うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

ラーメンと、アイドルマスターと、人生を形成する3つのサムシングについて

「書く」ということは、僕が動物のようになってしまうことを回避するためには絶対に必要なことだと思っている。もちろん、呼吸をするかのように書き散らすとまではいかない。それが出来ないのだから、偉そうに「書く」ことについて語れるような立場でもないのだが。

ただ、ランダムにキーワードを募ってまで「書く」という作業に身を投じたくなるときがあるのだ。そしてその理由を説明していけば、きっとその過程で無作為な話題にも筆先が繋がっていくだろう。僕にとって「書く」というのは、びっくり箱のような、不思議で楽しいものだ。

 

ツイッターのネタになるかと思って大人になってから読み返した10代の頃のmixi日記で、僕はしきりに「書くというのは規定することだ」と綴っていた。

曖昧で形のない思念に、文字という記号で、目に見える輪郭を引いていく。 その営みの中で言葉になったものは、言葉になる可能性があったものの全てではない。だが、表現しきれなかったものは切り捨てられて、どこかに消えていってしまう。

 

たとえば「好きな食べ物を一つ挙げてください」というアンケートに「ラーメン」と記入したとしよう。この時点で、そのやり取りの中ではラーメンだけがスポットライトを浴び、カレーとかオムライスといったラーメンに引けを取らない他の好物たちは否応なく退場させられてしまう。

また「ラーメン」とだけ書けばあらゆるラーメンに対して好意を持っているということになるが、一方で僕は絶対に味噌ラーメンは食べない。とすれば、そこで「ラーメン」という回答をするのは相応しくないことになる。

とはいえ「味噌以外のラーメン」と書けば殊更に味噌の存在を強調してしまって「味噌ラーメンが嫌いだ」という表現だと受け取られかねない。

そんなわけで、僕はラーメンの種類をさらに限定して、鶏ガラ系の醤油ラーメンや魚介系の塩ラーメンに後ろ髪を引かれながら「横浜家系ラーメン」と書かなければならない。

このとき、その記入スペースには「薄焼き卵でチキンライスを包んだクラシックなオムライス」と書かれていた可能性も同等にあったはずだ。しかし、僕は「横浜家系ラーメン」を選択し、他の可能性を捨ててしまっている。

「書く」というのはそういうことだ。

 

僕は筋金入りの東京タラレバ息子だったから、「あのときこういう風に言えていれば」とか、「こう言ってたらもっとうまくいったかもしれない」なんて無意味なことを、よく考えていた。

結局のところ、自分が表現するときに持っている発想力のモノサシで届かない範囲の物事は、そのときの自分には取り扱いようがない。それは誰にとっても同じで、誰にもどうすることもできない。後からもっと長いモノサシを引っ張り出してきたところで仕方がないのだ。

僕たちはそのときに取り扱える範囲で表現を規定し、はみ出す部分は捨てるという選択をしなければならない。

まだセンシティブだった10代の僕はその受け入れがたい事実と向き合うために、繰り返しそれを確認していたのだろう。

 

 選ぶ。決める。捨てる。

この3つの行為は、僕の人生のあらゆる局面に登場してきた。誰でもそうだと思う。与えられた自由の中で人間的に生きるためには必要不可欠なことだ。

それをしなければただそこに立ち尽くすばかりで、どこにも進んでいくことはできない。いつまでも保留していたら、そのままいたずらに生を消費して、生産性の無い存在になってしまう。それはいかにも動物的で、社会的生活とは言えない。考えただけでもだんだん苦しくなってくる。

 

選んで、決めて、捨てる。そして前に進む。

それはアイドルを育成するのとよく似ている。

 

 

 

 

 

…いや、今のところ似てないよ。似てないんだけどさ。この流れでアイマスぶちこむのは正直結構キツいって。だけどしょうがないじゃん。とりあえずぶちこんでみたらいいじゃん。ぶちこんでから考えればいいじゃん。

 

 

……それはアイドルを育成するのとよく似ている。輝く星に憧れてオーディションにやってくる原石たち。まさしく可能性の宝庫だ。しかし、全員がアイドルになれるわけではない。

河原の石ころは磨いても光らないとか、決してそういうことを言いたいのではない。宝石がどこにでも転がっているものだったら、それは河原の石ころと変わらなくなってしまうということだ。

 

いや、やっぱ無理だわ。「書く」こととアイドルの育成は似てない。全然似てないよ。アイドルを育てたかったら文章なんて書いてる場合じゃない。金を積め。金を積んで石を買うんだ。石を砕いて射幸心の虜になるのだ。それがアイドルの育成だ。射幸心の家畜となって動物化していくのだ。ブヒブヒ言うのだ。

 

えー、ゴホン。さて、僕にとって「書く」ということは「選んで、決めて、捨てる」という行為について考えるための手段で、それによって僕は自分の人生を形成し、目指すべき方角を照らしてきた。手探りで書いてみないと、今自分が何を考えているのか、何が大事で、何が大事ではないのか、僕にははっきりと分からないのだ。だから書く。きっとこれからも、そうしていく。

 

ふわっふわの毛布