り場の柱にもたれて携帯をいじっているその彼女の姿をみて、「ああ、ほんとうになんでこいつが東京なんかにいるんだ、」と思って、笑いが止まらなくなっていた。

 

 

「よー久しぶり」

『うわー全然変わんないじゃん」』

「お互い様でしょ、おかけで見つけやすかった」

『あ、田舎者オーラ出てました?すっみませーん』

 

嘘だった。ほんとうに綺麗になってて、最後に地元で会った彼女とは違っていた。変わっていた。それが少し寂しかった。

 

 

御茶ノ水のミライザカで話を聞けば、一年前に付き合っていた彼氏とはもうすぐ別れるつもりでいて、確かに結婚はしたいけど学費を自分で稼ぐ彼女にとって就職して2、3年は働くことは避けられない運命らしい。

失敗したくなかったのだ、と彼女が澪を飲みながらつぶやきはじてから、黙って耳を傾けた。

失敗したくなかった自分が、出来のいい兄や姉とは違うのだということを希望する大学への受験に落ちたことで思い知ったこと、親に言われて歩いてきた教師への道を歩むのを自分の意思でやめたこと、失敗したことで自分のやりたいようにやりはじめられているということ。

彼女は淡々とそういうことを語ってくれた。

 

 

わたしは彼女の中高時代を、その時聞くまで知らなかった。

それは彼女も同じで、私たちは4人の幼馴染の中で最も距離が近いふたりのはずなのに、何にも知らなかった。

知らないことを責めることすら、頭にないくらい、私たちは近いようで遠かった。

 

 

『あー話せてよかった。なんでホテルとっちゃったんだろー泊まりにいけばよかった。』

「じゃあまた今度だねえ」

『年越し帰っておいでよ。絶対ね』

 

そう言って、彼女はわたしと違う方角へと帰っていった。

手を振りながら、帰省する日はいつだったか、と考えている自分がいた。

 

 

 

わたしは、きっと地元には帰らない。

帰りたくない理由もある。家族がいずれ地元を離れて東京に来るかもしれない可能性があるから、というのもある。

だからきっと、彼女とまた会うには会いに行かないと会えないということになりそうだ。

 

帰らないつもり。でも会いにいくから、待っててほしい。

 

 

 

 

透子