世界をふたつに分けたら
自分が「普通」であることがイヤだった時期があった。かなり幼い頃から割と最近まで、相当長い期間そう感じていたと思う。
他者と自己の差別化を図りたかったのだろう。目立とうとしてみたり、おかしな行動をしてみたり、ふざけてみたり、ワルいことに手を出したりもした。
「私はここにいるよ」
表現したいことはたったそれだけのことだったのかもしれない。
自慢ではないが、何をやらされても70点〜80点くらいの結果は出せる子供だった。ずっとそうだった。たまに腐って、30点でいいやと手を抜いたこともあったけれど。それなりにまともに取り組めば「よくできました」という評価がもらえた。
でもそれは「大変よくできました」でも「素晴らしい」でも「完璧」でもなかった。あくまで「よくできました」どまりだった。
そして残酷なことに、いつもなんでも「よくできました」だと、そのうち「よくできました」は「あの子ならそうだろうね」に変わってしまう。
高校生くらいまでには、私は「器用貧乏」を自称する立派なニヒリストになっていた。誰かが開けてしまった穴を埋めることは得意だったけど、穴を開けられては困ると誰かから求められる人には、いつまで経ってもなれなかった。
突出した個性でも、決定的にズレているところでもなんでもいい。私にしかないもの、私でなければいけない場所が欲しかった。そして、そんなものはなかった。
それでも私は、できるだけ人と違うことを言おう、人よりもおかしいことをしようと思った。だけど私はいつまで経っても80点しか取れなかったし、その20点分の不足はいつでも厳然とそこにあった。たった20点。されど20点だ。1/5も足りないと、その不足は簡単に見破られ、私はその都度「自分は普通だな」という認識を深めた。
そして私はいつしか「特別」であることを諦めた。一番こだわっていたことを諦めた人間は強い。もう何もかも諦められるからだ。「もうどうでもいい」は「全部バッチこい」とほとんど同じだ。
ふっと消えて無くなってしまいそうな儚さも合わせれば、なんだかそれはそれですごく魅力的に聞こえるじゃないか。
何かが「特別」な人はすごい。私は「特別」になれなかった。それは眩しくて見えないほどの強烈な光だったり、奥底が見えないほど深い深い闇だったりするのだろう。手を伸ばしても届かなかったけど、私は本当に「特別」の方に向かって手を伸ばせていたのかな。