うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

大型新連載開始!!

 

 

あー***(@****)である。
管理人サマより「おまえは名乗るな!」とのこと、どうせ検閲で消されると思うんだけど、最初に名乗りを上げてみた。紳士だし。

 

 

さて、ブログですか?
何人かで無秩序に運営するブログはいずれ、コンクリートの壁に落書きされたグラフィティアートみたいな感じになるのかな。なにしろ書くテーマは自由らしい。私的な身辺雑記が塗り重ねられる場所では、まわりに類似色がない“固有の色”を出す方が賢そうだ。

 

 

固有の色、だとさ。

人間を色に喩えた安易は措くとして、そもそも個人の言葉に於ける固有性ってなんだろうね、という話だ。その延長上には、みなが「個性」として崇め奉る御神体の正体もありそうだ。

 

はっきり言うと、俺は個性という幻想をまったく信用していない。必死に自分の個性を吹聴する凡庸は、たとえばよく耳にする「わたしってよく変わってるって言われるの〜」という言いぐさへの反感を想像すれば分かりやすいと思う。
なんというか、個性は本来“孤性”とでも書くべき性質で、ほんとうに変わっているやつはいつも申し訳なさそうに俯いているものなんだ。どうせありがちな個性なら、それを恥じる羞恥心の方がずっと好ましい。

 

ところで、弱っている人間が魅入られやすい言葉にはふたつあるという。ちょっと考えれば分かる話なんだけど、それは「永遠」と「あなただけ」というやつだ。このふたつに通底するのは、人間に潜在する祈りである。

 

ひとは誰しも、特別で固有な存在「あなただけ」として認められたい。あまつさえそれが「永遠」に続くことさえ願う。
それはひとえに、たった1回だけ遊べるクソゲーで自分をやり抜くしかないからなんだけど、せめてそこに意味や価値を見出したい願いが個性を要請している。もちろん、マヌケな日教組が一緒になって個性教育の旗を振ってきた事情もある。実は教育の場で「個性」が謳われるようになったのは戦後からなんだ。人間それぞれの個性を価値として肯定しはじめたのは民主主義である。

 

そういえば、最近マストドンで友人がこんなことを言っていた。

 

「自分が特別枠じゃないと絶対に気が済まないんだよね、特別扱いしてくれない相手には興味がないんだよ」

 

なるほど率直である。
友人はたしかに衆目が認める個性的な人間ではあるけれど、俺はこれを「子どもの言い分である」と断じた。やや気分を害したらしい友人は「僕は精神年齢が著しく低いと自覚してるし大人を繕うつもりもなく散々公言もしてるが…」と抗弁する。

 

消極的な抗弁には少し違和感を感じたのだった。
子どもの振る舞いに開き直っている人間に「子どもの言い分」を指摘して、なぜ反発が生まれたのか。
察するにそれは、自分を特別な存在だと内奥で信じることはさておき、それを他人に求めても当然する発言には、やはり一定の羞恥を覚えたからだと思われる。

 

なんというか、「固有の色」を笑ったところから、いつのまにかずいぶん話が広がってしまった。これがブログの醍醐味だと言い訳することは易しいけれど、SNSとかブログとか、誰もが自分自身のあり方と格闘しているのが現代だとも思う。
一方で、自分らしさとか、個性とか、自分が特別な存在である証明とか、そういう幻想に裏切られた先に人間の成熟があるような気もしていて、自己紹介を管理人から禁じられた俺はいま、人間の成熟などずいぶん昔に放棄した俺はいま、30分で書き殴ったテキストにどんな色が泛ぶのか、少しだけ愉しみな心持ちでいる。

次は何について書こうかな。