うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

ニュアンス

人と人との間のニュアンス。

 

その人とその人が互いを知りつつ各々過ごした時間、一緒に過ごした時間、ある時ある時交わした目配せ、感じた感覚、人知れず互いに向けた信頼、一緒に見つめた出来事、温度、交わした言葉の端々、声色。

 

その二人にしか分からないニュアンス。

 

友達でも夫婦でも恋人でも家族でも偶然同じものを見てきた見ず知らずの二人の間にもきっとあるでしょう、ニュアンス。

 

二人のことは二人にしか分からない。

 

 

 

 

 

お仕事サボってるお恋

「選択肢がある」ということ


「君には選択肢があっていいね」
「僕には始めから選択肢が無いから、自分の中で何とか昇華させるしかない」

君はそう宣う。
確かに。
けれど私には私なりの言い分がある。
それは、君の言う「私が持つ選択肢」とは、私の望まない選択肢だということだ。

「果たして、望まない選択肢があるということは、幸せなことか?」

望まない選択肢なら選ばなければいい。
私もそう思う。でも、選んでしまう。捨てられない。焦燥。寂寥。承認欲求。満たされなくても良いから、そういうもの全てから、私の両眼を覆って、何も感じないようにして欲しくて。
本当に欲しいものは違うのに。
だからいつも「望まない選択肢」を選択した後はやるせなくて、大人ぶっていてもどこかでボロが出る。君が思う程、私は大人ではないんだよ。ただ、欲しいものが手に入らなくて駄々を捏ねている子どもと同じなんだよ。
だから「望まない選択肢」を選ぶ私には、本当に欲しいものを「欲しい」と言う資格すら無いんだろう。

けれど本当に欲しいものは君だよ。
ここにだけ、こっそりと置いておく。


お目汚し失礼致しました。

【ゆる募】教えてください【だけど切実】

「痩せて綺麗系になって生活リズム正したら最強になれるよ、お前は」


それって私じゃなくないですか!!!



こんにちは、最近痩せて綺麗系になって生活リズム正したくて仕方ない系女子のかおるんです。

最近言われたこの言葉ですが、考えれば考えるほどどれも無理やわってなって最強になることを諦めつつある今日この頃です。


まあ痩せるのと綺麗系になるのはなかなか時間かかるけど生活リズムくらいならがんばれば直せるかなあと思いながら、気づいたら朝6時になっていてもう明るい中眠気と戦いながらこのエントリーを書いているわけですが。


どうしたら生活リズム正せるんですかね。

誰か方法知ってたら教えてください。

あといいダイエット法とオススメの綺麗系の洋服屋さんも。


なにはともあれ言葉とは呪いに似ていて。


ある人に言われた言葉がずっと私に鎖のように巻きついて離れずにあることって結構ありますよね

私は大事な人の言葉ほど重くなり錨のようにその場に私を縛り付けようとするので人と話すのが怖いです

かといって人と話すのをやめるとうさぎさんのように寂しがり屋な私は目を真っ赤にしてしまうのでバランスというか、なんなんでしょうね


昨日人と話してて気づいたのですが、私は構ってほしいときと放置しておいてほしい時の差がすごいようです。

それは近い間柄の人ほどすごくて、近ければ近いほど差が広がっていく気がしています。

気分屋なのか、近くなりすぎることに恐怖があるのか、はたまた違う理由なのか、その全てなのか、とにかく差がすごい。

こんなことじゃあ将来どこにいくことも何になることも出来ないなあとひとり寂しく朝を迎えています。


こうして大切な人がくれた言葉が錨になって私がどこへも行けないのでいろんな人が入れ代わり立ち代わりやってきて言葉をくれてそれを気分で放置してとかもっと構えとかいって生きていくの難しいなあと。

わがまま人間なのでこれからもこんな調子で生きていきながらどこかに落ち着く場所はあるのか探し続けるんだろうなあ。


本気でダイエット法と綺麗系の洋服屋さんと生活リズムの直し方募集してます。

気分で態度変えないので教えてください。

お願いします(土下座の勢い)


かおるん(@kaaaaaoruuun)

今伝えたいこと

やさしくしないで

 

きらいになってよ

 

にくくてにくくてたまらなかった

 

くるしくてくるしくてたまらなかった

 

ただのいちどもふれることさえできず

 

べつべつのみちをすすんでいる

 

ただそれでも、そうだとしても

 

いまでもあなたをあいしています

 

 

アミーゴ銀三郎

 

 

9月23日

あなたは朝が苦手だった。

映画の予定に間に合わなくなって不機嫌なわたしを小馬鹿にしたような寝癖を付けて、平然と寝息を立てているあなたに溜息ひとつ。机の上にあったマッチ箱を手に取って、煙草を灯した。

ベッドの縁に腕をかけて、広くて薄い背中を見つめた。煙を吹きかけてみると、白いTシャツがうっすらと揺れてまるで雲のようだった。首筋にある小さなホクロは金星かな、なんて思っている間に気付けば灰が落ちてしまっていて、慌てて手で払い落とした、溜息ふたつ。もしもあなたが起きていたならば、洗濯当番だけじゃ済まされなかっただろう。 

テレビの中では朝のニュースがせかせかと伝えられている。虫の声ほどのそれは、わたしとはあまりにも程遠いところにあって、まるで遠い国のお伽噺のように聞こえた。

昔々あるところに、街外れの小さな部屋がありました。嫌味なほどに派手な字体で、わたしの知らないホテルの名前が描かれているマッチ箱をそっと同じ場所に戻した。

その部屋には物分かりが良い女と、都合の良い男が、とてもとても仲良く暮らしていました。この一本を吸い終えたら、呑気に寝返りを打っているあなたを揺すり起こして、レンタルショップに連れ出そう。

今日の天気は晴れのち雨、いかにも落ち込んでいるかのようなトーンとわざとらしい表情でキャスターが報じた。ごうんごうん、と小気味よい音を鳴らしている洗濯機を睨みつけ、溜息みっつ。

 

お互いがお互いを支えあって、幸せに過ごしていましたとさ。

頑張ること


唐突ですが私はよく「頑張ってるね」「頑張り屋だね」と人からよく言われます。

まあ素直に嬉しいんですよ。認められてるみたいで。

でもたまにその「頑張る」にどうにも違和感というか、なんというか少しの居心地の悪さのようなものを感じます。


それは私が自分は怠け者で馬鹿で人よりも劣っていると思ってるから。「頑張ってる」と言われることに引け目を感じてるからじゃないかなって。


人によって物事の考え方とか基準が違うのは重々承知なんですね。わかっちゃいるんだ。


でもやっぱり自己肯定感低いから、もしかして自分って「頑張ってるふり」をしてるんじゃないかとか考えちゃうんですよね。

なんだかそれってめちゃくちゃ虚しいじゃん…(辛くなってきた)


こんな自己肯定感低い私ですが、自分に甘いので(自分に甘いからこうなってるんだよな)「あ〜今日結構『頑張った』じゃん?」とか思ってご褒美〜とか言って甘いもの買ったりするんですよ。

でも周囲と比べて私の「頑張り」は何も生み出していないゴミカスだし、やっぱり頑張ってないやって凹む。


人と比べるの良くないってわかってはいるけど中々上手くはいかないなぁって感じます。

人は人、自分は自分、優れてないなりに自分なりに「頑張ってる」ことを認めてあげられたらいいなあ。

でも手放しには認められないから何か成果がなくちゃなあ。


ということで少しでも前向きに自分の頑張りを認めてあげるために目に見える成果が欲しいなと思って、最近は本を読んだり(論理的思考力の鍛え方とかね)、資格の勉強をしています。


就活も一応終わり、来春からは常に成果とかが求められる環境に身を置くことになるのでどうにかして価値ある人間にならないとと焦ってます。


なんか最近銀行とかがAIでの業務効率化や削減云々とかたくさん言ってるじゃないですか。人員削減とかも。そういうのを聞いていて、漠然とだけど日々をダラダラ言われたことだけこなして生きていった先はどうなるんだろうとか。きちんと稼いでいけるのだろうか。なんなら生きていけるのかなとかとにかく不安。親もいつまでも生きてない。人生まだまだ長いのに不安でしかない。だから現状をどうにかしたくて今は自分なりに「頑張る」ことをしています。価値ある人間になりたいぞ。なりたいじゃなくてなるんだぞ。


今更足掻いてもっていうのもわかるけど、何もしないよりはマシなんだぜ。


LIVE FOREVER

 

 

 星空。ロマンチストかしら。いいえ。オリオン座しか知らない。恋の字も知らない頃に冬の純な風に吹かれて見上げた。自転車、暖かいコート。暖かい手袋。幼い頃に星の歌を聞いていた母親の車を思い出して、家に帰る。塾の帰り。まだ明日は見えなかったけれど、見えなかったから何も不安はなかった。家々から漂うシャンプーの香りや夕飯のにおい。今日は煮物かしら。それとも魚?

 


 あれからもう10年以上経つのね。今年もオリオン座は見えるのかしら。そのまま家に帰ることもできない場所で、変わってゆく両親、それから私。星空はいつまでも変わらないものね。私に分かるのはオリオン座だけ。冬になってゆくにつれて澄んでゆく夜空。昨日今年初めて星が見えたわ。それだけ。今夜はもっと綺麗に星が見えるのかしら。季節と私たちは変わってゆくね。変わらない星空を求めて。

 

 

 

 

 

9月17日


「台風上陸、夕方から、だって」とあなたは言った。

起き抜けに怪訝な顔をして空を覗いたからだろう。あなたは隣で布団に寝そべったままで、読んでいる文庫本から目を離さずに、それからまた、「出しっぱなし」とつまらなさそうに言った。

振り向いてテーブルの方に目を移すと、昨晩の記憶と同じ光景のままで、どろどろに溶けてしまっているアイスクリームだけが時間の経過を密かに示していた。「覚えてる」と何でも無いように返したつもりが、声が掠れてしまって弱々しく響いた。あなたは何が可笑しいのか薄く笑って応えた。

気付いているのなら片付けてくれればいいのに、と思ったけれど、わたしも笑った。網戸の合間を冷たい風がくぐり抜けて入ってくる。床に転がっているビニール袋が揺られて、かさかさと音を立てた。

夢を見ていた。目を瞑って思い返す。わたしはこの部屋にいた。ちょうどこの位置から自分の背中が見えていたから、きっとあれは夢だ。眠りにつく直前まで『雨に唄えば』を観ていたからかもしれない。まるで古い無声映画のように音はなくて、色もなかった。

わたしは、ひとくちずつ残した惣菜や発泡酒の空き缶でごった返しているテーブルの前に座り、きちんとコースターを敷いてコーヒーを飲んでいた。吸い込まれてしまいそうなぐらいに真っ黒のそれは、砂糖をそのまま噛み砕いたような甘い味がした。なおも文字に目を落としているあなたはそこにいなかった。

夢の中のわたしは、一度だけ口をつけたコーヒーカップを壁に投げつけて、しばらく黙り込んだあと、膝小僧におでこをくっつけて、肩を震わせていた。あれはいったい、何が悲しかったのだろうか。

薄目を開けて、コーヒーカップの行方を眺めた。放った先の壁にはつまなさそうにいつも通りが佇んでいた。「また寝るの」とまた笑いながらあなたは言った。目も合わせずに放ったその言葉に、まどろみから救ってくれるほどの力はなく、ましてやそれを望んでもいないだろう。どうせあなたのことだ。小雨が降り出してくれば、ゆっくりと肩を揺すって、「そろそろ帰らなくちゃ」と優しく起こしてくれるのだろう。それを安心だなんて到底思えないおまえは意地が悪くて惨めだ、と知らしめるほどに穏やかな顔で、玄関まで手を引いて送ってくれるのだろう。わたしも同じ顔で「またね」だなんて返して笑っているんだろう。

あのコーヒーの味が今も喉にどろりと溜まっているような気がした。わたしはブラックコーヒーが飲めない。不規則な間隔でページを捲る音が耳に入る。まるで壊れてしまった時計のようだ。空を飛ぶ鳥は椅子に座る夢を見ない。味を知らないわたしは夢も見られない。

誠意って、何かね

夏はもう、私達を置いてどこかへ行ってしまったようで。
どうもこんばんは。
あなたの街の 瀬戸内寂聴、マイティー猿です。
愛、覚えていますか?

 

さてさて先日、消防署が毎年マイカンパニーにて行う救急救命講習なるものに参加してきた話でございます。
「あっ、負傷者を発見!あなたは119番を、あなたはAEDを探してきて下さい!」
というアレである。アレだよアレアレ。そう、まさし。まさしだよ。

 


毎年行われているとは言え、やはり社員の数が多い。その為誰も彼もを参加させるわけにもいかず、何年かに一度、指名され参加する程度のものなのだ。
確か私が最後に受けたのは3年前である。
内容などサッパリ覚えていない。


それもそのハズ3年といえば永遠とも思える長い時間である。
おおよその読者諸賢におかれましてはまだ胚であった位の太古の昔。
遡れば命の輪廻はぐるぐるり。

 回る 回るよ 時代は回る

出会いと 別れを 繰り返し
今日は別れた恋人達も 生まれ変わって
巡り会うし私はまだステゴザウルスであった頃なのだ。
覚えていようはずもない。
アロサウルスはダチよダチ。マブ。

 


それだけに、非常に新鮮な気持ちで今回の講習に臨む事ができた。
こんな……こんな心をキュッと締め付けるドラマパート映像を流していただろうか。

 

次から次へと老若ニャンにょ……老若からのiPhoneの予測変換第1位がコレだったのだから勘弁してほしい。

これがイノベーションなのだ。
老若ニャンにょ御構い無しに心の臓が止まり、帰らぬ人となってゆく。

 

倒れてから処置を受けるまでのシビアな時間猶予。
時を経れば経る程生存率は勿論社会復帰の可能性も低下してゆく。
ああいうドラマパートを、世の皆々様はどのように見るのであろうか。

 

猿はというと、それはもう異様に感情移入していた。
ヤバいヤツのバイヤーな部分。

 

制作側の意図としては
「こんなケースやこんなケース、たくさんあるから注意してね。」なのだろうが
こちとらそれどころじゃあない。俺は最早スクリーンの中にいるのだ。

 

 

正しい知識を持った通行人に助けられ、見事社会復帰まで果たす人がいる一方で

誰も助けずわあわあと騒ぐばかり、救急隊員が到着する頃にはもう助かる見込みの無いという人……

 

とぷん、と真っ直ぐ指先から、ほとんどしぶきもあげずに潜ってしまった妄想の世界の中では、
私の娘が突然胸を押さえ倒れて緊急搬送されたという報せを受けていた。

 

いや娘なんかいないんですけどね。
なにせ私は今年の3月に小学校を卒業したところである。
仰げば尊し 我が師の恩。
貴様と俺とは同期の桜。
現実世界の私はまだほとんどベイビーなのだ。

 

なのだがそこは妄想である。
娘が、いる。上戸彩に似ている。
何がhiroだ、君にOTO-SANと呼ばれる筋合いは無い。
メンバーにもならない。誠意って、何かね。
帰ってくれ、そして、踊ってくれ……
So, Rising Sun 陽はまたのぼってゆく
So, Rising Sun 夜明けはそばに来てる
その光がここから どこまでも広がってく‥‥
So, Rise, Rising Sun……

 


その娘が、彩が、緊急搬送されたというのだ。
私が報せを受けた時には幸いにも意識を取り戻し始めていたとの事。

 

お父さん、もし仮に発見がもう数分遅かったとしたら、
娘さんは……いえ、やめましょう。彩さんは助かりました。
後遺症もなく、何事もなかったように明日からも学校へ通えますよ。
あちらの方が、倒れている彩さんを見つけ通報をして下さいました。

 

そう言って医者が紹介してくれた男性は、
年の頃は5.60程だろうか。
年齢の割にしっかりとした体つきをしており、何とも優しそうな笑顔をしている。

 

その男性のゴツゴツとした、私ですら父性を感じるような男らしい手を強く握り、
そして深く、深く頭を下げた。

 


あれからというもの、毎年同じ日に、
手紙と、娘の写真を添えた贈り物を男性に贈っている。

『あなたが助けて下さった娘が、今年で10歳になりました。』
『彩は今年から高校生です。』
『時が経つのは早いもので、あれから15年になりますね。』

今では私からの便りで、秋の訪れを感じるという。


彩もやはり感謝しているのだろう。
普段は写真に撮られるのは嫌がるくせに、この時期は何のための写真なのかなんとなくわかるらしい。一枚だけは素直に撮らせてくれるのだ。
ほんとうに、いい子に育ってくれた……


ことわっておくが、全て妄想である。
現実の私は娘もいなけりゃ精通もまだ。
年齢に至っては1桁なのである。

 

それでも、あの講習DVDを見ながら感謝の涙が頬を伝った。
コレはマジだ。
読者諸賢にはここで謝らなければいけないが、
このクソ長い文章のほぼ全ては虚言である。
ステゴザウルスであった過去もなければアロサウルスともマブではない。アレは敵だ。
EXILEに勧誘されてもなけりゃ貴様と俺とは同期の桜でもないのである。

 

しかし毎年贈り物をし、
すくすくと育つ彩の事を思い感謝から涙してしまった事、
残念ながらコレはマジのマジ、マージマタンゴなのだ。
DQ6派のナイスミドルに対してはウインドマージの方が分かりやすいか。

 


そう、感謝。
彩は生きている。幸せに育っている。
それだけでもう何事にも代え難い。
他になにを望むことがあるだろうか。

 

hiro君といったね、ツラくあたってしまってすまなかった。

 

……分かった。
今日から、今日から彩と、君と、私は家族だ……
そして、今日から私はEXILEのSARUだ……

 

So, Rising Sun 陽はまたのぼってゆく
So, Rising Sun 夜明けはそばに来てる
その光がここから どこまでも広がってく‥‥
So, Rise, Rising Sun……

 So, Rise, Rising Sun……
So, Rise, Rising Sun……

 

                                            -fin-

昨日の話なんだけどさ

 

 

 

心のキャパシティが限りなく狭く、あるいは真っ当な人間の一般的なそれより明らかに足りないために、すべての物事に対して真っ向から向き合う際に、「これに対して全体の心のどのくらいの部分を割けば適切に対応できるのか」「どのくらいの距離感を保っていれば適切な関係になれるのか」という脳内会議をよくしてしまいがちだ。

 

まあこの会議、何に対してでも、何回もやることにはやるんだけど、結局ぜんぶの関係をおじゃんにしてしまいたくなる突発的な衝動の方が勝ってしまって、たいていのものをぶっ壊してしまうのが常ではあることも今はおいておく。

 

 

 

さて、その会議の議題の具体的な例に「セフレはその時に何人まで必要か」というのがあると思う。

 

 

昨日、東京の西のさびれた街で知り合いと飯を食い、心理テストをしながらそういう話になり、わたしは何人まで必要だろうか、と考えながらバーでなぜかオムライスを頬張っていた。

 

「おれはねえ、1週間に8人だった時があったよ」とそのバーの店長が話に割り込んできたりもして。1日誰とも会わない日があるのに1日に3人会う日があったらしい。いや、そこは満遍なく行くもんじゃないの。3人って、それ2番目に会う人って平均的にどのくらいの時間しか話さないで終わるわけ。ビッチかよ、と思わず呟いてしまった。いや、おれは誰にでもちゃんと付き合おうと思ってたよ、とかいう返しもなんだかなあ、と思ってしまったんだけど。

 

 

それを聞いて、わたしは一時期に精々ふたりだろうなといい、話題を振った知り合いは5人かな、という話になった。

 

 

でもこれって、その人がビッチとか遊び人とかそういう人間性(しかも割とマイナスイメージの方のね、)を映しだすのもそうだけど、その人の心のキャパシティの広さもある意味示していることにならないだろうか。

 

 

わたしはわりと他人のことを、深く、からだごとというレベルで、受け容れる容器としてはあまり向いてない。ていうかそもそも人づきあいが死ぬほど悪い。飲みにいこうよ、と言われた時に大抵はどうやってやり過ごそうかなということを考えてしまうタイプの人間なので。

別にからだを受け入れたら心も受けいれるというわけでもないんだよな、ただ会ってしまうともう簡単には分断できない何かに成り下がってしまうから、自然と「この関係がおわる時はどんな時だろう」と考えざるを得ないということなんだとおもう。

 

 

だから、なんとなく一時期にたくさんのひとをそれなりに受けいれられるといった目の前の知り合いふたりを、どこか羨ましい目でみている自分がいて。

自分はまだまだ人間的に不完全なのかも、と変に落ちこんでしまったんだよ、という話だった。今日お酒やめとくねえ、と数分前の発言を早々に撤回して飲んだウォッカが美味しかったのにも関わらず、酔いがすぐに醒めるのが堪らなくさみしくなった水曜の夜の話でした。

 

 

 

 

 

透子

 

 

 

 

 

 

 

死んでもいいI LOVE YOU、あるいは、冷蔵庫について

 うまくいえないひとたち、というのは、意味の位相の中で呼吸している人たちと同義かなと思った。例えばだけれど、愛について語るときに、これは愛かも、とすらとても言えない時があって、それは言葉にすると、始まるのでなく終わってしまう恐れがあるからじゃないだろうか。どこかに向かって形を変えていく生きる姿そのものの意味が、言葉にすることによって、スタティックになってしまう場合もある、誰にでも、ある。私たちは、青空を超えられないけれども、青空で待ちぼうけする雲なんだ。

 冷蔵庫について考えると、ほとんど哲学的な気持ちになる。彼(というのは、もちろん冷蔵庫のこと)に、どんなにつらい時でさえ生きるのはなぜか、と問うと、夜中にうーん、とうなっていた。ベランダの風は、さあね、と答えた。小さな部屋を照らすスタンドは青い目で私を見詰めていた。

 秋の夜空に、ううううう、ああああ、と吟じて、冷えきったメロンのような運命味の恋がなくなった後の生活――冷蔵庫の中の在庫、その消費、を思う。なぜ、愛のきらめきは必ず儚くて、人間はその中で永遠に生きられないのだろうかと、誰かを責めたい気持ちになる。愛のきらめきを教えてくれる人も、しらけきった愛を教えてくれる人も同じということが、ざらにあるけれど、それは幸福なことなのだろうか?

 さあね。冷蔵庫の扉を開けると、同じ返事しか返ってこない。愛については、誰もわからない。私は、愛を知らない。うちの冷蔵庫も。

 けど、いつか死にたくなったらあなたと結婚するからその時は、と約束した時、私はたしかに愛を願っていた。荒野に出る、その時までは。と、彼が言う。まなざしの先に時間の大河があって、水面が出会った人たちで瞬いている。未来が人待ち顔して、ほほ笑んでも、愛のきらめきの中で息絶えることができたなら。

 一緒に死ぬときは、薄化粧して綺麗な洋服を着て、身辺整理もして冷蔵庫も捨てる。

わたしが目を醒ます

 はじめまして!だんごちゃんだよ。

 お題箱に「大森靖子が好きな人はいませんか?」という投稿を頂きました。私は大森さんが好きです!……ということで、今回記事を書かせて頂く運びになりました。よろしくねっ!

  

 大森靖子さん、好きなんです。私は大森さんがメジャーデビューする半年前くらいに偶然知って、それから必ず新曲はチェックしてます。ライブはタイミングが合わなくて数えるほどしか行けてません。だからファンを名乗るのは畏れ多い。でも、好き。大森さんはライブが本当に最高なので、行ける人は絶対ライブに行きましょう。(自戒)

 

 

 まずは、大森さんのダイマしますね!

 大森さんはギターで弾き語りを基本スタイルとしているシンガーソングライターです。メンヘラだとか病んでるだとか、そんな評価をされがちだけれど、多くの人が語るありきたりでちっぽけな枠組みなんかじゃ収まらない情熱的で真剣なパフォーマンスをしています。日夜、生の苦痛が醜くSNSで暴れ狂って生きづらさを抱えた今の時代に寄り添う不器用で優しい歌が特徴的だよ!

 フェスによく行かれる方は一度くらい「絶対彼女」「ミッドナイト清純異性交遊」を耳にしたことがあるかな。アニメ好きな方だったら『食戟のソーマ』でED曲に使用された「さっちゃんのセクシーカレー」を、アイドルが好きな方はゆるめるモ!あのちゃんとコラボした「勹″ッと<るSUMMER」を知っている…のかな??Youtubeに沢山魅力的なMVが公開されているので、是非検索してみてください。MVでおすすめは「ドグマ・マグマ」です。可愛い。みんな大好き(!?)大槻ケンヂも出演してます。

 

 

 この先はファンの勝手な語りです。

 私は大森さんの歌詞が好きだ。例えば「きゅるきゅる」だったら「誰でもいいなら私でいいじゃん」ってカラオケで叫ぶのが楽しい。「デートはやめよう」なら「コンビニで一番高いアイスでエロいことをしよう」とかも最高。好きな歌詞を永遠に列挙できるくらい好きな言葉がいっぱいある。それは大森さんが手垢のついた言葉を使わないからだと思う。初期の生活感が漂う単純な歌詞も、最新の意味不明とも言える歌詞もどちらも大森さんが書いた歌詞だ。大森さんの思想が濃く、濃く出ている。それでいて、大森さんの書く歌詞はカーテンを閉め切ってアイフォンの液晶だけが灯る部屋で一人流れてくるツイッターの文字列をダラダラ見ている貴方や貴女や私の言葉になる。不思議な共鳴が起きる。「この歌あたしのことうたっている。」この歌詞は私の言葉だ。私はこの言葉を叫びたかったんだ!という出会いがあったらもう大森さんの虜。「パーティードレス」っていう曲を初めて聴いた時は衝撃的で涙が止まらなかった。当時は幸せが分からなかったから。
 大森さんの素晴らしいところは、初期の曲から最新の曲まで、どんなにえげつない歌詞でも、圧倒的な肯定があるところだと私は思う。暴力的だし、回りくどいこともある。でもどんな絶望の中でも死にたみも全部、全部、全部肯定して意地でも生きてやるという強さがある。自分やファンの傷を舐め合うだけで終わらない大森さんの歌詞は、きっと色んな人を生かしている。明日を迎える恐怖や救いようもない劣等感、人間の醜さを包み込むエネルギーが大森さんの曲には存在する。
 大森さんも必死だし、聴いてる方もすっごく必死。多分、真面目なんだと思う。真面目に生きるっていうのは、社会の規範に従うことなんかじゃない。自分の言葉を叫び、自分の思想に従うことだ。真面目に生きるのは苦しいんだ。現在の音楽シーンはとにかく銀盤が売れなくて四苦八苦しているわけだけど、大森さんは手を抜くことなく音楽に魂を込めている。この間、ツイッターで「ガンガン無料でもたのしめるようにしていきたい派ではあるんで、なるべく多くの曲をMVつくって動画アップしてるんですが/ずっともっと良いもの作りたいのでCDよかったら買ってください。/ライブ来てください。/私のでなくてもお金を払って何かを得て、その体から剥がれない経験にしてください。」と言ってたときはさすがに驚いた。このひとは「マジックミラー」辺りから薄々感じていいたけれど、聖母なんだなあと思った。人間を人間として扱わないのは虐待に等しい行為だからあまり神聖化したくないけど、大森さんはきっと私たちと地続きのふっつーのお姉さんでありながらも神様業もやってるって言いたくなってしまう。(いや、聖母になろうと足掻いている?それが大森さんの生きる方法だった?……これは酷い解釈だと怒られそう。)

 進化し続ける大森さんは新譜が出る度に、音楽から絶望の香りがする。しかしそれに屈せず抗う光の道が必ず提示してある。影だけを追い掛けない。必ずどこかに息が出来る、私が私として存在できる場所があることを信じて、辿りつくことを諦めない意志がある。歌いたいから歌う。ただそれだけがどれほど難しいことか。大森さんの楽曲に闘いの歴史が見える。届かない伝わらない広がらないこんな世界でも誰かには響いていると信じている、きっと。

 「わたしみ」はすごいよ。はちゃめちゃすごいよ!こんな愛が溢れた曲、書けないよ。死ぬ気で生きてなきゃ生まれてこないよ。大森さんは昔から大森靖子なんだけど、どんどん磨かれて純化している。これからも大森さんが生きている限りこの世に名曲が生まれ続けると思うと私は生きていける。こうして文章を書いている間も新たにYoutubeに動画を公開している。大森さんは現在進行形で生きている。

 

 生きよう!

 

 

 好き勝手書いちゃいました。ご覧いただきありがとうございました☆

 

 

 

だんご(@Fdng7)

 

What's My Age Again?

自分っていくつだっけ?

 

学生と社会人の境界線まで来て全然大人になれていない自分たちを痛感したのは、幼なじみと地元のサイゼで3時間ねばって勉強しながら、将来に対しての愚痴を言った後の帰り道。

まあ、その幼なじみは大学院に行くつもりだから社会人までもうちょっと猶予はあるんだけれど。それにしても見事なまでの中高生コースをキメてしまった。

 

さて、唐突に話は変わるが中学生の時に好きになったBlink-182というカリフォルニアのポップパンクバンドの曲に “What's My Age Again?”という曲がある。

blink-182 - What's My Age Again?

簡単に言えば大人になれない男の曲だ。 23歳になっても全然子供っぽいことをやめられなくて周りにあきれられる話。

彼女と盛り上がってきたとこでテレビをつけるのが我慢できなかったり、その彼女の親にしょうもないイタ電かけたり。

 

俺っていくつだっけ?

年相応ってなんだよ?

 

PVの方も全裸でメンバーが街を走り回るだけのホントに愛すべきバカの一言に尽きる一品。

でも、いい年して地元のサイゼで愚痴るしかできない自分たちも根本はこの曲と大して違いがないのかも、なんて。だって中学生の頃からなにも変わっていないんだもの。

 

この曲に出会った頃は「まあ、そんなこと言っても23歳ならそれなりに大人になってるでしょ。」って思っていた。

ところがあの頃からまったく進歩していなくて、8年経った今になってこの曲が心臓をえぐってくる。

 

23歳まであと1年もないがどうなるのだろうか。どうにもならないんだろうな。

 

実際年相応ってなんなんだろう?

  

 

余談だが、この曲のPVを彼らの最新アルバムで男女逆転セルフパロディPVにしていたのでそちらも必見。残念ながらポロリはないです。

She's Out Of Her Mind - blink-182 [MUSIC VIDEO]

  

そして遅くなりましたが初めまして。Yutakaです。

ブログという場所に文を載せるのがあまりに久しいので少しどぎまぎしていますが、また調子に乗って投稿するかもしれません。その時はゆるっと見守ってください。

よろしくお願いします。

 

Yutaka()

 

宝くじは買わない

はじめまして。いきなりですが、みなさんはよく宝くじを買いますか?

私は付き合いでスクラッチを買ったり、くじ付の年賀はがきを買うくらいで、自ら進んで宝くじを買ったことが無い。

宝くじを買わない事に明確な理由は無いが、ある日突然大金が舞い込んでくる事に恐怖を感じる。5000兆円欲しい!ともそんなに思わない。こんな事言うとさとり世代、なんて揶揄されてしまうかもしれないが、お金が要らない訳ではない、清志郎のように恋に惚けている訳でもない。ただ、実感のない豊かさが怖いのだ。

宝くじを買う人の大半の心理は、

・どうせ当たらないがわずかな可能性にも賭けてみる

・もし当たったらどうしようと考える時間が楽しい

といった事が挙げられるらしい。確かにロマンは感じる。でもこれって、わざわざ宝くじを買わずとも、日常に存在するロマンなのでは?と思う。

例えば、もし明日地球がこなごなになってしまったら?無人島に一つだけ持っていくとしたら?なんて想像、誰しもした事があるのではないだろうか。あるいは、何にも変わらないのに身体測定の前日だけ夕飯を抜いてみる、とか気になる人が自分の事を好きになってくれる確率だとか。

私たちは、毎日のように目に見えない宝くじを引いているのかもしれない。自分の知らないうちに大当たりを引き当てているかもしれないし、誰かの大当たりが自分だったりするかもしれない。つまり宝くじは可視化された幸福の可能性なのだ。

私は、誰の仕業か分からないが、人生には悲報と朗報がちゃんと50:50でやってくると思っている。どんなに情けなくて寂しい夜があったとしても、亀のようにのろまかもしれないが必ず幸福がやってくると信じている。

だから、私は宝くじは買わない。ただ今は、その時がやってくるまで、次の夜や次の朝を待っている。

概念(@__oldfriends)


清志郎&チャボ 宝くじは買わない

 

こえだめ

 

ぼくは学生時分に便秘であった。はじまりは小学生の低学年、ひょっとするとそれ以前から。25年間生きているほとんどを便秘の身として過ごしてきたものだから、はっきりと記憶していない。
母いわく「うんちを我慢する癖があった」らしい。便意も催すと両手両膝を床に着けて四つん這いになり、お尻を突き出す格好になるんだとか。
なるほど、肛門を上に向けていれば、うんちを排泄しようとする腸の動きにすこしは抗えるのかもしれない。なにせ、この地球には引力が働いているものだから。

 

もしもぼくが、もっともっと早い時代に生まれていたなら、この我慢法に「引力」発見の糸口を見出したのかもしれない。
科学の教科書には「ニュートン」ではなく、ぼくの名が載っていたのかもしれない。かの「木から林檎」は「肛門からうんち」であったのかも。

 

便秘があたりまえと思っていた人生、改善に努めようと思ったことは一度もなかった。
しかし、大学を卒業し社会人となってから、次第に改善へと向かった。殊更なにかをしたわけではない。ぼくの就職した会社の環境がそうさせた。

 

デスクワークが基本的な業務の会社であった。残業があたりまえな業種であるがゆえ、毎晩遅くまでオフィスで、パソコンのディスプレイとのにらめっこを強いられた。いつもドロー。そう、どちらも笑わない。

 

ディスプレイは「笑わない」と表現するのが至極当然だが、ぼくについてはそう表現すると少し誤りがある。

 

ぼくは「笑えない」のであった。

 

原因は、オフィス内に蔓延る重苦しい空気にあった。発信源はトップの上司。要するにそのオフィスのなかでいちばん偉いひと、である。

常に眉間に皺を寄せ、話しかけるといかにも機嫌が悪そうな低い声色で「んん?」と返事をする、そんな彼から放たれる過度な緊張感に、入社初日から圧倒された。他の社員たちが威圧され小声で話す様を見て「どうやらこの部屋には寝かしつけた赤児がいる……?」と思ったほどだ。

 

極力その上司とは話したくないのだが、判断の難しい事案があれば、しぶしぶ彼に話しかける必要があった。そのときは皆、ドミノ倒しを並べている最中のような「触れてはいけないが、近づかなければ事が進まない」というストレスと戦っていた。

 

そうしたオフィス中にある重圧に耐え兼ねたぼくは、トイレに逃げ込むようになった。やはり重力には逆らえないものである。

 

トイレの個室に避難すると、すぐさま便座に腰を下ろす。それからの数分間だけが、ぼくの心が平静を取り戻す唯一の時間であった。

 

ぼくはトイレで毎度、ツイッターを見ていた。そして、思うことがあればつぶやいた。上司をはじめとする会社への不満をぶちまけるときもあれば、無関係で阿呆なことを書いたりした。

 

そうしていると、投稿する文字を入力している間に、便意がやってくることがある。どうやら頻繁に便座に座っていると、うんちは下へ下へと引力で落ちてゆくらしい。……やはりニュートンの席にはぼくが座るべきでは。

 

現実、座っているのは、便座。
次第に引力によってうんちが出るようになり、社会人になって丸一年が経つ頃には便秘が改善された。それはトイレに避難し、ツイートし続けた、ということでもある。

 

ぼくにとって会社のトイレは、うんちを出す場所であり、ストレスを吐き出す場所となった。

 

毎日、目的を持たない声を、トイレからタイムラインへどんどん溜めている。それは今日まで続いている。きっとこれからも、繰り返すのだろう。

 

そんなぼくにとってのツイッターは、「声溜」とでも呼ぶべきだろうか。

ぼくはいったい、クソみたいなツイートをいつまで続けるつもりだろうか。

 

やれやれ。

快便なのに、笑えないのであった。

 

以上

 

 

 

駄文を失礼

ぱまお(@pamao__)