うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

LIVE FOREVER

 

 

 星空。ロマンチストかしら。いいえ。オリオン座しか知らない。恋の字も知らない頃に冬の純な風に吹かれて見上げた。自転車、暖かいコート。暖かい手袋。幼い頃に星の歌を聞いていた母親の車を思い出して、家に帰る。塾の帰り。まだ明日は見えなかったけれど、見えなかったから何も不安はなかった。家々から漂うシャンプーの香りや夕飯のにおい。今日は煮物かしら。それとも魚?

 


 あれからもう10年以上経つのね。今年もオリオン座は見えるのかしら。そのまま家に帰ることもできない場所で、変わってゆく両親、それから私。星空はいつまでも変わらないものね。私に分かるのはオリオン座だけ。冬になってゆくにつれて澄んでゆく夜空。昨日今年初めて星が見えたわ。それだけ。今夜はもっと綺麗に星が見えるのかしら。季節と私たちは変わってゆくね。変わらない星空を求めて。

 

 

 

 

 

9月17日


「台風上陸、夕方から、だって」とあなたは言った。

起き抜けに怪訝な顔をして空を覗いたからだろう。あなたは隣で布団に寝そべったままで、読んでいる文庫本から目を離さずに、それからまた、「出しっぱなし」とつまらなさそうに言った。

振り向いてテーブルの方に目を移すと、昨晩の記憶と同じ光景のままで、どろどろに溶けてしまっているアイスクリームだけが時間の経過を密かに示していた。「覚えてる」と何でも無いように返したつもりが、声が掠れてしまって弱々しく響いた。あなたは何が可笑しいのか薄く笑って応えた。

気付いているのなら片付けてくれればいいのに、と思ったけれど、わたしも笑った。網戸の合間を冷たい風がくぐり抜けて入ってくる。床に転がっているビニール袋が揺られて、かさかさと音を立てた。

夢を見ていた。目を瞑って思い返す。わたしはこの部屋にいた。ちょうどこの位置から自分の背中が見えていたから、きっとあれは夢だ。眠りにつく直前まで『雨に唄えば』を観ていたからかもしれない。まるで古い無声映画のように音はなくて、色もなかった。

わたしは、ひとくちずつ残した惣菜や発泡酒の空き缶でごった返しているテーブルの前に座り、きちんとコースターを敷いてコーヒーを飲んでいた。吸い込まれてしまいそうなぐらいに真っ黒のそれは、砂糖をそのまま噛み砕いたような甘い味がした。なおも文字に目を落としているあなたはそこにいなかった。

夢の中のわたしは、一度だけ口をつけたコーヒーカップを壁に投げつけて、しばらく黙り込んだあと、膝小僧におでこをくっつけて、肩を震わせていた。あれはいったい、何が悲しかったのだろうか。

薄目を開けて、コーヒーカップの行方を眺めた。放った先の壁にはつまなさそうにいつも通りが佇んでいた。「また寝るの」とまた笑いながらあなたは言った。目も合わせずに放ったその言葉に、まどろみから救ってくれるほどの力はなく、ましてやそれを望んでもいないだろう。どうせあなたのことだ。小雨が降り出してくれば、ゆっくりと肩を揺すって、「そろそろ帰らなくちゃ」と優しく起こしてくれるのだろう。それを安心だなんて到底思えないおまえは意地が悪くて惨めだ、と知らしめるほどに穏やかな顔で、玄関まで手を引いて送ってくれるのだろう。わたしも同じ顔で「またね」だなんて返して笑っているんだろう。

あのコーヒーの味が今も喉にどろりと溜まっているような気がした。わたしはブラックコーヒーが飲めない。不規則な間隔でページを捲る音が耳に入る。まるで壊れてしまった時計のようだ。空を飛ぶ鳥は椅子に座る夢を見ない。味を知らないわたしは夢も見られない。

誠意って、何かね

夏はもう、私達を置いてどこかへ行ってしまったようで。
どうもこんばんは。
あなたの街の 瀬戸内寂聴、マイティー猿です。
愛、覚えていますか?

 

さてさて先日、消防署が毎年マイカンパニーにて行う救急救命講習なるものに参加してきた話でございます。
「あっ、負傷者を発見!あなたは119番を、あなたはAEDを探してきて下さい!」
というアレである。アレだよアレアレ。そう、まさし。まさしだよ。

 


毎年行われているとは言え、やはり社員の数が多い。その為誰も彼もを参加させるわけにもいかず、何年かに一度、指名され参加する程度のものなのだ。
確か私が最後に受けたのは3年前である。
内容などサッパリ覚えていない。


それもそのハズ3年といえば永遠とも思える長い時間である。
おおよその読者諸賢におかれましてはまだ胚であった位の太古の昔。
遡れば命の輪廻はぐるぐるり。

 回る 回るよ 時代は回る

出会いと 別れを 繰り返し
今日は別れた恋人達も 生まれ変わって
巡り会うし私はまだステゴザウルスであった頃なのだ。
覚えていようはずもない。
アロサウルスはダチよダチ。マブ。

 


それだけに、非常に新鮮な気持ちで今回の講習に臨む事ができた。
こんな……こんな心をキュッと締め付けるドラマパート映像を流していただろうか。

 

次から次へと老若ニャンにょ……老若からのiPhoneの予測変換第1位がコレだったのだから勘弁してほしい。

これがイノベーションなのだ。
老若ニャンにょ御構い無しに心の臓が止まり、帰らぬ人となってゆく。

 

倒れてから処置を受けるまでのシビアな時間猶予。
時を経れば経る程生存率は勿論社会復帰の可能性も低下してゆく。
ああいうドラマパートを、世の皆々様はどのように見るのであろうか。

 

猿はというと、それはもう異様に感情移入していた。
ヤバいヤツのバイヤーな部分。

 

制作側の意図としては
「こんなケースやこんなケース、たくさんあるから注意してね。」なのだろうが
こちとらそれどころじゃあない。俺は最早スクリーンの中にいるのだ。

 

 

正しい知識を持った通行人に助けられ、見事社会復帰まで果たす人がいる一方で

誰も助けずわあわあと騒ぐばかり、救急隊員が到着する頃にはもう助かる見込みの無いという人……

 

とぷん、と真っ直ぐ指先から、ほとんどしぶきもあげずに潜ってしまった妄想の世界の中では、
私の娘が突然胸を押さえ倒れて緊急搬送されたという報せを受けていた。

 

いや娘なんかいないんですけどね。
なにせ私は今年の3月に小学校を卒業したところである。
仰げば尊し 我が師の恩。
貴様と俺とは同期の桜。
現実世界の私はまだほとんどベイビーなのだ。

 

なのだがそこは妄想である。
娘が、いる。上戸彩に似ている。
何がhiroだ、君にOTO-SANと呼ばれる筋合いは無い。
メンバーにもならない。誠意って、何かね。
帰ってくれ、そして、踊ってくれ……
So, Rising Sun 陽はまたのぼってゆく
So, Rising Sun 夜明けはそばに来てる
その光がここから どこまでも広がってく‥‥
So, Rise, Rising Sun……

 


その娘が、彩が、緊急搬送されたというのだ。
私が報せを受けた時には幸いにも意識を取り戻し始めていたとの事。

 

お父さん、もし仮に発見がもう数分遅かったとしたら、
娘さんは……いえ、やめましょう。彩さんは助かりました。
後遺症もなく、何事もなかったように明日からも学校へ通えますよ。
あちらの方が、倒れている彩さんを見つけ通報をして下さいました。

 

そう言って医者が紹介してくれた男性は、
年の頃は5.60程だろうか。
年齢の割にしっかりとした体つきをしており、何とも優しそうな笑顔をしている。

 

その男性のゴツゴツとした、私ですら父性を感じるような男らしい手を強く握り、
そして深く、深く頭を下げた。

 


あれからというもの、毎年同じ日に、
手紙と、娘の写真を添えた贈り物を男性に贈っている。

『あなたが助けて下さった娘が、今年で10歳になりました。』
『彩は今年から高校生です。』
『時が経つのは早いもので、あれから15年になりますね。』

今では私からの便りで、秋の訪れを感じるという。


彩もやはり感謝しているのだろう。
普段は写真に撮られるのは嫌がるくせに、この時期は何のための写真なのかなんとなくわかるらしい。一枚だけは素直に撮らせてくれるのだ。
ほんとうに、いい子に育ってくれた……


ことわっておくが、全て妄想である。
現実の私は娘もいなけりゃ精通もまだ。
年齢に至っては1桁なのである。

 

それでも、あの講習DVDを見ながら感謝の涙が頬を伝った。
コレはマジだ。
読者諸賢にはここで謝らなければいけないが、
このクソ長い文章のほぼ全ては虚言である。
ステゴザウルスであった過去もなければアロサウルスともマブではない。アレは敵だ。
EXILEに勧誘されてもなけりゃ貴様と俺とは同期の桜でもないのである。

 

しかし毎年贈り物をし、
すくすくと育つ彩の事を思い感謝から涙してしまった事、
残念ながらコレはマジのマジ、マージマタンゴなのだ。
DQ6派のナイスミドルに対してはウインドマージの方が分かりやすいか。

 


そう、感謝。
彩は生きている。幸せに育っている。
それだけでもう何事にも代え難い。
他になにを望むことがあるだろうか。

 

hiro君といったね、ツラくあたってしまってすまなかった。

 

……分かった。
今日から、今日から彩と、君と、私は家族だ……
そして、今日から私はEXILEのSARUだ……

 

So, Rising Sun 陽はまたのぼってゆく
So, Rising Sun 夜明けはそばに来てる
その光がここから どこまでも広がってく‥‥
So, Rise, Rising Sun……

 So, Rise, Rising Sun……
So, Rise, Rising Sun……

 

                                            -fin-

昨日の話なんだけどさ

 

 

 

心のキャパシティが限りなく狭く、あるいは真っ当な人間の一般的なそれより明らかに足りないために、すべての物事に対して真っ向から向き合う際に、「これに対して全体の心のどのくらいの部分を割けば適切に対応できるのか」「どのくらいの距離感を保っていれば適切な関係になれるのか」という脳内会議をよくしてしまいがちだ。

 

まあこの会議、何に対してでも、何回もやることにはやるんだけど、結局ぜんぶの関係をおじゃんにしてしまいたくなる突発的な衝動の方が勝ってしまって、たいていのものをぶっ壊してしまうのが常ではあることも今はおいておく。

 

 

 

さて、その会議の議題の具体的な例に「セフレはその時に何人まで必要か」というのがあると思う。

 

 

昨日、東京の西のさびれた街で知り合いと飯を食い、心理テストをしながらそういう話になり、わたしは何人まで必要だろうか、と考えながらバーでなぜかオムライスを頬張っていた。

 

「おれはねえ、1週間に8人だった時があったよ」とそのバーの店長が話に割り込んできたりもして。1日誰とも会わない日があるのに1日に3人会う日があったらしい。いや、そこは満遍なく行くもんじゃないの。3人って、それ2番目に会う人って平均的にどのくらいの時間しか話さないで終わるわけ。ビッチかよ、と思わず呟いてしまった。いや、おれは誰にでもちゃんと付き合おうと思ってたよ、とかいう返しもなんだかなあ、と思ってしまったんだけど。

 

 

それを聞いて、わたしは一時期に精々ふたりだろうなといい、話題を振った知り合いは5人かな、という話になった。

 

 

でもこれって、その人がビッチとか遊び人とかそういう人間性(しかも割とマイナスイメージの方のね、)を映しだすのもそうだけど、その人の心のキャパシティの広さもある意味示していることにならないだろうか。

 

 

わたしはわりと他人のことを、深く、からだごとというレベルで、受け容れる容器としてはあまり向いてない。ていうかそもそも人づきあいが死ぬほど悪い。飲みにいこうよ、と言われた時に大抵はどうやってやり過ごそうかなということを考えてしまうタイプの人間なので。

別にからだを受け入れたら心も受けいれるというわけでもないんだよな、ただ会ってしまうともう簡単には分断できない何かに成り下がってしまうから、自然と「この関係がおわる時はどんな時だろう」と考えざるを得ないということなんだとおもう。

 

 

だから、なんとなく一時期にたくさんのひとをそれなりに受けいれられるといった目の前の知り合いふたりを、どこか羨ましい目でみている自分がいて。

自分はまだまだ人間的に不完全なのかも、と変に落ちこんでしまったんだよ、という話だった。今日お酒やめとくねえ、と数分前の発言を早々に撤回して飲んだウォッカが美味しかったのにも関わらず、酔いがすぐに醒めるのが堪らなくさみしくなった水曜の夜の話でした。

 

 

 

 

 

透子

 

 

 

 

 

 

 

死んでもいいI LOVE YOU、あるいは、冷蔵庫について

 うまくいえないひとたち、というのは、意味の位相の中で呼吸している人たちと同義かなと思った。例えばだけれど、愛について語るときに、これは愛かも、とすらとても言えない時があって、それは言葉にすると、始まるのでなく終わってしまう恐れがあるからじゃないだろうか。どこかに向かって形を変えていく生きる姿そのものの意味が、言葉にすることによって、スタティックになってしまう場合もある、誰にでも、ある。私たちは、青空を超えられないけれども、青空で待ちぼうけする雲なんだ。

 冷蔵庫について考えると、ほとんど哲学的な気持ちになる。彼(というのは、もちろん冷蔵庫のこと)に、どんなにつらい時でさえ生きるのはなぜか、と問うと、夜中にうーん、とうなっていた。ベランダの風は、さあね、と答えた。小さな部屋を照らすスタンドは青い目で私を見詰めていた。

 秋の夜空に、ううううう、ああああ、と吟じて、冷えきったメロンのような運命味の恋がなくなった後の生活――冷蔵庫の中の在庫、その消費、を思う。なぜ、愛のきらめきは必ず儚くて、人間はその中で永遠に生きられないのだろうかと、誰かを責めたい気持ちになる。愛のきらめきを教えてくれる人も、しらけきった愛を教えてくれる人も同じということが、ざらにあるけれど、それは幸福なことなのだろうか?

 さあね。冷蔵庫の扉を開けると、同じ返事しか返ってこない。愛については、誰もわからない。私は、愛を知らない。うちの冷蔵庫も。

 けど、いつか死にたくなったらあなたと結婚するからその時は、と約束した時、私はたしかに愛を願っていた。荒野に出る、その時までは。と、彼が言う。まなざしの先に時間の大河があって、水面が出会った人たちで瞬いている。未来が人待ち顔して、ほほ笑んでも、愛のきらめきの中で息絶えることができたなら。

 一緒に死ぬときは、薄化粧して綺麗な洋服を着て、身辺整理もして冷蔵庫も捨てる。

わたしが目を醒ます

 はじめまして!だんごちゃんだよ。

 お題箱に「大森靖子が好きな人はいませんか?」という投稿を頂きました。私は大森さんが好きです!……ということで、今回記事を書かせて頂く運びになりました。よろしくねっ!

  

 大森靖子さん、好きなんです。私は大森さんがメジャーデビューする半年前くらいに偶然知って、それから必ず新曲はチェックしてます。ライブはタイミングが合わなくて数えるほどしか行けてません。だからファンを名乗るのは畏れ多い。でも、好き。大森さんはライブが本当に最高なので、行ける人は絶対ライブに行きましょう。(自戒)

 

 

 まずは、大森さんのダイマしますね!

 大森さんはギターで弾き語りを基本スタイルとしているシンガーソングライターです。メンヘラだとか病んでるだとか、そんな評価をされがちだけれど、多くの人が語るありきたりでちっぽけな枠組みなんかじゃ収まらない情熱的で真剣なパフォーマンスをしています。日夜、生の苦痛が醜くSNSで暴れ狂って生きづらさを抱えた今の時代に寄り添う不器用で優しい歌が特徴的だよ!

 フェスによく行かれる方は一度くらい「絶対彼女」「ミッドナイト清純異性交遊」を耳にしたことがあるかな。アニメ好きな方だったら『食戟のソーマ』でED曲に使用された「さっちゃんのセクシーカレー」を、アイドルが好きな方はゆるめるモ!あのちゃんとコラボした「勹″ッと<るSUMMER」を知っている…のかな??Youtubeに沢山魅力的なMVが公開されているので、是非検索してみてください。MVでおすすめは「ドグマ・マグマ」です。可愛い。みんな大好き(!?)大槻ケンヂも出演してます。

 

 

 この先はファンの勝手な語りです。

 私は大森さんの歌詞が好きだ。例えば「きゅるきゅる」だったら「誰でもいいなら私でいいじゃん」ってカラオケで叫ぶのが楽しい。「デートはやめよう」なら「コンビニで一番高いアイスでエロいことをしよう」とかも最高。好きな歌詞を永遠に列挙できるくらい好きな言葉がいっぱいある。それは大森さんが手垢のついた言葉を使わないからだと思う。初期の生活感が漂う単純な歌詞も、最新の意味不明とも言える歌詞もどちらも大森さんが書いた歌詞だ。大森さんの思想が濃く、濃く出ている。それでいて、大森さんの書く歌詞はカーテンを閉め切ってアイフォンの液晶だけが灯る部屋で一人流れてくるツイッターの文字列をダラダラ見ている貴方や貴女や私の言葉になる。不思議な共鳴が起きる。「この歌あたしのことうたっている。」この歌詞は私の言葉だ。私はこの言葉を叫びたかったんだ!という出会いがあったらもう大森さんの虜。「パーティードレス」っていう曲を初めて聴いた時は衝撃的で涙が止まらなかった。当時は幸せが分からなかったから。
 大森さんの素晴らしいところは、初期の曲から最新の曲まで、どんなにえげつない歌詞でも、圧倒的な肯定があるところだと私は思う。暴力的だし、回りくどいこともある。でもどんな絶望の中でも死にたみも全部、全部、全部肯定して意地でも生きてやるという強さがある。自分やファンの傷を舐め合うだけで終わらない大森さんの歌詞は、きっと色んな人を生かしている。明日を迎える恐怖や救いようもない劣等感、人間の醜さを包み込むエネルギーが大森さんの曲には存在する。
 大森さんも必死だし、聴いてる方もすっごく必死。多分、真面目なんだと思う。真面目に生きるっていうのは、社会の規範に従うことなんかじゃない。自分の言葉を叫び、自分の思想に従うことだ。真面目に生きるのは苦しいんだ。現在の音楽シーンはとにかく銀盤が売れなくて四苦八苦しているわけだけど、大森さんは手を抜くことなく音楽に魂を込めている。この間、ツイッターで「ガンガン無料でもたのしめるようにしていきたい派ではあるんで、なるべく多くの曲をMVつくって動画アップしてるんですが/ずっともっと良いもの作りたいのでCDよかったら買ってください。/ライブ来てください。/私のでなくてもお金を払って何かを得て、その体から剥がれない経験にしてください。」と言ってたときはさすがに驚いた。このひとは「マジックミラー」辺りから薄々感じていいたけれど、聖母なんだなあと思った。人間を人間として扱わないのは虐待に等しい行為だからあまり神聖化したくないけど、大森さんはきっと私たちと地続きのふっつーのお姉さんでありながらも神様業もやってるって言いたくなってしまう。(いや、聖母になろうと足掻いている?それが大森さんの生きる方法だった?……これは酷い解釈だと怒られそう。)

 進化し続ける大森さんは新譜が出る度に、音楽から絶望の香りがする。しかしそれに屈せず抗う光の道が必ず提示してある。影だけを追い掛けない。必ずどこかに息が出来る、私が私として存在できる場所があることを信じて、辿りつくことを諦めない意志がある。歌いたいから歌う。ただそれだけがどれほど難しいことか。大森さんの楽曲に闘いの歴史が見える。届かない伝わらない広がらないこんな世界でも誰かには響いていると信じている、きっと。

 「わたしみ」はすごいよ。はちゃめちゃすごいよ!こんな愛が溢れた曲、書けないよ。死ぬ気で生きてなきゃ生まれてこないよ。大森さんは昔から大森靖子なんだけど、どんどん磨かれて純化している。これからも大森さんが生きている限りこの世に名曲が生まれ続けると思うと私は生きていける。こうして文章を書いている間も新たにYoutubeに動画を公開している。大森さんは現在進行形で生きている。

 

 生きよう!

 

 

 好き勝手書いちゃいました。ご覧いただきありがとうございました☆

 

 

 

だんご(@Fdng7)

 

What's My Age Again?

自分っていくつだっけ?

 

学生と社会人の境界線まで来て全然大人になれていない自分たちを痛感したのは、幼なじみと地元のサイゼで3時間ねばって勉強しながら、将来に対しての愚痴を言った後の帰り道。

まあ、その幼なじみは大学院に行くつもりだから社会人までもうちょっと猶予はあるんだけれど。それにしても見事なまでの中高生コースをキメてしまった。

 

さて、唐突に話は変わるが中学生の時に好きになったBlink-182というカリフォルニアのポップパンクバンドの曲に “What's My Age Again?”という曲がある。

blink-182 - What's My Age Again?

簡単に言えば大人になれない男の曲だ。 23歳になっても全然子供っぽいことをやめられなくて周りにあきれられる話。

彼女と盛り上がってきたとこでテレビをつけるのが我慢できなかったり、その彼女の親にしょうもないイタ電かけたり。

 

俺っていくつだっけ?

年相応ってなんだよ?

 

PVの方も全裸でメンバーが街を走り回るだけのホントに愛すべきバカの一言に尽きる一品。

でも、いい年して地元のサイゼで愚痴るしかできない自分たちも根本はこの曲と大して違いがないのかも、なんて。だって中学生の頃からなにも変わっていないんだもの。

 

この曲に出会った頃は「まあ、そんなこと言っても23歳ならそれなりに大人になってるでしょ。」って思っていた。

ところがあの頃からまったく進歩していなくて、8年経った今になってこの曲が心臓をえぐってくる。

 

23歳まであと1年もないがどうなるのだろうか。どうにもならないんだろうな。

 

実際年相応ってなんなんだろう?

  

 

余談だが、この曲のPVを彼らの最新アルバムで男女逆転セルフパロディPVにしていたのでそちらも必見。残念ながらポロリはないです。

She's Out Of Her Mind - blink-182 [MUSIC VIDEO]

  

そして遅くなりましたが初めまして。Yutakaです。

ブログという場所に文を載せるのがあまりに久しいので少しどぎまぎしていますが、また調子に乗って投稿するかもしれません。その時はゆるっと見守ってください。

よろしくお願いします。

 

Yutaka()

 

宝くじは買わない

はじめまして。いきなりですが、みなさんはよく宝くじを買いますか?

私は付き合いでスクラッチを買ったり、くじ付の年賀はがきを買うくらいで、自ら進んで宝くじを買ったことが無い。

宝くじを買わない事に明確な理由は無いが、ある日突然大金が舞い込んでくる事に恐怖を感じる。5000兆円欲しい!ともそんなに思わない。こんな事言うとさとり世代、なんて揶揄されてしまうかもしれないが、お金が要らない訳ではない、清志郎のように恋に惚けている訳でもない。ただ、実感のない豊かさが怖いのだ。

宝くじを買う人の大半の心理は、

・どうせ当たらないがわずかな可能性にも賭けてみる

・もし当たったらどうしようと考える時間が楽しい

といった事が挙げられるらしい。確かにロマンは感じる。でもこれって、わざわざ宝くじを買わずとも、日常に存在するロマンなのでは?と思う。

例えば、もし明日地球がこなごなになってしまったら?無人島に一つだけ持っていくとしたら?なんて想像、誰しもした事があるのではないだろうか。あるいは、何にも変わらないのに身体測定の前日だけ夕飯を抜いてみる、とか気になる人が自分の事を好きになってくれる確率だとか。

私たちは、毎日のように目に見えない宝くじを引いているのかもしれない。自分の知らないうちに大当たりを引き当てているかもしれないし、誰かの大当たりが自分だったりするかもしれない。つまり宝くじは可視化された幸福の可能性なのだ。

私は、誰の仕業か分からないが、人生には悲報と朗報がちゃんと50:50でやってくると思っている。どんなに情けなくて寂しい夜があったとしても、亀のようにのろまかもしれないが必ず幸福がやってくると信じている。

だから、私は宝くじは買わない。ただ今は、その時がやってくるまで、次の夜や次の朝を待っている。

概念(@__oldfriends)


清志郎&チャボ 宝くじは買わない

 

こえだめ

 

ぼくは学生時分に便秘であった。はじまりは小学生の低学年、ひょっとするとそれ以前から。25年間生きているほとんどを便秘の身として過ごしてきたものだから、はっきりと記憶していない。
母いわく「うんちを我慢する癖があった」らしい。便意も催すと両手両膝を床に着けて四つん這いになり、お尻を突き出す格好になるんだとか。
なるほど、肛門を上に向けていれば、うんちを排泄しようとする腸の動きにすこしは抗えるのかもしれない。なにせ、この地球には引力が働いているものだから。

 

もしもぼくが、もっともっと早い時代に生まれていたなら、この我慢法に「引力」発見の糸口を見出したのかもしれない。
科学の教科書には「ニュートン」ではなく、ぼくの名が載っていたのかもしれない。かの「木から林檎」は「肛門からうんち」であったのかも。

 

便秘があたりまえと思っていた人生、改善に努めようと思ったことは一度もなかった。
しかし、大学を卒業し社会人となってから、次第に改善へと向かった。殊更なにかをしたわけではない。ぼくの就職した会社の環境がそうさせた。

 

デスクワークが基本的な業務の会社であった。残業があたりまえな業種であるがゆえ、毎晩遅くまでオフィスで、パソコンのディスプレイとのにらめっこを強いられた。いつもドロー。そう、どちらも笑わない。

 

ディスプレイは「笑わない」と表現するのが至極当然だが、ぼくについてはそう表現すると少し誤りがある。

 

ぼくは「笑えない」のであった。

 

原因は、オフィス内に蔓延る重苦しい空気にあった。発信源はトップの上司。要するにそのオフィスのなかでいちばん偉いひと、である。

常に眉間に皺を寄せ、話しかけるといかにも機嫌が悪そうな低い声色で「んん?」と返事をする、そんな彼から放たれる過度な緊張感に、入社初日から圧倒された。他の社員たちが威圧され小声で話す様を見て「どうやらこの部屋には寝かしつけた赤児がいる……?」と思ったほどだ。

 

極力その上司とは話したくないのだが、判断の難しい事案があれば、しぶしぶ彼に話しかける必要があった。そのときは皆、ドミノ倒しを並べている最中のような「触れてはいけないが、近づかなければ事が進まない」というストレスと戦っていた。

 

そうしたオフィス中にある重圧に耐え兼ねたぼくは、トイレに逃げ込むようになった。やはり重力には逆らえないものである。

 

トイレの個室に避難すると、すぐさま便座に腰を下ろす。それからの数分間だけが、ぼくの心が平静を取り戻す唯一の時間であった。

 

ぼくはトイレで毎度、ツイッターを見ていた。そして、思うことがあればつぶやいた。上司をはじめとする会社への不満をぶちまけるときもあれば、無関係で阿呆なことを書いたりした。

 

そうしていると、投稿する文字を入力している間に、便意がやってくることがある。どうやら頻繁に便座に座っていると、うんちは下へ下へと引力で落ちてゆくらしい。……やはりニュートンの席にはぼくが座るべきでは。

 

現実、座っているのは、便座。
次第に引力によってうんちが出るようになり、社会人になって丸一年が経つ頃には便秘が改善された。それはトイレに避難し、ツイートし続けた、ということでもある。

 

ぼくにとって会社のトイレは、うんちを出す場所であり、ストレスを吐き出す場所となった。

 

毎日、目的を持たない声を、トイレからタイムラインへどんどん溜めている。それは今日まで続いている。きっとこれからも、繰り返すのだろう。

 

そんなぼくにとってのツイッターは、「声溜」とでも呼ぶべきだろうか。

ぼくはいったい、クソみたいなツイートをいつまで続けるつもりだろうか。

 

やれやれ。

快便なのに、笑えないのであった。

 

以上

 

 

 

駄文を失礼

ぱまお(@pamao__)

においについて

 

 季節の変わり目は匂いから知る。暖かさ、涼しさ、寒さ、暑さ、みな、そのあとにくる。秋は金木犀、春は桜?花の香りなら、暖かくなってから、暑さが過ぎてから。でも、そうではない、匂い。何の匂いなのだかは分からない。

 今年も、ああ、もう秋か、と、夜歩いていて思った。その匂いが鼻腔をくすぐったから。まだ、暑かった。3日して急に涼しくなった。虫も鳴きだした。秋が訪れた。

 何の匂いなのだろう?

 雨の匂いはペトリコール、というらしい。調べると化学式など、いろんなことが書いてある。この不思議な季節の匂いというものも、いつか解明されるのだろうか。あまり期待してない。どっちでもいいからね。

 

 梔子の花の香りを知ってる?

淀君の 墓梔子の 白似合ふ (池田とみ子)

 梔子の香りを知らなかったら、この歌でどんな香りを思い浮かべる?知らない香りはどんな香りだろう?

 

 私は梔子の香りを知らなかった。当時、懸想人が好んでいると聞いたガーデニアの香水を知りたくて、この歌だけを携えて、どの花だろう、この花か、あの花か。と歩き回っていた。高貴な女性の墓……淀君は気が強い女性だったらしい……

 3年ほど知らずに考えていたけれど、気づいたら今年の春、住居の近所で咲いていた。ひとに教わった。この花が梔子。そのとき、その香りは、ずっと探していた香りとは違った。もっと、こう……。ガーデニアは(くちなし)で、「梔子」ではなかったのかもしれない。

 香りと言えば、プルースト失われた時を求めて失われた時を求めて、香りという紐で記憶を手繰り寄せる。香りは記憶と密接に結びついているから。

 

 視覚も、聴覚も、触覚すらも、いまやインターネットで伝達可能な時代だけれど、嗅覚だけは、まだ。この不可思議な領域には、いろんなファンタジーが詰まっている。季節を知らせる香り、知らない香り、記憶と結びついた香り。

 

 私がおすすめするのは、知らない香りの、歌を読んで、どんな香りが想像を巡らせてみること。これはとっても面白いと思います。歌にある視覚や聴覚や触覚の情報から、イメージを膨らませて、嗅覚を感じ取ってみる。短歌や俳句の豊かさって、そのイメージのふくらみにあるから、とても楽し旅になると思いますので、ぜひ。

 

 ところで、私、初めてここに書き込みさせていただきました。毎日更新を楽しみにみなさんのブログを読ませていただいてます。これからどうぞよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

「そうだよ」

女の子が好きな女の子はダメですか?


流行りのLGBTの論に乗ろうとか全く思ってないです


この前バイト中突然私は女だけど女が好きだなあって思って過呼吸を起こしかけたオタクですどうも


そもそも私は女の子のアイドルさんが大好きなのですよ

卒業してしまう推しの公演のために就活中全く先が見えないしもしかしたらまだ内定ないかもなって4月の時点で解禁直後の6月に公演当たるかも分からないけど博多に行くための飛行機と宿取ってみたり、握手行ったりね、かわいい女の子のためならなんでもできる


私は小学校あがる前からモー娘。が好きで、振りコピしたり歌ったりして遊んでました

学校にあがると憧れる対象がアイドルから身近な友達とか先輩になり、過ごしてきました

いまは女子アイドルをおいかけつつ周りのカワイイ子にちゅっちゅこして生きてます

私は基本的にそういう愛でる対象としては女の子ばかり慈しんできました

女子大に入った私は、周囲に全く男がいない環境というのに慣れていきました

もちろん関わりがゼロではないですが、学校生活で男性と関わらずに生きていくことは難しいことではなく、そして女しかいない環境を心地いいと思う私がいました。


ここからが本題なのですが、私は自分の「女性性」みたいなものが本当に嫌です

毎月生理がくるのも気持ち悪くて他の子が生理で体調悪いとかわいそうに思うのにそれが自分だとその現象そのものが気持ち悪くなるしどこぞの老害かのように「甘えんな」とおもいます

かわいくなりたいとかかわいい女の子にあこがれるとか言いつつ自分がそういう目で見られたり男の人から好意を向けられるとそれを受け入れられないしそういう人を信じられない気持ちになります


女の子らしさとか女子力とかそういうのは大好きだし自分で持ってても大丈夫なのですが、性に関わることになると本当に気持ち悪いなあって思います

潔癖とかではないです

むしろ汚いほうです(?)


いろんなことを考えた時にふと「女の子と付き合ったり結婚する自分」を考えている自分がいて、その中で自分は確実に女の役割をしてないんです


すんなり「私は男になりたかったんだ」って思いました

自分は女だと思っているし生物学的にも女だけれど、女の子扱いされたくない、男として生きていきたいって感じです

そう思ったら「恋愛対象としての女の子」がすっと浮かんできました 「好きかもしれない」と思いました 死にたくなりました

今まで友達だと思っていたしこれからも友達だと思いたいし向こうはなにもそんなこと思わないだろうに、多分私はその子のことを恋愛対象にしていました

その子にはそんなこと思ったって一生言わないつもりです

言っても何もならないどころかこれから一緒にいられないかもしれないし


多分今まで私は自分のことをストレートだと思っていたし、本当にストレートです

(いま恋愛対象として愛しく思っている人は男性です)


でもどこかでほんとに私の好みの女の子がいて、自分がもっと早くこのことに気づいていて、その子が許してくれるなら、そういう道を歩むこともあったのだろうなあと思ったのです


そう思った時自分が怖くなりました


確かに女の子は好きだし、LGBTとかも分かる、でもそれが自分の事として受け入れられないと思いました


そんなもの望んでいないとは思いながらも自分への親からの期待や世間からの目、さらには自分を受け入れてくれるだろう女の子にも同様のものがあり、そこには法的拘束力や確かなものがないというなかでの強いつながりを持とうとする…

それら全てを受け入れることってすごく体力も気力も覚悟もいります

自分には無理だと思ってしまいました


世間のLGBTのひとたち、ほんとうにすごい


この話って「自分が『普通』である」ってことに安心してる、「『人と違う』ことを受け入れる」って話なんですよね簡単に言うと

そこに「相手」というひとりの人間が加わるだけでこんなに複雑で難しく考えてしまうのです私はオタクなので(?)


よく私は女子アイドルの話もするし、周囲の女の子にちゅっちゅこしてまわったりもします

その度に「レズなの?」「違うよ」という会話を当たり前にしてきました

私の心はまっさらなストレートではないと思います

もし「レズなの?」ときかれて「そうだよ」と答えたら周囲の私に対する反応はどう変わるのでしょうか

私をどう受け入れてくれるのでしょうか

そう考えた時に、いろんな可能性がある中で「そうだよ」と答えるってすごく勇気のいることです


きっと私はこれからも「レズなの?」という質問に「ちがうよ」と答え続けますが、心のどこかでは女の子を恋愛対象にしていますしそれでいいと思って生きていきます



こんな私をいやだと思いますか?

私の友達は私が女の子が好きでも仲良くしてくれますか?離れないでくれますか?


女の子が好きな私は、ダメですか?


かおるん(@kaaaaaoruuun)


ロールプレイング

「おれおれ!おれだよ!おれ!えっ?!おれだよ〜〜?!おれのことわかんない〜〜?おれだけど〜〜〜?!」

 

ダメ、絶対。ダメですよ。ちょっとボケてる善良なおじいちゃんおばあちゃんの預金をさ。ダメだよ。全国の高齢者の箪笥に875兆円が眠っているとか言うけどさ。どんなにワープアだからってダメだよ。今からなりすましの話をするけど、それは悪意じゃなくて希望の話なんだから。

 

さぁみなさんどうですか。日頃からキチンとなりすましてますか。

考えてみよう。なりすましてるでしょ。この現代社会、毎日毎日仮面をとっかえひっかえで大変な人もいるんじゃないですか。

僕はそらもう、なりすましまくりですよ。仕事に行けば「なんかいつもダルそうにしてる飄々とした感じの人」だし、家に帰れば「献身的に家事やら恋人の世話やらするけど、どこか抜けてるうっかり者」だし、友達の前では「几帳面で細かくておしゃべりで意地悪だけどなんだか憎めない人」だし、インターネットでは「ソシャゲの沼にハマったアタマのおかしい競馬おじさん」ですよ。一応言っておくけど、大体自称じゃないですよ。

 

現代人が当たり前のように行う「キャラクターの使い分け」の一例なんですけど、まぁどれかが本性だということもなく、環境や立場に応じて過ごしやすいキャラクターになりすますわけです。

もちろん誰もが何者にでもなれるわけではない。人にはそれぞれ引き出しというものがあるし、無い袖は振れない。

それでも「私は私だし、私以外私じゃないの。私を私として受け容れてくれる人としか関わりたくないんだもん。私私。私私私私私私私私私私」なんて言ってたら生きづらさマックスだろうし、全てから拒絶されているような気分になるときもあるだろう。ハートが複雑骨折でアタシもうオカしくなっちゃうみたいな状況になりかねない。 絶望ですね。

だからなりすます。適応するための戦略として。一度各コミュニティで各キャラクターが居場所を得さえすれば、あとは慣性に従うだけでいい。キャラは勝手にひとり歩きしだすから。

 

「人生とは物語である」みたいな価値観は生きやすくさせてくれるよという話だったんですけど、うまく言えたかな。

主人公をいろんな物語に同時並行で登場させると、物語の外側にいる作者はカオナシになっていくから、その辺のことだけアホの子みたいに「よくわかんなーい」つってハナクソをホジっておかないといけないんだけど。

ハナクソもたまにはホジらないとね。たまには。ティッシュを使ってホジるか、ホジったあとは手を洗おうね。おじさんとの約束だぞ。

 

ふわっふわの毛布 (@soft_blanket101)

 

 

告知

 

 

みなさんこんにちは、

そういや今年の夏はかき氷を食べていなかったなあ、といまふと思い出してちょっと悲しくなっているおれです、どうも。

 

 

夏が物凄い速さで通り過ぎていって、もちろん何にも手につかないまま、何にも手に入れられないまま、夢みたいな夏の感じ方を今年はしました。ほんとうに今年の夏、マジでなにしてたんだろう。東京をあちこち駆け巡って、実家に帰って怒られて、店長に店長代理を頼まれてうわーマジかーってうっすら思ったことしか記憶にない。あれ?

 

てな感じで、まもなく9月がやってきます。

 

9月はみなさんにとってどういう思い出がある月ですか?わたしは歴代の彼氏の誕生日が9月に集中しているため、個人的にため息が止まらなくなる月です。

でも今年の9月は次の月である神無月に向けて、ちょっとずつ面白いことを仕込んでいこうかなと思っています。なんせ10月はほら、おめでたいことが待ってますから。

 

 

さて、ここからが本題。

 

 

10/7はこのブログの誕生日です。もうすぐ一歳になるんです。

ということで、10月中に一歳記念企画として、週に2本、月大体8本くらいのペースでバトンを回したいとおもってます。

なので有志は最低8人を目安に募ろうかとおもってますが、足りなかったらまあ、管理人が…代わりに…2本書くかな…しんどいのでみんな書きに来て!お願い!

有志が多すぎて困る〜!ってことはないです、むしろそういう状況になりたい。

お題は前の人から受け取って次の人がそれで書く、という感じでいこうかと。

 

 

ここからは具体的な話。

有志募るのはTwitterでやりたいとおもいます。「書きたい人はこのツイートにいいね押してくださーい」みたいな感じ。拡散はバンバンしてください。

とりあえず9月初っ端から応募をかけて、大体9/10くらいになって様子みて応募打ちきります。

で、その後に書く順番を決める公開キャスをわたしがします。くじ作って引くやつね。これひとりでカラオケでやろうかとおもってるんですけど、考えただけでめちゃくちゃ空しいな。

ということを9月中にやっておきたいな、という話なんです。

 

 

 

 

わたしも9月からは私用でバタバタしている頃合いなので、うまくできるかわからないのですが、みんなよかったら気軽に参加していただけたらと思います。

 

 

書くタイミングを見逃していたりするひと、必見です。ただ今回は自分の好きなことを語る場ではないので、お題があったら書けるんだけどなあ、というひとにはぜひ参加してほしいな。

 

 

これ、一応共用ブログのアカウント使ってキャスでも告知するのでよかったら聴いてくださいねえ。

 

 

それではまた9月に会いましょう。

 

 

 

 

 

透子

 

 

 

 

 

 

 

秘密が、わたしをつくる

見上げるともうすっかり、空は秋めいている。
私の住む場所は恐らく、全国の中で一番先に季節が巡る位置にあると思う。最近、朝晩は15℃を下回る時も多い。
そうやって段々と冬に向かっていくにつれて、思い出さざるを得ない記憶が2つある。
ただ、今回はそれについて直接的に話す訳ではない。


記憶、というワードを出すと、ほぼイコールで私の頭の中に想起されるのは「秘密」というキーワードである。
「秘密がわたしをつくる」とツイートで公言している以上、秘密という言葉に対して私は独自のロジックを持っている。

それでは私の最大にして最初の秘密をここに記しておく。

「秘密があるか、ないか」

それが私の秘密である。


秘密の有無の真偽についてはどうでも良い。もし本当に秘密が無いのなら、「秘密が無い」ということを秘密とでも言っておけばいい。
人間は「知らない」「わからない」「掴めない」ものに対して、どうしても興味を持たざるを得ないし、惹かれざるを得ない。
秘密という言葉で、誰かの心に少しだけ引っ掛かる、けれど忘れられない、そんな人間になれたらなぁと思う今日この頃。


そんな訳で、初めまして。
遅ればせながら名乗らせて頂きます。
朔です。どうぞお見知り置きを。
ここのブログには皆様それぞれが素敵な文章をお書きになられていますが、私が一番稚拙且つ意味の解らない文章を書く自信があります。
宜しくお願いします。



さて、この文章の始めに出した、
「そうやって段々と冬に向かっていくにつれて、思い出さざるを得ない記憶が2つある」という一節。
本当に2つなのか、思い出す季節は今時期なのか、本当に思い出すのか、そもそも思い出すような記憶はあるのか?

それもまた、秘密である。



はじめましてになります。
これ名乗った方がいいんですかね、みんなどうなんだろ、あまり周りを気にしていきてきていないので周りについて考えるのはやめて自己顕示欲だけで名乗ることにしました だめなら編集してくれるでしょ管理人。(他人任せも私の特徴のひとつ)
どうもおはようございます、こんにちは、こんばんは。
日々考えすぎて生きていくのが面倒くさい女、かおるんです。

普段はアイドルさんについてとかアニメについてとか、頭ゆるそうなばかりついーとして生きてるので何も考えてなさそうにみえます
実際何考えてるかと言われるとなぜ同じ時代に同じ染色体を持って生まれたアイドルが私と見た目が全然違くてかわいくてやさしくてすばらしいのかとかなので、やっぱり頭はゆるいです。

たぶんそろそろ私を書き手とすることを許した人が頭抱え出す頃だと思うのですがせっかくなのでこの調子で私が最近めちゃくちゃ考えてることを言語化しようと思います。

『私は私であるために、私でなくなっている』

私の布団には最近このテーマを考えろと電流が流れているらしい。
今夜も犬夜叉Netflixで見ながら永遠にかんがえていたのですが。

私はいまわりとおちゃらけキャラでフワフワとゆるゆるとアホの子のように生きているのですが、実は小学生の頃やら幼い頃は教室の隅で本を静かに読んでいて友達ともうまく話せない、物語にでてくる典型的根暗でした。
小学校5年生のクラス替えで、ずっと憧れていた隣のクラスのかわいい女の子と同じクラスになり、その子に近づくため、友達になるためにキャラ変をしたのです!
すげえぞ私。かわいい女の子が好きってところ、キャラブレてない!笑
そして無事かわいい女の子と仲良くなることに成功した私は、その子とずっとなかよくあるためにそのキャラで居続けて、中学に上がり、同じ部活に入り、日々を過ごしていくわけです。

だんだん流れが読めてきたと思うのですが、私の心とキャラに大分差が出来てしまいました。
気づくと私はいつもおちゃらけて笑いの中心にいてギャーピーやっていて、心の中ではなにが面白いのか分からねえって言っているような子になっていました。
高校に上がっても周りのメンバーが変わらないのでそんなキャラを貫いていました。

高校2年生になる春、転校することが決まりました。
私は高校にだいぶ愛着があって死ぬほど抵抗したし、なんならひとり暮らしも検討したほどだったのですが、あることを人質に取られて転校を余儀なくされました。
ここで私は決心するわけです。「キャラ戻そう」と。

元々根暗っぽい女の子だったのに今まで無理してたからこんなことになってるんだ、今私転校で心荒んでるし戻すだけだ、そう思って学校に行ったんです

もう戻らなくなっていました

私は社会生活のほとんどを「お調子者でおちゃらけてて、アホで賑やかし係のうるせえオタク」として生きていて、それ以外の生き方を忘れてしまったのでした。
確かに私は他人から見たら「昔から変わらない」「私らしい私」なのでしょうが、それってほんとに私なのでしょうか
ストレスを感じ、本来に近い状態で考えてることをつぶやくと「キャラじゃない」「メンヘラ」と言われて、それってほんとに私のことなのか、私であることを強要されているのか、私というキャラだけがひとり歩きして本質を置いていかれるように感じて生きるのがしんどくなります
私は今日も「私らしい私」として生きて、私からかけ離れていくのでしょうね

とか考えてると「そもそも本当の私なんていうものは存在するのか」とか考えてしまうのでよくない

多分こういうことってたくさんの人が考えてるんですよ、某バンドだって『私以外私じゃないの』とか言ってますしね
最近、ちょっと意志の強い人と一緒にいることが多くて、『確固たる自己』を確立してるひとをみてるのでうらやましくなっちゃうのです

そうして「私らしい私」にすらなれない私は今日もどこかで紛れながら生きていくのです

長々とすみませんね、ものぐさであまり他人の反応とか気にしないタイプなのでたぶんこの件について私にどうしても意見したいことがある人はついったーのDMにでも送ってください
私のアカウント基本的に誰でも送れるようになってますので
まあそんな思うこともないでしょうし「こいつ生きずらそうだな」と思って読み流してくれたら幸いです

こういう人目を気にせず書きたいこと書けるのありがたいね、またなにか気まぐれにかきにきます
ありがとう

かおるんでした。