うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

僕たちは〈大人〉になってしまった 〜 『天気の子』レビュー(途中からネタバレあり)

 

 

「人に嫌な思いをさせてはいけません」

「暴力を振るってはいけません」

 

こういう価値観が「当たり前」になったのは、とても「正しい」ことだ。大前提。

ただ、それは同時に誰かの権利を侵害しないように気を張っていなければならなくなったということでもある。

 

どこかの誰かの「良い」が増えれば、同じ分だけどこかの誰かにとっての「悪い」が増える。自由の総量は決まっていて、誰かを自由にすれば誰かが不自由になる。

 

現代において、そういう原理を無視して自分の自由だけを考えた行動ができる者は、果たしてナポレオンか。はたまたヒトラーか。あるいはドン・キホーテか。

 

 

 

 

 

 

 

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新海誠監督の最新作『天気の子』を観てきた。

 

金曜公開の翌日、土曜日の東京の映画館は、どの時間帯も予約で満員になっていた。

カラフルな世界を細やかに描き、明快なカタルシスを提示して社会現象になった『君の名は。』の次回作だからこその動員ということは、火を見るよりも明らかだ。

ハードルの高さはとてつもない。誰がどう見たってネクス宮崎駿の筆頭候補なのだから。

 

 

観終わって数時間後にこの部分を書いている今の僕、もう10年以上新海作品を追いかけている僕は、是非この作品をたくさんの人に観てほしいと思う。

そして、ある程度の初動が確実に見込める今作は、恐らく『君の名は。』以上に新海にとって「観せたいもの」として創られたのではないだろうかと、そんなことを、今は感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

【注意】以下ネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

本作の舞台は、雨がずっと降り続いている世界。

〈雨〉が古くから「悪い状況」の隠喩として用いられているのは、常識と言っていいだろう。

 

これは個人の肌感覚だが、30代前半の僕が学校を出て、社会に飛び出したときから今まで、〈雨〉がやんだなと感じたことはない。

家の中は快適だし、濡れない。そこそこ質のいい雨具を持っているという自負もある。恵まれた。

 

だけど、外では〈雨〉がずっと降っていると感じる。雨具があるから外に出ても風邪をひかなくて済んでいるだけで。

一方で、雨漏りする家に住むことを余儀なくされている人や、雨具を持っていない人たちは確実に存在している。

 

そういった人たちは可視化されないケースも多いだろう。

「家が雨漏りするんですよ」とか「傘がないんです」とかは、基本的に「映え」ないのだ。

 

 

 

 ところで『君の名は。』では、田舎暮らしの女子高生が憧れたキラキラした都会のイメージが、新宿のユニカビジョンと、いかにもメトロポリス感のある大ガードと線路に託されていた。

前前前世』をBGMに、アニメとしては異例の早回しで都会の時間の流れの早さを表現したシーンは、多くの観客の印象に残った部分だと思う。

 

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キラキラメトロポリス



 

今作の舞台も東京だ。東京の様々な場所が描かれている。僕の生活圏もたくさん出てきて、単純な喜びもあった。

 

 

 

主人公の家出少年、帆高があてもなく最初にたどり着くのは新宿。またユニカビジョンがスクリーンに映し出される。

君の名は。』ファンへのサービスという側面もあるのだろう。しかし、今作ではすぐにカメラのレンズが靖国通りを挟んだ「彼岸」に向く。

 

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THIS IS SHINJUKU

 

前作を楽しんだファンに向けて、前作とは違うことをやりますとハッキリ表明したなと思った。

 

ラブホテル。柄の悪いスカウト。風俗の無料案内所。バーニラバニラバーニラ求人バーニラバニラ高収入。

 

これらは全部アニメの中でハッキリと描写されている。語弊を覚悟で言葉を選ぼう。東京の中でも屈指の暗い場所である。光は否応なく影を生むのだ。

 

これまでの新海作品には、画面全体を二つに割る線(スペースシャトルの飛行機雲や、丸い月に被った電線、落下する彗星の欠片の飛跡、沈みゆく夕日の光線など)が頻出してきた。そして、割られた画面の片側だけに影がかかっている描写が多い。

「こちら側」があれば「あちら側」も必ず存在するという世界観は、新海作品の大きな特徴と言っていいだろう。

 

 

 

 

では、『君の名は。』の「あちら側」に映し出されるものは何だろうか。

 

家出少年が身分証なしでアルバイトを探すものの、働き口はなくネットカフェ難民と化す様子。

金がなくなって野宿をしようとするも、それが許される場所さえなくて、雨の中で街をさまよう様子。

ゴミ箱の中に入っていた拳銃を拾ってしまい、驚きのあまり自分の持ち物にしてしまう様子。

親を亡くして弟を養うために年齢を偽ってマクドナルドでアルバイトをするも、それがバレてクビになった結果、水商売のスカウトマンについて行こうとする15歳の少女(ヒロインの陽菜)。

その様子を強引な勧誘だと早合点して、幼稚な正義感を振りかざして助けに入り、結果的に拳銃を撃つことになってしまう少年。

 

 

 

 

 

フィクションの世界のスラム街か?

 

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headlines.yahoo.co.jp

 

ご存じの通り、「リアリティがない」とは決して言えない、現代の東京の姿である。

 

 

 

 

言ってしまおう。

 

「憧れの大都会でのカラフルな体験が恋愛感情の土台になる」というのは、道徳的に共感を得やすい。触り心地がいいのだ。

 

『天気の子』はそうではない。

 

 

 

この作品で描かれているのは、豊かさが飽和した後の〈雨〉がやまない世界で、表面張力も限界に近いところにいる〈弱者〉たちが、生存戦略として疑似家族になり、〈生きる〉意味(金を稼ぐ方法と、金に付随してくる感情報酬)を分かち合った結果として、恋に落ちる様相だと考えられる。

 

 

 

 

 

 

 

 

率直に言ってつらすぎる。やばい。しかし、説得力はある。

 

奇しくも『天気の子』公開前日に起こってしまった、京都アニメーションの凄惨な放火事件にまつわるネットの玉石を流し読みしていて、こんな意見を見かけた。

 

 

アニメーションが元々こども向けの文化であったことに由来する「やさしさ」が、厳しい社会的現実に「追い詰められた者」、すなわち相対的な〈弱者〉の逃げ場として機能しているという意見。なるほどなと思った。

 

 

要するに、あまり気持ちのよくない解釈だけど、〈弱者〉が厳しい現実や制度から逃げながら、なんとか生きようとする姿が、『天気の子』の基礎にはあるのだ。

そして、仮にアニメが〈弱者〉の逃げ場として機能しているなら、この作品は〈鏡〉になりかねない。

物語の世界に没入していたら、画面が暗転したときにディスプレイに自分の顔が映ってキツさを感じるアレを、画面が暗転していないのに感じてしまうのはもっとキツいのではないかと思う。

 

 

とはいえ、先に引用したツイートが想定しているであろう「社会に追い詰められた者」と、登場人物には違いもある。

帆高と陽菜が〈弱者〉の立場から脱して、健康で文化的な生活を送ることは可能である。なぜなら、それは彼らが未成年だからだ。

しかし、そのためには息苦しさから一大決心をして捨ててきた島だったり、あまり好ましくないラベルを貼られること請け合いな児童養護施設だったりで生活しなければならない。

そのような生活を簡単に受け入れられるほど、貧しくてもせめて縛られずにいることを諦められるほど、ふたりは〈大人〉ではない。

ただし、これを〈子供〉だなぁで済ますのは、高いところからの考えだと思う。ホームレスが公的支援を拒否することに似ている部分もある。

 

 

思うに、

この作品に描かれているのは大人/子供という構図ではない。

〈大人〉になってしまった人/〈大人〉になりたくない人という構図だ。

 

 

 

 

ここからが本題。前置きが長いよ。

 

 

この作品の〈大人〉になってしまった人の代表は、新宿で限界まで追い詰められた帆高を拾って、住み込みの仕事(月給3000円)を提供する須賀という人物である。

 

家出少年を拾って住まわせてやるという行動と、その動機(たかったら食事と酒を奢ってもらえたことへの恩義)だけみると、現代社会では十分にウェットだが、描かれている内面は実にドライだ。

 

オカルト雑誌に記事を書くフリーライターの収入など、たかがしれている。須賀にも余裕はない。しかし、無い袖は振れないとはいえ、3000円は無慈悲な金額だ。それではどうにもならない。その割に帆高の仕事の進捗に対しては厳しい。色々と厳しいのだ。

 

帆高が街中で発砲した家出人として警察に追われると、離ればなれになった我が娘と再び一緒に暮らすにあたって〈イメージ〉が重要だからという理由で、須賀は帆高を切る。手切れ金5万円。そして「実家に帰れ」と言い放つ。

 

帆高の恋の相手である陽菜(「天気の巫女」)は降り注ぐ雨を終わらせるための人柱であるという残酷な事実を知っても、そのことについて「人柱一人で狂った天気が元に戻るんなら俺は歓迎だ」「皆そうだろう」「誰かが何かの犠牲になってそれで回っていくのが社会だ」「そんな役割を背負う人間は見えないだけで必ず存在する」といったシビアな言葉を、姪である夏美に対して述べる。

 

 

 

アニメ作品における記号的、類型的な登場人物のイメージとして、「知らない街での親代わり」という存在は、大抵は実の親以上に温かいものだ。理解あるやさしい世界。

しかし、須賀にはそんなこと関係ない。須賀には須賀の、〈大人〉にならざるを得ない、諦めて目を背けざるを得ない現実的都合があるし、そのための犠牲にも目をつむりたい。

「他人の人生より自分の人生」なのだ。

「義理人情」とか「同情的な優しさ」はその場に限れば「善い」ことにも見えるが、それでは結局体制に逆らうことになる。

そんな「善い」行いが自分の周囲を明るく照らしてくれるかどうかの保証なんか一切無く、むしろ〈雨〉をより一層強く降らせる可能性の方が高いのだ。

悲しいけれど。それはそうなのだ。

 

 

 

 

 

しかし一方で、〈大人〉になれない人と〈大人〉になってしまった人との橋渡し役、中間的存在の役割を担っている夏美は、何回か「帆高は須賀に似ている」と言っている。

 

つまり、少年に向けた「現実を受け入れて逃避するのを諦めろ」というオカルト記事ライターの言葉は、オカルトおじさん自身に刺さる言葉でもあるのだ。

見ないふりができる〈大人〉になってしまった自分から、〈大人〉になれなかった頃の自分に対して、〈大人〉になれという意味の言葉を浴びせたあと、須賀は娘のための禁煙を破り、独りで痛飲する。

帆高が連行された警察署からも逃走したことを聞いて、無意識のうちに涙があふれる。

逃げる帆高が向かうであろう廃ビルに、帆高を止めるために駆けつけてしまう。

世話してやった帆高に銃を突きつけられ、威嚇の発砲をされても(種々の暴力の中でも頂点に近い、圧倒的な暴力だ)、帆高を取り囲む警察に対して「大の大人がよってたかって」と言い、帆高を擁護する姿勢を見せる。

 

クライマックスでは、須賀はついに自分のスタンスを曲げ、帆高を拘束しようとする刑事を殴り、〈大人〉になりたくない帆高が逃げるのを助けてしまう。

 

 

 

 

揺れる須賀の有り様は、俗に「人間味」と呼ばれるものだろう。

近代以降の世界で人間は葛藤せざるを得ない状況を背負った。

葛藤の末に導き出した自分の〈答え〉の是非は、結果を見ないとわからない。

なのに、間違っていたことの責任はすべて自分でとらなければならない。

「この世の不利益はすべて当人の能力不足」というやつだ。

 

世知辛い。その中で、人は行動のリスクを回避するために、冷静を装って、見ないふりをするようになるのだ。それが〈大人〉になるということ。

 

だけど、ならなくて済むならば誰も〈大人〉になんかなりたくないんじゃないかと、僕は思う。

 

 

 

ヒロインの陽菜は「早く大人になりたい」と夏美に話している。
陽菜の言う「大人」というのは、責任を負うことを許される立場のことを指していると思われる。

つまり、公的機関から縛られずに弟と生活していく権利がほしいという意味だろう。

実際はどうなのか。公的機関からの「保護」と呼ばれる期間限定の縛りよりも、いずれは死ぬまで背負わなければならなくなる「自己責任」が人生に与える縛りの方が、厳しいものではないだろうか。

 

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公権力にお縄をかけていただいた方が快適に暮らせるという結論に辿り着いてしまう貧困層の存在は、快適な部屋の中でパソコンのキーを叩きながらスノッブな文章を書いてニヤニヤしている僕のような恵まれた人間の視界には、ほとんど入ってこない。
傘を差していたら、視界が狭くなって周りが見えにくくなるのと同じように。

 

 

話を戻そう。

ならなくて済むならば、誰も〈大人〉になんかなりたくないんじゃないか。

だってその方が「かっこいい」感じがするに決まってる。ヒロイズムに浸るのが許されるなら、ずっと浸っていたいに決まってるだろう。

愛という使命を背負った救済者の方が、諦め泥酔おじさんよりかっこいいってのは、普遍的な価値観じゃないのか。それすらも、もはや怪しいのだろうか。

 

 

「愛にできることはまだあるかい」とRADWIMPSが観客に問いかける中で、空に飛び立ち、世界なんかどうなってもいいからと、愛する人を救う帆高の「かっこいい」姿が描かれたあと。

 

 

須賀が手錠をかけられて、逮捕されたという現実が、スクリーンには映し出される。

 東京は降り止まない雨という災害の中に没し、人々の生活は決定的に変えられてしまう。

 

 

 

 

僕が『天気の子』の中に観たのは、〈雨〉が降り続く令和の時代に再び描かれた、閉じた〈セカイ〉の物語だった。*1

 

大好きなあの子と一緒にいるためならば、ふたりの「愛」のためならば、公共圏の利益なんか、知らない誰かの穏やかな生活なんか、どうなったっていい。〈大人〉になんかなりたくないのだ。

 そのためなら国家権力にも逆らう。暴力だって行使する。だって〈大人〉になりたくないから。いまの帆高にとっては、「愛」がいちばん大事だから。

 

もう、愛にできることは「親密で小さな〈セカイ〉を守ること」しかないのかもしれない。

 

 

 

 

二年半が経って、帆高のためにリスクを負って逮捕されたあとの須賀の生活レベルは、「結果的に」大きく向上したようである。

娘とまた暮らすという望みが叶うのも間近になっているようだ。

その理由は明確に描かれない。前科者の生活レベルが向上する理由が「なんやかんやあって」でいいのだろうか。

 

「結果的に」暮らしがよくなった須賀は、東京の半分を水中に沈める選択をした帆高に対して、「自分が世界のかたちを変えたなんて、自惚れるな」と言う。

「気にするな。世界なんてどうせもともと狂ってるんだから」と言う。

このシチュエーションで「現実を見ろよ、現実を」と言ってしまう。

 

これは赦しの言葉だ。

帆高の選択によって一層酷くなってしまった〈雨〉の世界で、帆高と陽菜が日々を生きていくことの厳しさを和らげるための言葉だ。

 

しかし、結局、大事な大事な自分の人生はなんとかなったから、お前も〈大人〉になって知らないふりをしろと、そう言い直しているに過ぎないとも言える。

 

 

 

 

 

 

帆高は須賀とは正反対の角度から、同じような〈大人〉になったのだと思う。

 

陽菜との再会を果たすとき、帆高は思う。

「世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ」と。

「あの夏、あの空の上で、僕は選んだんだ」と。

相変わらず須賀の言うとおりになることはできない帆高だが、ラストシーンで陽菜に対して強く告げる。

 

「僕たちは大丈夫だ」と。

 

 

 

 

 

ポリティカルコレクトネス全盛の時代である。

反社会的勢力の人と関わると、納得のいく「正しい」ストーリーが完成するまで晒しあげられる。「被害者」がかわいそうだから。そういう時代だ。

 

 

 

 

 

暴力を振るってでも、災害を起こしてでも、自分の思い通りにする。

その結果、望みは叶って、代償として街は沈んだ。それを選んだのは自分だ。

それでも、僕たちは大丈夫なんだ。

 

 

そんな物語を手放しで絶賛できる感性は、僕にはない。

君の名は。』との比較での話だが、商業的には失敗すると思っている。

見ていて苦しいからだ。 

全く「正しく」ないと、僕個人は思う。

とはいえ、これはまだ本稿の結論ではない。

 

 

 

 

 

 

この時代に、この風潮の中で、既に語られ尽くしてきたことのパッチワークのような内容だとしても、たくさんの観客が映画館に足を運ぶことがある程度は約束された舞台で、こういう作品が作られたということ。

そのこと自体を僕は評価したいと思うのだ。

 

 

 

だって、歌舞伎町にカメラを向けて「ポリコレばんざーい!」と叫ぶような作品なんか嘘でしかないじゃないか。

 

「理不尽に権利を侵害された(されてきた)かわいそうな人たちの権利を守ろう!」というムーブメントは、ある場所に晴れ間をもたらし、そこには光が差すかもしれない。

 

でも、その陰には「あなたたちもかわいそうですけど、それは自己責任です。努力をすればよかったんじゃないですかね。できることはまだあるんじゃないですかね。」と言われる人たちがいる。

そういう言葉は何の足しにもならない。何も救われない。

〈雨〉に打たれ続けていること自体を、見ないふりされているのと同じだ。

そんな「正しさ」は、恣意的なものに過ぎない。

 

ならば、自分の自由が他人の自由を脅かして、それでも「大丈夫」と主張できるその恣意性だって、批判はできないだろう。

 

だって仕方が無いんだ。

親密な圏内を守るだけで精一杯だし、それさえ守れたら後は「大丈夫」っていう傘の中に入っていないと、ずぶ濡れになってしまう。

そういう〈雨〉が、世界には降り続いているんだ。

 

それぞれがそれぞれの〈セカイ〉の中を守るしかない。

「正しい」誰かは、外の世界のことを見ないふりするなと、そのことを批判するかもしれない。

だけど、それしかできないんだ。それ以外にできることはもうないんだ。

それは、ひとつの「諦め」の形に他ならない。

 

 

 

僕たちは〈大人〉になってしまったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

最後の話題。

 

帆高と陽菜は、自分たちが世界を変えてしまったという責任を背負いきれるのだろうか。

人間はそこまで強くなれるのだろうか。

身近な人は赦しの言葉を掛けてくれるかもしれないが、それだけで足りるのか。

 

少なくとも僕には無理だ。そこまでぎゅっと目をつむりながら歩くことは、僕にはできない。

 

映画を観たあと購入して帰ってきたパンフレットの1ページ目には、こう書いてあった。

 

「これは――――僕と彼女だけが知っている、世界の秘密についての物語」

 

ふたりだけの「秘密」で、親密圏の紐帯感は高まるだろう。

そして「秘密」というのは概して蓋がされているものだ。

蓋の中身への意識は、次第に日常の中に溶けていくのかもしれない。

でも、それは果たして責任を背負って生きるということになるのだろうか。

 

僕にはわからない。

そこには〈大人〉のアニメ作家による大きな嘘があるように思える。

 

アニメーションが元来こどもに向けた「やさしい」メディアだったことは、既に述べた。

そんな場で、絶望に染まった結末を描くわけにはいかない。

 

背負えるよ。イッツオーケー。

帆高が愛のヒーローである以上、そう言わせるしかなかったのかもしれない。

 

 

 

 

ポリコレ的には嘘はアウトだ。「正しく」ない。

だけど、どこか歪んでいるヒーロー像から垣間見えたそういう〈大人〉の事情は、アニメーション制作に対してとても「正しい」姿勢で向き合ったからこそ生まれてきたものなのかもしれないとも、思うのだ。

 

 

 

 

 

 

 

映画を観て、この長文に付き合ってくださったみなさんは、どう思いますか。

何が「正しい」と、考えますか。

自分にとっての「正しい」のために、どのくらい遠くまで行けますか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

色々書いてきたけど、僕はこの映画が結構好きなのかもしれない。

また観に行きたいな。

 

 

 

 

ふわっふわの毛布(@soft_blanket101)

 

*1:90年代~ゼロ年代に、主にサブカルチャーの分野で議題となった「セカイ系」という物語類型について、若い男女の恋愛関係、いわゆる「ふたりのセカイ」が、世界全体の運命を決定してしまう構造の物語を指す用語だと筆者は解釈している。