〔写真企画〕これはそんな話
自分のためにお金を使う行為が、昔からあんまり得意じゃない。
今までの人生の道中でそういうことをする余裕がなくなって、そうしたら物欲がそんなに強くなくなって、いざ自分のための買い物をどうしてもしなくちゃいけないって時にはすでにもうそのタスク自体がエラーみたいにみえて仕方ない。
《欲しいとおもう気持ちは一種のバグだ。まちがっている反応だ。物を欲しがるのは、卑しいことだ。わたしに何物も与えてはならないのだ。》
未だにこういう心持があるから、「なにがほしいの?」と訊かれるたびにほしいという気持ちがわからなくなってしまって、たびたび返答につまる。可愛げのない人間だとおもうけど、でもわからないんだもん。仕方ないじゃん。
そういう人間に、「ほしいとおもう気持ち 」をちょっとずつくれたひとがいる。最初にくれたのはうまれてはじめてみたおもちゃだった。これは今でも毎日鞄に入れて持ち歩いている。次にくれたのは、ミッフィーだった。一旦喧嘩したあとでようやく手元に届いた某ひよこの神様だってそうだ。標本をホルマリン漬けにしたなにかももらったな。くら寿司のガチャガチャも実は大事にとってある。多分そのひとは、わたしにあげたことすら忘れているとおもう。
形のあるものはあんまりいらないよ、とはじめは何度もいったんだが、でもそれでももらうことが嬉しいのには敵わなくて、この人からもらったものはなんでもうれしいなということに徐々に気づいたら、「ポッキー買って」とか、ちょっとずつおねだりができるようになった。その進歩が自分でもちょっとうれしくて、最終的にもらえなくてもよくなってしまったんだけども。
でもだんだん、「ほしい気持ち」が強く強くなってしまっていくのがこわくて、自分が欲張りモンスターに陥るのがとてもおそろしいな、という気持ちが育っていくんだけども、そのこわい話はまた別の機会に。
だから、今はなにがほしい?と訊かれて、なんとなく答えられるのは、「贈り物をもらってうれしいと心の底からおもえるひとがいて、とりあえずはそれがずっと続く未来がほしいかな」ということだけな気がする。
これはそんな話。
透子