うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

死んでもいいI LOVE YOU、あるいは、冷蔵庫について

 うまくいえないひとたち、というのは、意味の位相の中で呼吸している人たちと同義かなと思った。例えばだけれど、愛について語るときに、これは愛かも、とすらとても言えない時があって、それは言葉にすると、始まるのでなく終わってしまう恐れがあるからじゃないだろうか。どこかに向かって形を変えていく生きる姿そのものの意味が、言葉にすることによって、スタティックになってしまう場合もある、誰にでも、ある。私たちは、青空を超えられないけれども、青空で待ちぼうけする雲なんだ。

 冷蔵庫について考えると、ほとんど哲学的な気持ちになる。彼(というのは、もちろん冷蔵庫のこと)に、どんなにつらい時でさえ生きるのはなぜか、と問うと、夜中にうーん、とうなっていた。ベランダの風は、さあね、と答えた。小さな部屋を照らすスタンドは青い目で私を見詰めていた。

 秋の夜空に、ううううう、ああああ、と吟じて、冷えきったメロンのような運命味の恋がなくなった後の生活――冷蔵庫の中の在庫、その消費、を思う。なぜ、愛のきらめきは必ず儚くて、人間はその中で永遠に生きられないのだろうかと、誰かを責めたい気持ちになる。愛のきらめきを教えてくれる人も、しらけきった愛を教えてくれる人も同じということが、ざらにあるけれど、それは幸福なことなのだろうか?

 さあね。冷蔵庫の扉を開けると、同じ返事しか返ってこない。愛については、誰もわからない。私は、愛を知らない。うちの冷蔵庫も。

 けど、いつか死にたくなったらあなたと結婚するからその時は、と約束した時、私はたしかに愛を願っていた。荒野に出る、その時までは。と、彼が言う。まなざしの先に時間の大河があって、水面が出会った人たちで瞬いている。未来が人待ち顔して、ほほ笑んでも、愛のきらめきの中で息絶えることができたなら。

 一緒に死ぬときは、薄化粧して綺麗な洋服を着て、身辺整理もして冷蔵庫も捨てる。