うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

消化に優しくないこと

SMAP解散。こういった時事ネタは鮮度の高いうちに触れておかなければならない。

 高度情報化社会において、もっとも優先されるのは速報性だ。誰もが容易に発信できるからこそ、新たな情報はいち早く出さなければ注目を集められない。

その次に情報の詳しさが求められる。より詳しく報じようとして、各メディアが少しずつ新情報を加えていきながら、繰り返し同じニュースを取り扱う。

受信する側は次第に食傷気味になり、そこまできてようやくそのニュースは報じられなくなる。それは擦り切れるまでリピートされたビデオテープが最後には捨てられてしまうのと似ている。

 

さて、SMAP

日本を代表する国民的アイドルだ。僕自身にとっても、物心ついたときには既に、そして常に画面の向こう側にいた馴染み深い存在。アラサー以下の世代の人たちは、みな似た感覚を持ち合わせているはずだ。

 

今日、アイドルがバラエティ番組で身体を張ったり司会をしたり、ドラマや映画で主役級の俳優として演技をしたりして、お茶の間に笑いや感動を届けるのは当たり前になった。その流れを作り、それを普通にしたのは、他ならぬSMAPだという。

SMAP以前のアイドルは、容姿の優れた人が歌って踊る、そこで完結して何ら問題がなかったそうだ。もっと言えばミステリアスなくらいがよかったのだと思う。人間性の部分はあまり晒け出さずに、まさしく偶像としての役割を担う。理想を背負う。トイレにはこっそり行く。

そういうステレオタイプを打ち破ったのが、SMAP

アイドルっぽいキラキラした応援ソングも勿論歌っているが、一方では「血圧がどん底だけど仕事だからとりあえずがんばりましょう」というようなゆるいメッセージも発信しているし、突出して光り輝くものがなければ埋もれてしまう芸能界にいながら「ナンバーワンじゃなくてよくない?人それぞれいいとこあるよ」と言ってのけた。

冠番組ではふざけたメイクやコスチュームでコントもした。罰ゲームを受けて情けない姿も晒した。

意図されたことではないだろうが過ちも犯すし、それでも表舞台から逃げずに反省して、申し訳なさそうに復帰した。

""アイドルだって人間""という演出が、彼らを親しみやすい人気者にしたし、支持を集めた最大の理由ではないか。

 

この辺のことはアイドル評論なんかを読むと全部既に書かれていることで、何を今更と言われてしまうような話だが、解散について触れるには振り返る必要があった。

というのも、2016年1月に年内の解散が報じられてから、SMAPはこの件についてほとんど何も語らなかったからだ。

 「SMAP×SMAP」の最終回を見ていて強く思ったのは、彼らの活動の軌跡、番組の歴史が延々放送されながら、2016年には全然踏み込まなかったなということだった。

木村拓哉の代表的フレーズと言えば「ぶっちゃけ」なのだが、全然ぶっちゃけなかった。人となりを、人間的な部分を晒け出すことで人気を博してきたSMAPは、2016年、物言わぬ貝になってしまったのだ。

 

なぜ解散するのか。

ファンの、そしてお茶の間の最大の疑問は、あくまで憶測としてしか語られていない。

しかし、そのことが、SMAPというグループを伝説的存在にしていくのではないだろうか。

 

死人は語らない。

カート・コバーンジミ・ヘンドリックスが現在でも世界中で知られているのはなぜか。生前の功績はもちろんのこと、その上で若くして何も語らずに逝ったからではないか。日本で言えば、尾崎豊だってそうだ。病死も括りに入れれば、松田優作夏目雅子にも同じことが言えるはず。

もちろんSMAPのメンバーひとりひとりは死んだわけでもないし、これからも個別に活動していくだろう。だが「SMAP」は何も語らないまま死んだ。

取り残された人々は、その死を消化できずにいる。分からないことが残っているからだ。明かされなかった真実は、明かされなかったこと自体が心に焼き付けられる。多分これからも簡単には明かされないだろう。恐らくはそういう演出意図があったはずだから。

 

ものすごいスピードで何もかもが消費されていく現代社会で、解散したというニュースは忘れられてしまうだろうが、SMAPという国民的アイドル自体は、過去のものになったとしても、簡単に擦りきれて捨てられてしまうようなことにはならないと思う。そもそも消費しきってしまうための情報が欠けているのだから。

 

日本のアイドル文化にもたらした功績も、その幕引きも、やはり彼らはアイドルとして色褪せないオンリーワンだった。そんなことを感じた。

 

 

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