うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

愛と赤い蛇と閾値の話

クソ長いから引き返せ。




先日、二度目のワクチン注射を終えた。
副反応というのはわりあい覚悟していたものの少しばかりの倦怠感や発熱程度のもので、
特に体調不良と言う事もなくやり過ごせた。

と、自分では思っていたのだが、どうやら体温も高く傍目に見ると顔は真っ赤だったとのこと。妻に大いに心配をかけてしまった

怒りや悲しみや喜びみたいな感情を、ちょっとした閾値を超えてこないと自覚できずに溜めてしまう性質については自覚していた。

閾値というのは反応や動作、効果などが現れる最小ラインの数値の事で、つまり小さな怒りや悲しみはそのラインを超えずに表面に現れないしだいたい自覚しない。

体調の方についてもそうなんだなあと我ながら関心したのだけれど、この時たぶん過去一度感情が閾値を超えた時の事と、
その性質を持ってしまった(たぶん)時の事を思い出した。

ネガティブな不幸自慢みたいなのがたぶんクソ長くなってしまうかもしれないけれどまあ夜中の独り言。
書きなぐるだけ殴らせてくれ




私の机の正面の壁には、ビーズで編まれた赤い蛇の刺繍が額に入れて掛けてある。
愛とは何か、難しいややこしい話だけれど
私にとってはこの赤い蛇のビーズ刺繍が、形ある愛のように思う。


もう6年ほど前か、私は茜さんと名付けた赤い蛇を飼っていた。
今も蛇とヤモリを一匹ずつ飼育しているが、茜さんは私が初めて飼った蛇だった。
顔に対してまだ大きな赤い目が可愛らしく、そしてそれなりに危ういベビーの頃から一緒だった事もあり
今でも赤いコーンスネークは思い入れのある生き物だ。

やがて私の至らなさか、茜さんは寄生虫にやられ体調を崩してしまい、結局はまだ大人にもならないうちに死なせてしまった。
冬の事だったが、腹側に局所的に温めるヒーターを敷いていた。
私が家に帰って気づいた時には温められた腹がもう黒ずんでしまっていた。

哀しむだとかそういった事より先に、これ以上腐敗を進行させたくないと、その為の処理をした。
処理とは、腹がうすら黒くなり少し腐臭を発していた茜さんをタッパーに入れ、弔う時まで冷凍庫で凍らせる事だ。
本当はまだ生きているのでは、と思いたかったがもう無理だ。持ち上げた時に感じる感触には、そこに命が既にない事が確かに感じられた。

冷凍庫のドアをしっかりと、閉めた。


それから茜さんの生きていたケージを掃除し熱殺菌し、
そしてその時付き合っていたひとに、今の妻なのだが、
茜さんが死んでしまった事を伝えた。

彼女も茜さんの事を可愛がってくれていたので、それは伝えなきゃなと、確か簡素な感じで連絡したように思う。
彼女は悲しんでくれて、そして私を心配し、今からでも少し離れた私の家に来てくれようとした。

既にすべき処置が全てすんだ事、茜さんはもう冷凍庫の中で眠っており、しばらく(私の感情として)タッパを空けられない事を伝え
気持ちはありがたいけどその為不要だと、私の気持ちも不思議と落ち着いてはいるので大丈夫だと。ただひどく疲れたので今日はもう寝ると伝え横になった。

こういう時に泣けもしなければ悲しくもならないのかと、我ながら嫌になりながら眠った。





話が途切れてややこしくなるが
たぶんコレで感情の閾値みたいなのができてしまったぞというあたりの事をはさみたい。
何かへの恨み節のような不幸自慢のような事で、まあ申し訳ない。
酒の勢いということにして欲しい。クソ長いぞ多分。まだこの辺の感情は黒いからな。


私が17から18歳へかわる高校3年生の5月、両親が離婚した。

母は仕事と家庭を両方こなすけど一応共働きで、それでも夕食など作って出すと
親父は私や兄に「あんま旨うないな。」とヘラヘラ言っていた。
母を下げる事で、子から見た自分を上げようと言うのがわかり易すぎるほど分かった。
今思えば父は古いタイプの薩摩隼人
戦後少しして鹿児島の南端で生まれ育った父としてはもしかしたらアレでも女卑を抑えていたのかもしれないが、幼い私でもあの振る舞いが嫌いだった。

母としては日常的なあの手の扱いを心情として許せるはずも無く、まだ幼い私の兄にそれとなく「お父さんがいじめるんよ。」と言ってみた。
すると兄は幼いながら何か不穏なものを察して泣き出したらしく、母は「この子達が成人するまで耐えよう。」と決めたそうだ。

決めたものの一応同じ事を、もっと幼い私に話してみると、どこで覚えたのか「そうなのォ〜〜?リ・コ・ン。したらァ〜?」とクネクネし始めたので
「上の子が成人するまで耐えよう。」に変わったらしい。ムカつくガキである。

そんなこんなで高校3年生、17~8歳の5月に両親が離婚した。
オカンはよく耐えた。とまるで他人事のように感じていた私にはノーダメージだ。

その時の私の進路としては、ギタークラフトマンというギター制作の人間を育てるスクールに行くつもりだった。
今思えばその道を選ばなくてよかった。私はギター、全然上手くないの。

ともあれ新聞配達しながらであれば衣食住と、返さなくていい学費まで面倒を見てくれる新聞奨学制度というのがあるようで
チャランポランな道ながらそれをやるならスジは通るやろと思っていた。


離婚が決まってからも我々と父は同じ部屋で暮らしていた。
どちらがかは知らんけど、新しく住む所が決まるまでという事だ。この状態はなかなか長く続き、主に親父は肩身狭かったんじゃないかと思う。

夜、寝ていると時折両親の話す声が聞こえる。
コシの強いタイプなはずのあの母が泣いている。
親父は声を荒らげている。
抑えてはいるようだけど、狭い家の隣室で寝てる私がそれで起きないと思ってたのか。

「そんな道楽に金が出せるか。」
と、大体そんな所だった。
奨学制度の事はまだ私も資料を集めていた所だったので何も話していなかった。

バッと出ていってその話をすればよかったが、母が泣きながら小さい声で反論してる場面に
なぜか出ていけなかった。今まで聞いたことのない母の弱々しい声が辛く、惨めに狸寝入りをしたまま、私も泣きながら眠ってしまった。
ここから少しずつ、溜め込む下地ができたように思う。


親父の言うのは要するに大学行くなら学費は出すが道楽みたいな楽器作りなんかには金は出せんという事だ。
あの狸寝入りあたりから少しおかしくなっていた私は、それなら出して貰おうやんけと言うことで進路を変えた。
当て擦りのやけっぱちだ。最も道楽のような学部で大学を志望した。

なんせそれまでは道楽専門学校志望で、学校勉強なんてまるでしていない。赤点前後を常に浮遊していた私はそれからもうずっと英単語カードと赤本とノートに張り付いていた。


母はもともと大学ルートへ私らを行かせようと中学生辺りまでは育てていた為、私のにわかな進路変更を顔には出さないが喜んでいたように思う。

その頃、まだ同居を続けていた父とは話す機会は激減していたので詳細は知らないが、父の家にいる時間が随分長くなっていた。

兄は、母が言うには「本当は寂しくてそうしていた。」との事だが、何かにつけて父と口論していた。これはもうほぼ毎日で、母が帰宅するまで続くしたまに私へもふっかけてきていた。

あの時生まれて初めてヘッドフォンというものを買った。
同じ部屋で中身のない言い争いをする父と兄。
それを無視しヘッドフォンで音楽を聴きながら、ひたすら英単語を覚える私。
もし手も出るようなら両方どつき回してやる。どんどん歪んだ。

洋楽に大ハマリした。
邦楽だと歌詞に気を取られるが英詞だとノートに集中できる。
敬愛するスティービー・ワンダー
それにエリック・クラプトンストーンズマーヴィン・ゲイプラターズ
もはや兄や父がいなくてもひたすら聴きながら英単語を覚えていた。
スティービー・ワンダーは本当に最高で、とにかく昼飯を安く抑えては中古で買い漁った。全部聴いてくれ。


時々隣室の母の泣く声を聴き、父と兄の口論を無視して英単語を覚え、もう学校で話す人もほとんどいなくなり、駐輪場でサッサとパンを食って学校に持ち込んでたギターを昼休みだけ弾いた。
春も夏も過ぎ、そろそろ秋が終わりそうだった。

延期に延期を重ねたスティービー・ワンダーの新譜、time to loveがようやく発売された。
私の友は洋楽と英単語とたまに弾くギターだけだったので、
すぐには買いに行けなかったがなるべく早く買った。

あの辺りの記憶は随分朧気になってしまってるが、買って帰ってすぐ再生したいと楽しみにした丁度その日だったと思う。


親父が倒れて病院に運ばれたと連絡があった。


父方の祖父もそれで死んでいる。くも膜下出血だった。
医者に状態を説明され、暗くなった病院の廊下か待合室のような所で手術が終わるのを待った。

机に突っ伏していた親父を発見してくれたという同僚の方3名ほどに、当たり障りのない世間話をされ、ぼんやりと言葉を返した。
なんとかひねり出してくれた言葉だったはずだが全部覚えていない。

明け方、手術は一応の成功と言う事だったが、重い障害が残るであろう事は伝えられた。
救急車で運ばれる時に、親父は一度目を覚ましたらしい。
目を覚まし、混乱して暴れ、次の脳出血を引き起こしてまた昏倒した。
脳の言語野という所がやられ、今までのようには話せないでしょう。と。
一度目の出血の方でも判断能力や、半身の麻痺に繋がったという事だ。

それらを伝え、何を思ったか医師は
「腫れる脳を圧迫しない為に頭蓋骨の一部を外したままにしてあります。触ると脳がぶにぶにしてますよ。ホラ触りますか?」と言った。バカ者。
本来なら怒るべき所であろうか。既にちょっとずつ歪んでた上に憔悴していた私は言われるがまま触っていた。
ブニブニしていたと思う。
丸坊主になって目の落ちくぼんだように見える親父は、なんというかまっすぐ見られなかった。


母は学校へは伝えてたかもしれないが、両親が離婚した時私はその事を教師やクラスに何も言わなかった。
皆も受験勉強大変やしな。変に気ぃ使わせられんな。と。
誰も私のとこの離婚を知るクラスメイトはいなかったはずだ。

しかしさすがに親父の事は、その日私が休んでいる間に知らされたようで、翌日いわゆる陰キャ層の二人くらいがおずおずと励ましてくれた。
ああいう人間こそ勇敢だ。
随分前からあまり人と話さずノートに小っっちゃい青い文字でひたすらみちみち英単語を書き込んでいる者である。話しかけやすいはずがない。
そうでなくとももとより誰も、おかしくなってる私なんかに気は使わないのだ。
いや話しかけない事が最も気を遣っている事なのかもしれないが。


親父は勿論集中治療室にいた。
父母は離婚したものの同居している。そして親父の親族は鹿児島だ。

日々のタオルの交換や色んな事を、ほとんど母が負担した。
私は現実を逃避してしまった。
母の「アンタは受験勉強で忙しいから。」の言葉に簡単に甘えたのだ。
兄はどうしてたか知らんが、まあ多少はやっていたらしい。
しかしそれまで彼が親父に向けていた矛先は残る二人に向いた。

どうぶつ占いみたいなのにハマっちゃうとこやらは割とマジでアカンアカンやと思うけど
私は母を本当に尊敬している。本当に尊敬してるけど今も用事がないと全ッッッ然連絡はとらない。
しかし本当に尊敬している。
あの人が甲斐甲斐しく着替えやタオルを交換しに行ってる相手は、今や冷え切った夫ですらない男だ。
「あんたのお父さん。」と迂遠な言い方で表しながらも、その仕事を少なくとも私には振らなかった。

情けない事に、私はそれに甘えていた。


甘えていたが、学校帰りに親父のもとへ寄る日も勿論あった。
電車で英単語カードをめくる。
お受験勉強、他の奴らは3年やってるが私はこの5月からだ。時間がなさすぎる。


親父はそれなりにヘヴィに煙草を吸う男だった。
なんでだったか意図的に、医療として目を覚ますのを遅らせているという状態だったのだが、ヘビースモーカーというのは痰の出る量が多い。掃除機の様なものを頻繁に喉に当て吸い出さないと痰で窒息死してしまう事もよくあるという。

私が訪れた時、丁度看護婦さんが親父の喉にホースを当てていた。

親父がまだ元気な頃は、もうあまり親父の事を視界に入れる事も少なくなっていた。
ただ、記憶の中の親父は幼い頃から力強く、張り手でも食らわされたら首ごと飛んでいった気がした。
鹿児島の海で親父が釣り竿を横にふると、重しが水平線の向こうまで飛んだように思った。
親父の事は幼い頃から嫌いだったが、しかしその力強さはまわりに自慢して周りたいほど誇らしかった。
平均的な成人男性と比べるとどうだったか分からないが。
力の強さはそれだけで男として大切な要素の大きな部分を持つと思う。
高校を超えるあたりからはどうやっても父も兄も簡単に抑え込める差がありありとあることは、私も認めたくなくて認めていない事だった。

その父親の腕。まるで老人のように細く、浅黒く焼けていた。
いつの間にこんな容貌になってしまっていたのか。
また、親父の事をうまく見れなかった。

痰を吸うため喉奥をホースで吸われる事は、意識がなくても苦しいらしい。
親父は目を覚まさないまま「ごっ……ごっ……!ごっ……。」と声をあげ、目に涙を滲ませた。

カリカリの老人のような見た目の親父が、苦しそうな声を上げながら、涙を滲ませ
意識は無いはずなのに、私の方を見た。錯覚だと思うが私をギョロと見た。

無理だ。ごめん。許してくれ。
何を許してほしいのかわからんが、置くものを置いてすぐに病院を出た。
帰りの電車の中で英単語カードをめくりながら、親父のカリカリに細くなった腕と、助けを求めるように涙ぐんで私を見るあの目を思い出し、ずっと「もう嫌だもう嫌だもう嫌だ。」と、口に出ていたかもしれないが頭の中で呟いていた。



何があっても時間は過ぎる。
兄は時々私に口論を吹っかけ、母の家事にケチをつける。
母はまだ家事までなんとかこなしていた。本当にすまない。

兄の論に中身は無く、優位を認めさせたいだけで、そうなければ手が出る。
母には流石にそれはしないので、私にふっかけられても、殺してやろうかと思いながらも反撃はしなかった。
たぶんずっと武力としては強い私が反撃すると、彼が優位で終わるとこって、なあ。
一緒に暮らしてない今なら気楽にどつき回せるので来てほしい。ブンブン回すぞー。


そのうち親父は二度目の脳出血を起こし、我々はどんどん憔悴していった。今でも私は電話をとるのが少し苦手なんだけど、兄もそうらしい。

母の負担は今思う私の想像よりずっと重かったはずだ。本当に自分が情けないが今そんなん思うのは酔いですね。どうしようもねえ。

そうして兄のつける家事のケチに、ある日母は限界を迎えた。

とは言っても一言声を荒らげただけだった。
「アンタらは何で私に迷惑ばかりかけるの!」と言ってから、それだけで母は我に帰り「シャワー浴びてくる。」とその場を後にした。
兄もバツが悪くなって、彼が占領していた一人部屋へ退散した。


私はもう、ぐしゃぐしゃだ。
アンタら。アンタら。
アンタらだったんだ。そうだよな。俺はなんもしてねえもんな。

本当に情けないやら悲しいやら腹立たしいやら、どういう感情なのかわからなくなった。

あの兄は、きっとこの先ずっと私の害悪であり続ける。
人生のどれ位がコレでなくなるか分からないが、いなくなった方がいいよな。
これはもうしかたない。私だって人並みに幸せに生きたいもの。

台所で包丁を掴み、兄のいる部屋のドア前まで立った。

そして、まあビビっただけかもしれない。
しかしその時はそこで母の事を考えてしまったと思う。

この後に及んで兄と私とを失ったら母はどうなる。
しばらく考えて、ううう!と唸るだけで何もできないまま包丁を片付け、小さい文字が病的なまでにミチミチになってるノートに向かい直して、めちゃくちゃにページを破り丸めながら泣いた。
くしゃくしゃになってほとんど紙の無くなったノートに「母さんごめん」とだけ書いて、母が戻ってくる前に布団へ向かった。
本当に情けない、惨めな負け犬だ。
眠りにつくまでの間、涙が止まらなかった。

翌朝、ノートには「私もごめんなさい。」と書いてあった。
あの時はちゃんとわからなった。多分本当に俺は辛かったんだ。



数日後の指定校推薦試験?だっけ?はもちろん落ちたが、
その後親父はちゃんと目を覚まし、順調にリハビリを重ね少し話せるようになった。
やがて親父の親類が鹿児島へひきとっていった。

何年もして大学も出て私は3年だけ自衛官になり、艦が偶然鹿児島へ寄った頃、分隊長の強い言葉に勧められて私は本当に久しぶりに親父に会った。
5年は経っていたか、リハビリもうまくいっていて、
親父が普通に話せる頃にはした事もなかった、親父のこれまでの人生や母との恋の話を沢山した。普通に話せる我々なら2分で済むような話に親父と私は30分はかかるが、それでもあの時が一番親父と対話したと思う。
親父の話す母との馴れ初めの話では自分を相当美化して話していて、それを話す親父はこれまでに見たことが無い程嬉しそうだった。
鹿児島に実家もあるのにすぐ近くの旅館みたいなのを、妹さんに話して取ってもらっていたらしい。
私も、多分親父も感じていたと思うし実際そうなった。
これが人生最後の、私と親父の過ごす時間だった。
男だ。十分だろう。


話は逸れたが親父が鹿児島へ帰った事で、母と兄と私の生活に色が戻ったように思う。
良くわからない黒で塗りつぶされた世界の中に居るように、ずっと感じていた。
それまでは死もそう遠くない友達だった。彼が望むならいつでも私の手を取れたはずだ。




母がいかった日、私の感情も初めて閾値を超えた。
それまで負の感情を間延びさせながら、超えない限り決壊はしないラインが引かれていたように思う。
歪みながらも壊れないように、体がそう作ってくれたのだと。

ついでに、大学は受かったし高校卒業までに人と話すことも増えて失恋もした。ギターは盗まれた。殺す。
あのとき生まれていた歪みは大学で本当にいい友達ができて、それだけで割と解消された気がするけどどうだろうな。
偏屈なのは変わりねえな。
学費は親父がアレになったので全部奨学金だよクソ。無償化しろ。


私は不注意も多く人の気持も分からん事が多い。おまけに運も悪いで随分嫌な目にあってきた。
自衛隊に3年いたが手を出す以外は結構色々やる感じのゴリゴリのパワハラも受けた。

そのどれも全部あの時に比べれば全然マシ。チョロ過ぎ。と思うラインがある。
ハラスメント軍役はカケラも暴発せずにやりすごせた。まああの3年で不安定なラインが確固たるものになったとはおもうが
多分そのラインは結構高いところにある。

高いところにある為、そこにある感情に気づかない事があるのだとおもう。





話は戻って茜さんがいなくなってしまった事も、気づくべき感情だった。
ただひどい疲れだけを感じて眠った。

何かに触れられ目を覚ますと、眠る前に連絡を入れた彼女がいた。
合鍵は持っているので、それはまあ入れるハズだが、しかし来ることはないよと伝えていた。

それでも来てくれていた。
ベッドの上で体を起こし、何となくアレコレ私も理解して「ありがとう。でも落ち着いているし大丈夫だよ。」みたいな事を言ったと思う。
彼女は私を抱きしめて「悲しかったね。」と言った。

そう言われると、本当はそうだ。
悲しかったような気がして、閾値が多分どんどん下がっていった。
そうしてあの18歳の時以来、初めて感情が閾値を超えた。

彼女に何と話したか覚えていないが、泣いた。
悲しかったのだ。茜さんを死なせてしまった。
黒くなった茜さんを冷凍庫に入れてしまった。それはちゃんと悲しかった。
悲しかった事に安心すらした。
私が何か言うとうんうんと頷いてくれた。
茜さんがいかに美しい蛇であったか話すと、そうだねと言ってくれた。
涙と一緒に出た鼻水も彼女の整った服を汚してしまったが、気にも留めないでいてくれた。



母の所にもそれは確かにあったはずだが、気づいたことも無かった。
愛というものは何か。
これだ。今、私を包んでくれたものが愛だ。
私の一人よがりかもしれないが、
きづいたのはその時は26?7年?生まれて初めてだ。愛とはこれだと思えるものを知った。


こういった事はあまりしないはずだけれど、その日はそれまで撮っていた茜さんの写真を彼女と1つずつ見返して、
この時はこうだあの時はああだと子供のように話した。
彼女も翌日仕事があるはずだが、ずっと聞いてくれた。

あのまま、疲れて眠るだけなら、閾値だけ超えず積み重なる黒い感情が貯まっていたはずだ。



少しして、彼女は茜さんの写真を送って、と言った。
茜さんを可愛がってくれてたのだなあと嬉しく思い、写りのいいものを送信した。


彼女がその写真を見て、茜さんの生きていた頃の美しさを刺したビーズ刺繍を私にくれた。
本当によく出来ていて、彼女がひと刺しずつ悩んだと言っていたのが私にすらよくわかる。

私はがさつなもので、今も汚い机にかけてはいるが
あの時、贈られたビーズ刺繍を見て、茜さんの死んでしまった夜と同じ暖かさに包まれた気がした。
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この時感じた大いなる感謝と敬意はこの先何がどうなっても持ち続けると思う。

この先がと言ってしまうのが私が人に敬遠される所だろうがコレはどうもならん。
しかしこの先はどうなるかは分からんのだ。

わからんにしてもこの時の感謝と敬意。そして私が愛だと思った、少なくとも私の主観だけは変えようがない。
形があって変わらないもの。
それが、形としてあるのだよ。
朝やんけ途中な気がするけど寝るわ。おやすみ。