うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

読者を選ぶ文章

読者を選ぶ文章は2流だ!
 
そう口を酸っぱくして言われてきました。文章を書くとき、それは当然誰かに読まれることを前提としている。誰かに読まれて初めて意味を持つのが文章なのだから、多くの人に読まれた方がいいに決まっている。裏を返せば読む人を選ぶ文章は、優れたものとは言えない。
 
そんなわけで読者に知識を要求する専門用語まみれの文章や、単純に難しい表現が多い文章を書くのは避けた方がいい、と。わかりやすさこそが重要である、と。読者を選ぶものを書く人間は2流。1流の文章は明快だというのが大前提。
長いあいだそういう風に思って生きてきました。
 
 
 
20代後半になってからでしょうか。気付いたのです。
 
「自分は1流でなければならない」
 
この強迫観念が自分自身の首を絞め、生きづらくさせている最大の原因でした。
今、いわゆる完璧主義みたいなものを捨てることができて、自由な人間がここでブログを書いています。
 
僕は2流でいい。
2流の文章を書きたい。
読者をガンガン選別していきたい。
わかる人だけにわかってほしい。
自分が生きやすいように。
そのためにはどうしたらいいのか。
 
僕はここで【ネタバレ】を書こうと思います。
 
ちょうど○ん○ん○ゃんから「君の名は。」を観て何を思ったか書いてほしいって言われたりしてたし。実際書いてたし。
書いてる途中でぶん投げてほったらかしていたものを、今ここに大放出する。
 
いや、こんな贅沢なことはないですよ。だって、本来は書きあがったものしか読者は目にしないんですから。
それを、書き上がる前の段階で大放出。これはすごい。お買い得。
いや、途中だけど。最後まで書いてないけど。だからなに?文句ある?
うるせぇな。今からiPhoneのメモ帳に保存してあるやつをただコピペするから見てろ。
あっ、でもアレだぞ。「君の名は。」はいい映画だから、観てないやつは読むなよ。読まない方が映画を楽しめるぞ。観たやつだけ読め。な。
あと、アレだからな。わかりにくい部分を括弧つきで補足したり、注釈を入れたりとか、絶対しないからな。全然分かりづらいからな。覚悟しろよ。
 
じゃあここからは本当にコピペしただけの、ディレクターズノーカット版でお届けします。今夜もお疲れ様でした。
 
 
 
 
年に1本か2本、背筋がゾクっとするような、他では味わうことのない不思議な感覚におちいらせてくれる映画に出会う。

君の名は。

新海誠監督の最新作アニメ映画で、興業的にも新海作品としては未曾有という言葉がふさわしいほどの大ヒットとなっている。

ここに至るまでの新海は、名はあれどもどこか「マイナー」という言葉が似合うような、落ち着いた作風の映画をつくってきた監督だった。メディアが評した言葉を借りれば、まさに「文学的」な作風である。

新海の名を「アニメファンたち」の間で有名にした出世作「秒速5センチメートル」は、説明的な言葉が比較的少ない作品である。全3話の連作短編だが、どの話も語りの目的が表現ではなく内省であるという印象を受ける。いたって感覚的、自己完結的な言葉で語られるからだ。
 
たとえば第1話、雪が降りしきる中、大きな桜の木の下で明里と貴樹がキスをする場面では、キスをした直後に貴樹の独白が挟まれる。以下に引用する。
 
 
 
永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かった気がした。13年間生きてきたことの全てを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間たまらなく悲しくなった。明里のそのぬくもりを、その魂をどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。僕たちはずっと一緒にいることはこの先もできないと、はっきり分かった。僕たちの前には、未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。でも、僕を捉えたその不安は、やがてゆるやかに溶けていき、あとには明里の柔らかなくちびるだけが残っていた。
 
 
 
たとえ大人が過去を振り返って語った言葉だったとしても、中1で初恋の女の子とファーストキスをした際の印象を述べたものとしてはやはり非常に「文学的」だ。解釈の余地はあったとしても、そこに明快さはない。
 
ただし「秒速5センチメートル」の説明不足は、画面の情報量でしっかりと補われている。情景とその構図、表情、小道具。細部まで意図を感じる。
 
 
たとえば第2話は貴樹に恋心を抱いている花苗の片想いのエピソードだが、花苗が貴樹の背中を見ている描写が何度も繰り返されることによって貴樹が花苗ではない誰かを見ていることが強調されているし、高校を卒業したら東京に行くという進路を決めている貴樹といつまでも進路を決められない花苗がこれから生きていく世界は別の世界だということが、画面を真っぷたつに割る飛行機雲の描写で表されている。
 
 
無論それは連続的に情報が流れ込んでくる映像メディアでは、言わば「オタク」的に、何度も見返さなければ気付かないような表現方法である。こういったところが新海作品の良さでもあり「マイナー」から今一歩脱皮できない原因でもあった。
 
君の名は。」のパンフレットに掲載されたインタビューの中で新海自身が述べた『「秒速5センチメートル」はバッドエンドを描いたつもりはないのに、バッドエンドと受け取られた』という言葉はまさにこのことを証明している。表現方法が明快ではないために、大多数を占めるライトな視聴者には誤解されたのだ。

---(ここからたぶん違う話)---

私たちの生きる現実も、いまやあまりに頼りない糸によってつながれている程度のものに過ぎないのではないか。SNSで報告される近況をみているだけで、本当に友人と自分がつながっていると言い切れるのか。そこには本当にあなたや、あなたがつながっていたいと思う大切な人の実体があるのか。
ただ、11本はあまりに頼りない細い糸でも、それらをしっかりと編んだ組紐は、頑丈に結びつき、簡単に切れることはない。それを結びつけるのは記憶だ。同じ時代を生きたという、時間の結びつき。同じ場所にいたという、空間の結びつき。そしてもちろん、交わした会話や繋いだ手の感触のような、人と人との物理的な結びつきも。
それらを1本ずつたぐりよせて、記憶の中で固く結べば、それは頭のどこかに必ず残る。一目見れば必ずまた思い出せる。
君の名は。」という作品にそんなメッセージをみた。

---(↑たぶんここら辺が結論)---
---(↓思いつきを繋がりなく書いてる部分)---

舞台となる架空の町「糸守」には、その名の通り古くから伝わってきた伝統という細い糸を守ってきた人たちがいた。本作のヒロイン宮水三葉とその家族、宮水家である。
 


オープニングといえば、オープニングテーマ「夢燈籠」の歌詞に「5次元にからかわれて それでも君を見るよ」という一節がある。あまり頻繁に耳にするものではない「5次元」という言葉に、否応なく巨匠クリストファーノーランの名作「インターステラー」を想起させられた。
インターステラー」のクライマックスシーンでは、全てを飲み込むブラックホールの向こう側に存在する5次元空間に主人公クーパーがたどりつく。そこは時空を超越した「この世のすべて」に干渉できる場所。そんなことが可能だとすれば、それは限りなく神に近い。神がいる世界だから「あの世」とでも言うべきか。さておき、クーパーはその無限/夢幻の世界から、10歳のときの娘マーフィーにメッセージを送って行動を誘導し、その直後に5次元空間の中を飛んでいって、35歳に成長したマーフィーに向けて人類が直面した問題を解決することができる重要な情報をモールス信号で送信する。

別作品の話が長くなったが、既に隕石の落下という災害に巻き込まれてこの世の人ではなくなっていることが発覚した三葉ともう一度出会うために、瀧は「あの世」である宮水家の御神体がある場所へ向かい「三葉の半分」である口噛み酒を飲み干す。そこで昏倒した瀧は、時空を超越して宮水家の人々の人生の糸をたどっていくことになる。最後には隕石落下事故の当日の朝に戻って三葉として目覚めるわけだが、そのシーンで表現された空間はまさに「インターステラー」で表現された5次元空間と瓜二つではなかったか。

ところで、この部分についてシナリオの中で都合が悪い部分を帳消しにする、なんでもアリの「奇跡」だと批判するような向きもあるだろう。そう言ってしまえばそれまでだが、食事をとることや水を飲むこともひとつの「結び」だとする三葉の祖母の言葉を思い出せば、「三葉の半分」を飲んだ瀧が三葉と結びつけられることに作品内での齟齬はない。何もかもが結びつくように、丁寧に語られている。

前前前世 三葉は隕石が落ちる日を2回生きる。1度目は東京まで会いに行った瀧によって与えられた2度目の生では、前世で
 
 
 
いや、ちゃんと最後まで書いてから出そうよ。その方がいいよふわ毛。ふわ毛もっと自分を大事にして