逃げるは恥だが役に立つ
背中の傷は武士の恥だ。
武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり。
貴様はそれでも軍人か。
いわゆる「男らしさ」はあらゆる意味での「強さ」であり、厳しい状況に屈することなく、逃げないことが美徳とされたし、未だにそういう向きもあるだろう。
今よりもさらに若くて稚拙だった頃、自分自身に対して目の前の困難を放棄することを許さない時期があった。今思えば与えられた困難自体がぬるかったし、それは不可能ではなかった。それでも周りにはそこから逃げ出す人がいたし、逃げ出さなかった自分と、そこで得たものを誇っていた。
あるとき、私は逃げ出した。
積み重ねてきたことが不意に信じられなくなってしまって、そこにあったはずのものが急に見えなくなってしまって、足場がどんどん崩れてしまって、いつ谷底に落ちて死んでしまうとも限らないという状況が、突然、本当に突然訪れた。
そして私は逃げ出した。
しかし、まわりこまれてしまった。
私は逃げ出した。
しかし、まわりこまれてしまった。
私は防御した。硬くなって殻に閉じこもった。物言わぬ貝になった。ギリギリだった。
膨らんだ泡はいつか弾けて消える。それだけのことだった。自然の摂理だ。よくある挫折に対して、人よりも少し大袈裟なリアクションをとってしまっただけだった。
閉じこもった殻の中からチラチラと外の様子をうかがって、やっと這い出したら1年経っていた。幸いなことに、周囲からは許容された。
ただ、私はもう武士には戻れなくなった。それこそ、背中の傷に恥を感じてしまうから。
色んなことを、主に自分自身を諦めた私は、いまや百姓丸だし、晴耕雨読といった感じの日々を過ごしている。
それを肯定する以外に道はないのだ。
私は都合の良い生き物だが、今は足場が揺らいでいない。きっとそれでいいのだ。