【写真企画】意図を楽しむこと
写真を添付して文章を書くという【写真企画】である。
安請け合いしてしまったが、どうしてくれようかと考え始めて頭を抱えることになった。
なにせ僕は写真を撮らない。
ツイッターやLINEでコミュニケーションをとる上で、目の前に広がっている光景とそれについて感じたことを言葉でわかりやすく表現できないときだけ、写真を撮って載せる。
あるいは、社内の掲示板に張り出された連絡事項を手でメモする代わりに撮る。
僕にとって写真とはそういうものだ。それは写真のようで「写真」ではない。あくまで文字や言葉の代用品でしかない。
なんならこの2年くらい、どこに行っても何を見ても、できるだけ写真を撮らないようにしている。
ある日、珍しいものを前にして一斉にスマホを掲げ、画面越しに対象を覗き込んでいる人たちの群れの中にいる自分に気付き、そこで考えこんでしまったからだ。
誰もがカメラを常時携帯していて、無制限に撮る。撮って撮って撮りまくることができる。
カメラ越しに世界を眺める人々。目をつむり、スマホのカメラに視ることや記憶することを代行してもらっている。
スマホはすごい。今や手の代わりであり、眼の代わりであり、脳の代わりである。この機器はもはや人の身体の一部になっているといっても過言ではない。
これについては恥ずかしながら僕自身も例外ではない。無論、この文章の主題はそういった有り様について言及することではないが、これは僕の中で写真について考える一つの切り口になった。
かつて「写真」と呼ばれていたものは「写真ではないもの」になった。
「真を写す」と書いて写真。
みなまで言うまい。
写真はデジタル化され、むしろ「偽」であることを前提とすべきものになった。
つまるところ、ほとんどの写真は「画像」になったのだ。隠すことが前提、直すことが前提、切り取ることが前提。もはやそれが一般的な認識になっていると言っていいだろう。
アナログの時代から「真を写している」というのは思い込みだったかもしれないが、それが意識されることは今より格段に少なかったはずだ。
画像を見ることの第一義が、隠されたものや切り取られて消されたものについて想像を膨らませること、あるいは焦点が合っていない部分に注目して撮影者の本意ではない部分を読み取ることになっている人も、決して少なくはないと思う。
たとえばこんな画像がある。借りてきた。
「これはわたしの家にいるブルーナボンボン」という説明が付された画像。みなさんはまずどこに注目するだろうか。
僕はここ。
オウム事件と阪神淡路大震災を契機とした様々な思索について語られている対談集。春樹が「救い」について模索していた時期の出版物だったように思う。
その隣は恩田陸の『木漏れ日に泳ぐ魚』だろう。
恥ずかしながら未読だが、今はネットでそれなりに良心的な書評を漁ることもできる。ざっくりとだが、様々な「禁忌」について考えさせられる小説だと理解した。
その隣にある「郎」と思しき漢字の記された本はなんだろう。
作家の名前だろうか。谷崎潤一郎、あるいは大江健三郎。安岡章太郎か。そこまで硬派寄りじゃないな。伊坂幸太郎かも。
そんな風に想像を巡らせる。言語化するとこれだけでも結構気持ち悪い。
以上は極端な例かもしれないが、かつての「写真」がこのような解釈をされていたとは到底思えない。受け取る側がそうしたくとも、粗さが隠れ蓑になる。
もちろん「伝えようとしていないことが伝わる」というだけではない。「伝えたいことを伝える」という機能も拡張された。
あなたの家のブルーナボンボンはこの光に満ちたブルーナボンボンですか?
それともあなたの家のブルーナボンボンはこの影に覆われたブルーナボンボンですか?
加工の仕方によって与える印象は変わり、メッセージも変わる。受け取る側に解釈を委ねられたものより、ある方向に明確に限定されたものの方が価値を持つ。そんな時代だ。
ここまで書いてきた文章も、伝えたいことを伝えるための努力の産物であるし、一方で伝えようとしていないことも伝わるという意味では、画像と同じだ。なんなら、伝えたいけれど卑しさは隠したいので直接的に表現せず、わかる人にだけ伝わればいいという託し方をしてもいる。そこも同じかもしれない。
なにせ文章は頭の中そのものだと言えるし、写真だっていまや脳を代行しているものなのだから。
さて、適当に書き殴りながらオチを考えていたのだが、さっき思いついた。
「写真」が今こうなったからこそ、この【写真企画】は面白い試みだったのではないか。
写真自体が《企て》を前提としている中で、様々な書き手が様々な写真を添えて、文章を書いてくれた。
もう一度読み返し、見返そうと思う。
そこにはきっと新しい発見がある。あらゆる変化は、そうやって受け入れていこう。
ふわっふわの毛布(@soft_blanket101)