うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

マドラー

 
 
 竹久が目を覚ましたとき、聡子は歯を磨いていた。「今日は遅いのね」。今日は遅番の日だった。聡子が自分の皿を洗い始めたところで竹久はベッドから起き上がった。「今日はあの男のところに、行くのか」聡子はなんの逡巡もなく肯首した。竹久は、聡子が用意したトーストとサラダを食べ、コーヒーを飲んだ。聡子は「皿洗いをしておいてね」と言って家から出ていった。コーヒーを時間をかけてゆっくりと飲みながら、聡子は今ごろ白い車に乗ってあの男のところへ向かっているだろう、と考えた。竹久と明夫は古くからの友人だった。聡子は週に2、3度彼のもとへ通っていた。リビングの本棚の脇には聡子宛の手紙は整然と並べてある。竹久はそれを読んだことはない。竹久は残りのコーヒーを飲み干してから身支度を始めた。
 仕事が終わると竹久は明夫のやっている喫茶店に向かった。聡子はそこで働いていた。聡子はカウンター席に座る彼の姿を認めるなり「オーダーはお決まりですか」と聞いた。「ブラックのホットを一杯」。明夫が淹れるコーヒーはとても美味しかった。竹久はコーヒーを飲みながら本を読んだ。店内にはチャールズ・ミンガスが流れていた。竹久は時折、聡子に目をやった。申し分のない美しい女性だった。喫茶店は白熱灯の暖かな光が点在して、店内に暗がりをつくっていた。客も少なく静かで落ち着いてコーヒーを飲みながら本を読むにはもってこいの空間だった。聡子はしばしば竹久のところへやってきて「水をおつぎしましょうか」と尋ねた。
 竹久は小説の区切りまで読んでしまうと、明夫にごちそうさま、と言った。明夫は、いつもありがとう、と言った。「なぜかここはとてもくつろげるんだ」。
 竹久が明夫の店に行くのは聡子が店にいるときだけだった。
 その夜、聡子は家には戻らなかった。2、3日して朝起きると、聡子が朝食を作っていた。ベーコンとレタスにトマトがはさんであるパン。竹久の好物だった。
「今日は明夫さんのお店へ行くわ」
 竹久はその日も喫茶店を訪れた。店に入ってカウンター席に座ると、聡子が「ご注文はお決まりですか」と聞いた。竹久は、ホットコーヒー、と答えた。明夫はカウンターにいた。竹久は明夫に向かって、「少し話せるか」と聞いた。明夫は、もちろん、と答えた。
「聡子のことなんだが」「君のうちに住まわせてくれないか」
 明夫は表情一つ曇らせることなく、もちろん、と答えた。竹久は、聡子が運んできたコーヒーを飲みながら、終電近くになるまで、喫茶店のカウンター席で本を読み続けた。
 次の朝目覚めると竹久は聡子の存在に気がついた。聡子が数日家をあけることはしばしばだった。しかし、そのとき、そこには、決定的に彼女の存在の無さがありありと感じられた。もちろん竹久の好物のサンドイッチもなかった。
 明夫は世に云う遊び人で、多くの女性と関係を持っていた。その中で聡子がどういう存在としてあるのか、竹久には分からなかった。
 竹久はそれから毎晩、明夫の喫茶店に通った。聡子は「ご注文は何になさいますか」と聞き、竹久は「ホットコーヒー」と答えた。