うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

秋の日

生活の匂いが好き。

わたしが吐き出した煙草の煙を厄介そうに睨みつけながら、そう言ったあなたの部屋には、ライターも、芳香剤のひとつもなかった。

ベランダに座り込んで煙草を吸っていたら、向かいのアパートの一室の明かりが不意に呆気なく消えて、その話をふと思い出した。わたしには匂いなんて微塵も感じられなかったけれど、この部屋にはどこを見渡してもあなたがいる気がするから、そういうことだと思うようにした。

五畳半の隅っこ、床に置いた小さな植木鉢に、外から射し込んだ夕の陽が当たって、白い壁にもその花を黒く咲かせている。真っ赤な口紅が付いた吸殻が灰皿に溜まっていた。

冷蔵庫の中のビールもなくなっちゃいそうだ、ゴミの日は火曜日、週に一度のお風呂掃除、あなたが帰ってくるのは明日の昼過ぎ。

はじめてわたしがこの部屋に訪れようとしたあのとき、知らない駅から知らない駅へ乗り継いで、知らない街に両足を踏み入れた。耳を塞ぎたくなる雑踏と目が痛くなるほどに眩しいネオンに囲まれて、身動きが取れなくなったわたしは携帯電話を両手で握り締めて、泣き声であなたに電話をしたことを覚えている。

そっちじゃないよ、交差点を右に曲がって、そうそう、コンビニがあるでしょ、ローソンじゃないよ、うん、その道をまっすぐ。

いまでは、近所のスーパーの閉店時間も、美味しいサンドイッチが売っている店も知っているし、煙草屋のおばちゃんとは缶コーヒーを飲み合う仲になっていた。

あの日の電話の優しい声に導かれたまま、わたしはこの部屋に通うようになった。あなたと出会ってから、知らなかったことをたくさん知った。

朝ご飯にお味噌汁を添えると可愛く笑うこと。目玉焼きは半熟だと食べてくれないこと。キシリトールの歯磨き粉が苦手なこと。ほんとうはものすごく視力が悪いこと。背中の下の方に小さな黒子が六個あること。

折った指を戻しながら、知らなくてよかったことを数えた。あなたはこの植木鉢の花の名前を、知らない。わたしはこんな派手な口紅なんて、付けない。あなたもわたしも部屋でビールなんて、飲まない。今日のあなたがどこで過ごしているかは、知らない。わたしはそれが知らなくていいことだって、知っている。あなたが好きなあの子のことを、知っている。あなたがわたしのことを好きじゃないことを、知っている。

開ききった掌は、何も掴めるものがないと思えるほどに小さかった。影の花は夜の闇に散った。夕暮れも遠くの空に散った。一番星が高いところで光っている。あなたがいなくても、この部屋には時間が流れている。

わたしがいても、いくら経っても、この部屋にはわたしの匂いはいなかった。