うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

鏡の部屋

 セツナは左手の小指の爪を丹念に整えた。他の指、ましてや足の指などはただただ身体の白い排泄が無くなるところまで切るのみであったが、左手の小指の爪だけはセツナにとってなくてはならないものだった。その透き通るような白、それに続く滑らかな艶色。セツナにとってはその小さな指先だけが特別なのだった。先を何度も丹念に研いだ。「月より美しいわ」。セツナは目で直接見ることなく、鏡に写してその爪を眺めた。「見られることによって、美は完全なものになるのだから」。セツナにとっては、セツナのみが唯一の他者だった。セツナは水の入ったグラスに腕を伸ばすと、そのしなやかな腕の動きに耽溺した。セツナにとって自らの身体とは一つの彫刻であった。滑らかな動きのひとつひとつの瞬間を最も写実的に感覚する事ができるのだから。伸ばした腕はセツナの意識を離れて、美しい別の生き物となり、グラスを手に持ったときには、どんな彫刻家も成し遂げたことのない限りなく生身に近い彫刻となって眼孔に映し出された。手首から肘にかけて流れた血管、均整のとれた肘の骨の形、今にも握られようとする折られかけた指の形。
 セツナの食事は限りなく簡素なものだった。小さなトマト、クリームスープ、水。セツナはトマトのへたを取るのを食事の一番の楽しみにしていた。「トマトは新鮮なものでなければだめ」。指でそっと摘まみ、少しだけ左右に引く。どんなへたも同じようにとれる。「時間が均等に区切られてゆくの」。水は必ず食後に飲んだ。セツナは日常的にはほとんど水を飲まず、食事の最後になって初めて水を口にするのだった。セツナはその水が食道を流れてゆく感覚を好んでいた。
 kはセツナの部屋に通るのを許されたただ一人の人間だった。セツナの所望するものはkが何でも手に入れた。海辺の貝殻、光沢のあるもの。美しい蝶の羽、真っ黒なものに鮮やかなブルーのラインが入っているもの。セツナは黒い羽を好んだ。kはセツナの望む羽を持つ蝶を捕まえて、羽を千切る作業を何度となく行った。飛べなくなった蝶は夜の川に流した。それかセツナの望みであったから。セツナの部屋にはそれらの羽で周りを縁取られた掛け時計があった。その時計は全く実時間に合ってなかった。セツナはそれを気にもとめなかった。kがセツナに触れることは許されていなかった。ただセツナの影に触れることだけが許され、しばしばセツナはその影に接吻することをkに要請し、kはそれを行った。
 セツナはほとんどの時間眠っていて外に出ることはめったになかったが、ある日kを伴って近くにある浜辺に行った。夏であったこともあって、そこにはサーファーや家族連れやカップルたちでひしめいていた。セツナはそれらの人々の間を、まるで彼らが存在していないかのようにすり抜け、波際へ寄った。そしてkに言った。「ここにいる人はいないのよ」。
 数日経って、その海辺に若い男と女の死体がうちあげられた。セツナは一日のほとんどを眠っていたから、その日kがセツナを伺候したとき、セツナはまだ眠っていた。起きるのは何時間先になるか知れなかった。kは小さな白い錠剤を飲み下して、月光が映すセツナの陰で跪いていた。時を示さない時計の長針が三周したころセツナは瞼を薄く開いた。kは立ち上がってグラスに水を注いできた。セツナはそれを受け取るとグラスを傾けて指先を濡らした。雫がkの手の上に落ちた。kは打ち上げられた二人の死体のことをセツナに報告した。「そう、それでいいの。二人で幸せだったわね」。セツナの時計は時を示さぬまま、小さなトマトだけが確かな時間を刻んでいた。セツナの美しい爪が跪いたkの頬をなぞった。kは微動だにしなかったが、目からは涙があふれていた。
 数日後、kはセツナの部屋から姿を消した。セツナの部屋は何も変わらなかった。鏡に映る他者が一人いるだけだった。セツナは左の小指の爪を整えた。