うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

オイ1年。焼きそばパン買ってこいよ。

Q. なんでパシリが買いに行かされるのは決まって焼きそばパンなの?なにか元ネタがあるんですか?

A. 銀魂の沖田ってキャラクターが元ネタだと思う。

 

こんなやり取りを見かけたことがあります。

おい、待てや1年。シャシャり出てきてパロディが売りの漫画を元ネタっつって吹聴するとはどういう了見だ。チッ……あー、腹減ったな。なぁ、焼きそばパン買ってこいよ。30秒以内に帰ってこなかったらおごりだからな。ギャハハ。

 

さて、パシリの子がいつから焼きそばパンを買いに走らされるようになったのか。

まだまだ若輩ゆえ確かなことは言えませんが、ビーバップハイスクールに代表されるような、短ランにボンタンでリーゼント的な昭和ヤンキー文化から残る伝統であることは間違いないでしょう。奇しくも1981年に始まったヤマザキ春のパン祭りと同時代から続いている、ヤンキー猿のパン祭りなのであります。

 

リテラシーという言葉について。原義は読み書きの能力ということだけど、現代の和製英語としては、分野ごとにどんどん深化していく様々な知識を把握し、場面に応じて言葉の意味を適切に理解する能力という感じでしょうか。

いや、堅いな。説明が堅い。「飲む打つ買うなんてもってのほか!貯金が趣味です!」ってプロフィール欄に書いてある公務員くらい堅いわ。

リテラシーという言葉の定義として、日常的、かつ個人的にしっくりくるのは「元ネタを知っていて話が通じる」というものです。

 

2000年代のインターネッツをサヴァイヴしてきたダイヤルアップ接続のピーガガガガガピーーーーな世代だから古い話を持ち出しちゃうんですが、「うそはうそであると見抜ける人でないと掲示板を使うのは難しい」っていう伝説的な格言も、単に書き込みの真偽を見極められないとダメっていう話ではなくて、ローカルの中だけで通じる冗談のコードをキチンと把握してから輪の中に入ってきなさいということだったのだと思っています。

ネットスラングの走りのひとつに「半年ROMれ」というのがあったのもそういうこと。この辺の話がまったく理解できないのであれば、今度は「ggrks」と言わざるを得ない。

 

最近いくつかのテレビ番組で、語尾に「ンゴ」をつけるのが若者の間で流行しているという話題が取り上げられているのを観ました。

当然その若者たちは、語尾に「ンゴ」を付ける元ネタを生み出した「なんJ民」という人たちのことなど全く知らずに、語源だとか用法だとか、そんなの何も関係なくその言葉を使ってコミュニケーションを楽しんでいる。

それ自体は問題ない。言葉はうつろうものだし、別に無知が悪だなんてことを言いたいわけではない。焼きそばパンの元ネタの件も然り。

一方で、本来の用法を知っている人が「そうじゃねぇんだよ。俺たちが面白がってたのをなんでそんな風にしちゃったんだ。残念だよ」という気持ちになるであろうことも確かだし、それを「心が狭い」とかそういう言葉で否定すべきでないとも思うんです。

 

コミュニケーションを上手に成立させたければ、そのコストを負担すべきなのは「知らない方」ではなく「知っている方」です。時代は「分かりやすさ」に完全敗北を喫していて、理解できないものを理解するためのコストを払おうとする人はどんどん減っていると思います。

それは近くにいない人とでもコミュニケーションをとれるようになったがゆえのこと。いくら遠くても、顔を知らなくても、自分にとって「わかる」人を選べばコミュニケーションのコストは最小限で済むのだから。

 当然「知っている方」の人たちも、同じ側の人とつるめばコストを負わなくていい。同じことになります。棲み分けが行われる。「格差が生まれる」とも言う。

 これでは誰の世界も広がっていかないですよね。知っている村には、知っていることしか起こらないんだ。

 

14歳の時に読んだ小説の中で、主人公の父親が「広い世界を見ろ。そして自分で決めろ」と言った。そのときに自分の中で雷が落ちた。そんな気がしたんです。

15年経って、住むべき村を見つけて、自分自身外に出るのがなかなか億劫になったけど、今後誰かの世界を広げてあげられる人間になっていくためには、まだまだ自分も村の外の世界を見なければならないと、そんなことを、最近、思うんです。

 

話がまとまらないっすね。すいませんパイセン。自分、焼きそばパン買ってきます。

 

ウッス。

 

ふわっふわの毛布 (@soft_blanket101)