うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

【写真企画】ポスト

 ポストにもいろんな形やいろがありまして、各々のポストは今か今かと手紙を待ちわびているのですよ。待ちくたびれてしまっているポストもあります。それでもポストはあなたからのお手紙を今か今かと待っているのです。たった今も。

 うまく言葉の交わせない私たちは手紙を書き、手紙を送られることによって、ひととの交流をはかることができるのですから、あなたもお手紙をお書きになったらいかがでしょうか。

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 一通どうでしょうか。お手紙。

 これも一つのお手紙かもしれませんね。誰でもない、誰でもあるあなたに送る手紙。

 ほら街のいたるところにあなたのお手紙を待っているポストがあるのです。どこにもお手紙を送らないなんてもったいない。

 さああなたも手紙を書きましょう。たくさんのポストがあなたを待っています。

 体裁はどうでもよいのです。紙もなんだっていいのです。コーヒーのフィルターでもいいでしょう。

 うまく言えない私たちは手紙を書きましょう。

 

 

いしいしんじ「ある一日」

久々に読書感想文を書く。

読書感想文というよりは、「読んで思った事」くらいの軽さで書いてみようと思う。

 

ある人に「一度読んでみるといい」と勧められたこの一冊。

非常に薄い。普通に読み進めれば2時間で十分終わってしまう程度。

しかし、三日ほどに分けて読む結果になった。進まなかった。

 

面白くなかったわけでも、難解な文章だったわけでもない。

頭に浮かぶ情景がハレーションを起こし、目の奥の方がチラチラと輝き、真っ白になってしまってどうにもこうにも休憩を挟まずにはいられなかった。

 

京都を舞台にした物語で、いちいち情景がリンクしてしまって仕方がない。ああ、あの道。ああ、あのギャラリー。そうだね、確かにあの道はいつもどこか濡れていて、じっとりと、ぬらぬらとした空気感がある。

その場にいるような臨場感。まるでそこに同行しているような。

しかし、その臨場感の隙間隙間に、なぜか幻想的な表現が組み込まれる。賑わう錦通りの頭上をスルスルと鱧が泳いでいるような気分にさせられる。

確かに浮かんだ情景の所在がキラキラとした水面のようなものに目が眩ませられる。

言葉によってここまで情景が浮かぶものだろうか。素直にそう感じることができる。

 

キラキラとハレーションが起こったのち、休憩を挟み読み進めると情景ががらりと変わり、出産という私が経験したことのないはずの痛みに耐えるシーンが続く。まさに鬼気迫る。男性がここまで書けるものなのか。そして序盤と同じように組み込まれる一種の非現実的な表現。それによって出産というものがより神秘的なものとして描かれる。

新しい命が産まれる奇跡、というものの表現として、こんなに上質なものがあるだろうか。

 

正直、好みではなかった。というか苦手だった。

頭の中での立ち位置が定まらない。異常にリアルで、妙にファンタジックで。

しかしその表現はどれを取っても素晴らしく、豊か。

日本語という芸術をみた。そう感じた。

【写真企画】得るということ。


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お母さんが余命2ヶ月という夢を見た。日に日に弱っていくお母さん。立ち上がれなくなるお母さん。自分の余命が途切れる頃に娘の大事な支払日と給料日があることを心配するお母さん。



内容はもうよく覚えていないが、目が覚めた瞬間、声を殺して泣いてしまった。










いつか訪れるであろう大切な人の死に、自分は何ができるであろうか。





生きている間は、他人と自分を重ね合わせて、他人に共感し、受容し肯定する人になりたいと思う。



でも相手や自分が死ぬことになった時、私は境目を欲するのだろう。



傷つきたくないし、傷つけたくない。



いつか傷ついてもいいと思える日が来るのだろうか。







もし来るのであれば、きっとそれは、私が何かを捨てて、何かを得た時だ。







あ(@anchanRM)

【写真企画】Nomi no ichi

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退廃的な物を眺めるのが、好きだ。

 

使い古され、使用主の元を離れ、彷徨い続けて、

疲れ果てた顔をして並ぶ古道具。

 

読了されてしまったのか、

最後まで読まれることなく売られてしまったのか、

経緯もわからず、積み重なった本。

 

持ち主が死に、遺された人々には不要だった玩具。

 

いろいろな想い、さまざまな感情。

それぞれが持つ歴史。

 

ただ、古びてしまった、捨てられてしまった、売られてしまった。

 

彼らが持つ歴史も、感情も、想像することもなく、

疲弊に満ちた表情を眺めることで、

「愛しさ」に近い感情が芽生える。

 

対人間には持つことのない感情、心持ち、etc.

 

朽ちていく美しさをレンズに収めながら、

フチの欠けたガラス瓶だけを連れて帰った。

 

本棚に並ぶガラス瓶は、物憂げな表情をしていた。

 

 

雨 @percent_1335

【写真企画】我が家のぬいぐるみ達には意思がある

表題をみて「何言ってんだこいつ、頭おかしいだろ」という反応をした方、あなたはなにも間違っていません。


でも本当に我が家のぬいぐるみ達は意思を持って生きていて(この表現があっているのかは分からない)、我が家の人々はこの子達を溺愛しているのだ。


そして溺愛されている子供達の殆どが今実家ではなく東京で一人暮らしをしている私の家にいる。

子供達が私にとてつもなく懐いているからだ。



こうして文字にするととてもおかしくみえるが、我が家は至って本気だ。

それぞれの子達にキャラがあり、その子達とお話したり遊んだり、元気をもらったりしている。


我が家では愉快な日常を写真で記録し、ラインで共有されている。

頭がとてもおかしいだろうがそれらを紹介していこうと思う。


まずは我が家のメンバーを紹介しよう。


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メンバー大集合な写真がこれしかなかった。

上段左からゆうた、しまごろう、くまぞう、ななこ、

中段左からつだしょうはちろうかねまさ、にゃんみの、にゃんまげ、にゃんたろう、くらら、くらまさ、

そして下段ゴン。

ゴンとくらまさ(通称くら)は妹の子供たちでそれ以外の子は私の子達だ。

正確に言えばにゃんまげ、にゃんみの、にゃんたろうの3匹はそれぞれ私、妹、兄のお付きの武士だったのだが、今は江戸でお勤めをしている。

そのため私の子供達ということになっている。

この写真は前の家にゴンとくらが遊びに来た時に撮ったもの。

実家に暮らしていた時はみんな一緒に住んでいたのだが私の上京と共に離れ離れになっていたので、久しぶりに会えたのがとても嬉しそう。

それぞれが我が家にやってきたストーリーがあるのだが、需要はないだろうと省略。


いま我が家にはゴン以外の10人が暮らしている。

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私の部屋のロフトにラグが置いてあり(私はネコハウスと呼んでいる)そこでみんな仲良く生活している。


ゴンが我が家で過ごしていない理由はただ「ママ(妹)がいないなら東京で暮らす理由がない」ことに尽きる。

そのため住み慣れた実家でのほほんと暮らしている。(最近は刺激がないので東京に行きたいと騒いでいる様子。)

くらはママがいなくても東京で暮らしたいらしく、我が家に居候している。

ちなみにママ(妹)は1年間の留学中なのでゴンとくら、ついでににゃんみのはさみしい時間を過ごしている。


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可愛くおめかしをした誇らしげなゴンとごんにぃちゃんになつく子供達。

ちなみに張り付いているにゃんまげは我が家の最古参なのでゴンの方が若いはずなのだが、ゴンはゴンにぃちゃんとよばれている。

サイズに引きずられている。


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ゴンにぃちゃんは優しいのでにゃんまげが乗っても許してくれる。

2人とも誇らしげだ。


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私達がディズニーに行く前はゴンとくらも浮き足立つ。

ディズニー楽しみだなあと主張するがもちろん置いていかれるので帰ってきた時は拗ねている。


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ぬいぐるみが生きている家あるあるだが、彼らは飲食をする。

そして幸せそうな顔をするのだ。


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彼らはおしゃれもするし音楽もきく。

表情も誇らしげだ。


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私がひとりで上京し、にゃんまげが1人で国元を守っていた頃、母が「そろそろご主人帰ってくるよ」と言うとずっと外をみて待っていたというにゃんまげの後ろ姿。

今でも仕事でクタクタになって帰ると「いかがなされた お勤めご苦労様です」とやわらかな表情で出迎えてくれる。


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私や妹がアホなことをすると審議が開かれる。

彼らはご主人の行動にとてもシビアな反応を示す。とてもかわいい。


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それぞれ子供たちには性格があるが、とりわけななこはとても我が強く、自分が1番でありたい女の子だ。

写真を撮ろうとすると一番前に出てくるし、寝る時も他の子を押しのけて私の横を陣どろうとする。

だがいつも私の横に寝るのはにゃんまげだ。


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ここまで読んでお察しの方もおられるかもしれないが、私はこの子達と一緒に寝ている。

布団の半分以上が彼らに占拠され、私の寝相は矯正されざるを得なかった。

最近は子供たちはネコハウスで寝てくれているのでひろびろした布団が少し寂しい。

ひがわりで私の布団に入ってくる子供たちがとてつもなくかわいい。


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みんなで仲良くお話をしたり

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粗相をしたとかで殺虫剤で自害をしようとしたり

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東京に母が行くと聞きつければひっそりかばんに忍び込もうとしたり

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試験に受かるように一緒に勉強したり

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妹の留学先にみんなで毛布にくるまっていくのだとワクワクしたり(ゴンはデカすぎるので中の綿を出してペラペラになって行った)


本当に我が家の子供たちは表情豊かだ。



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本当はこんなことやばいと分かっているのだ。

齢23にもなってこんなお人形遊びを未だにしているなんて病的だということも理解しているのだ。

それでも私の子供たちは今日も私のことを笑顔で迎えてくれて、優しい声をかけてくれて、一緒に寝ようといってくれるのだ。

殺伐とした、希望のない毎日に光をくれるのだ。


私は一生この子達から離れることはできないだろうし、かと言って理解されたいとも思わない。

ただ私の大切な子供たちを大切にしていきたいだけなのだ。


写真企画ということで、我が家のクレイジーな一面を披露してみたが、これでよかったのだろうかという不安でいっぱいだ。

と同時に実はこういうなにかを大切にしすぎている家は我が家以外にもたくさんあると信じて疑っていない。


何が言いたかったかというと、ぬいぐるみだって大切な家族なのだということ。


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かおるん

Twitter: @kaaaaaoruuun


【映画】ファントム・スレッド

企画の途中にすみません。映画の感想を。

 

ファントム・スレッド

ネタバレを多く含みます。

 

 

 

まーーーー綺麗な音と映像で何を観せられたのか私は。

 

丁寧に気を張り巡らせて撮られている感じがビシビシと伝わってきて素晴らしかったです。

まさにレイノルズが撮ったような完璧な隙のない映画でした。

出てくるドレスも本当に素敵で。

制作途中でタグを付ける所の無駄のない手つきもはっとする程。

タグを付けるという簡単な(ただし重要な)工程ひとつであんなに心動かされるものだろうか。

 

音も素晴らしかった。

 

朝食時の食器の音。バターをトーストに塗る音。

会話もほとんどない朝の静寂にその音だけが響く。

レイノルズにとって許せる範囲で。時に許しがたい騒音となって。

 

日々の生活の中で、神経質になる時ほど音が気になる傾向がある。

いつもであれば気にならない音。あって当然の音であっても、妙に耳障りで許しがたい。

一度気になってしまったが最後、不快以外の言葉では言い表せず耐えきれない。

レイノルズのようにわめき散らす事はなくとも、一種の「あるある」を美しく描いてる。

 

他にも。針がタグを貫く時のぷすり、という音。その後に糸を引っ張る音。

違うシーンで帆布のように厚い生地に刺繍を刺す時のタグよりも硬い音。糸を引く時もタグを縫うよりも糸の通りが悪くなり、鈍くなる。全く関係のないシーンなのに、思い出して繋がる。

 

衣擦れの音、はさみで布を裁断する音、キノコを乳鉢で擦る音、そして、音を立てないように靴を脱ぐ行為。

どれを取っても耳に心地よかった。

 

けれども内容としては神経質で弱々しい男と無神経でたくましい田舎の女。

いやレイノルズ勝てるわけないよ。勝ち負けじゃない?いいえ、勝ち負けです。

超有名デザイナーに目を付けられて田舎のカフェの店員だった自分の為にドレスを作ってくれる。

彼のドレスをいつか着たいと熱望する女たちはいくらでもいるのに、自分は彼の方から(とんでもない時間であっても)ドレスを作るぞと言ってくる。

 

そりゃ気持ちいいはずですよ。

 

しかしまあ田舎のカフェ店員アルマ。レイノルズにとって理想のマネキンだったとは言えすげー女ですよ。

私だったらもう細心の注意を払って彼の神経を逆撫でしないように息をひそめて生活する。なんならレイノルズの前ではもう息しない。だって彼はマネキンとしての自分を求めて連れてきただけ。愛してなんていないし。って。

 

でもアルマは違った。「こっちの方が自然でしょ?!」「ねぇお茶いる?!」「サプライズとかどう?!」

うるせー。俺は一流デザイナーなんだドレスの事しか考えたくないんだ気が散るうせろ。

それでもめげない。すごい。挙げ句「弱ったレイノルズが大人しく自分を頼って素直になってる!かわいい!この時のこの感じ、とってもいい!」である。アホか。

 

押してダメなら大人しくさせて押さえ込む。それがアルマである。最強か。

そりゃ出会った初日に母親への異常とも思える愛の話をしちゃう繊細ボーイレイノルズに勝ち目はないですよ。無理無理。降参。愛するよ。愛してる。

 

そういえば愛のむきだしのカオリと同じやり口だな。押して押して無理なら押し切って殺す寸前まで追い込んで愛をもぎ取る手法。非常に(異常に)パワフルである。

 

レイノルズはまあわからんこともない。極端やけど。これはこういう風にしないと気が済まない。綿密な毎日のルーティンや決めた予定があって、それを崩される事が許せない。自分の中の完璧な歯車がイレギュラーな何かによって少しでも狂わされてしまうとどうにもこうにも動けなくなってしまう。

個人的には天才はそれでいいと思います。その為にシリルの様な完璧なマネージメントをしてくれる人がついていれば。

 

あんまり気にする所ではないですけど、納品したドレスが大切に扱われないからと言ってひっぺがして持って帰るあれは一体どうなんでしょうね。いや、プライドがあって崇高な行為なんでしょうけども。そんな事をしても他に顧客はいくらでもいるんでしょうけども。お金払ったんだからどうしようが勝手でしょ、とまでは思いませんが。

 

あと、ベッドシーンがなくて本当に良かったです。

採寸のシーンが十分に官能的なので。これで濃厚ベッドシーンがあれば興ざめです。勝手にやってろ感が映画全体を包み込み繊細に組み立てた全てが台無しの萎え萎え映画になっていたと思います。

 

はぁ?とかまじかよ、とかいやいや、と思う箇所ばかりだったのに総じるととても良かったです。そんな不思議な映画。

一流インスタグラマーを目指して

皆さんどうもこんにちは、「どんなに美しい景色を収めた写真も、君の笑顔の写真の前では霞んでしまうね」って言う男の持っているカメラのレンズに指紋をべったりとつけてやりたいでおなじみ、アミーゴ銀三郎です。

 

さて今回のブログテーマが写真、ということで今やもうFacebookTwitterを追い抜かしたのではと巷で話題のSNSInstagramについて書いていきたいと思います。というか俺自身がInstagramについて全くの初心者なので、この機会にInstagramについて詳しくなりたいと思っています。

 

Instagramは写真撮影、および画像共有に特化したSNSであり、「インスタ映え」という言葉が生まれるくらい流行っております。一流インスタグラマーを目指すにはこの「インスタ映え」を理解するのが重要だと思ったので調べてみました。調べてみた結果、「インスタ映え」するのに重要な要素として

 

可愛いカラフル

おしゃれな雑誌風

非日常

意外性/ミスマッチ/違和感

規格外

ストーリー

であることがわかったので、今回用意した写真の中からこの要素を満たす写真を何枚か

ピックアップしていきたいと思います。

 

まず可愛いカラフルとしてこの写真たちを

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はいカラフルな人形たちの数々、そして可愛い子供たちの写真ということで要素を満たしていますね。これはもうインスタ映え間違いなし。

 

続きまして非日常としてこの写真

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自然が溢れる森の中にある一本の木、それに大量に打ち付けられた藁人形、日常では決して見ることのできない非日常空間、これも要素を満たしていますね。

 

そして意外性/違和感/ミスマッチとしてこの写真

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間違えました、まずはこの写真

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一見普通の黒髪ショートカットの美少女が

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こうなります。もう意外性とかそういうレベルじゃ収まらないですよね、どうしてこうなってしまったのでしょう。しかしいいねはたくさん稼げそうな一枚です。

 

 

いかがだったでしょうか。これらのことを注意し、地道な投稿を続けていけば一流インスタグラマーになれるでしょう!そして最後に自分のInstagramのURLを貼っておきますので、よかったらフォローお願いします!

 

https://www.instagram.com/amigo4649/

 

アミーゴ銀三郎

 

〔写真企画〕これはそんな話

 


自分のためにお金を使う行為が、昔からあんまり得意じゃない。

 

今までの人生の道中でそういうことをする余裕がなくなって、そうしたら物欲がそんなに強くなくなって、いざ自分のための買い物をどうしてもしなくちゃいけないって時にはすでにもうそのタスク自体がエラーみたいにみえて仕方ない。

 

 

 

《欲しいとおもう気持ちは一種のバグだ。まちがっている反応だ。物を欲しがるのは、卑しいことだ。わたしに何物も与えてはならないのだ。》

 

 

 

未だにこういう心持があるから、「なにがほしいの?」と訊かれるたびにほしいという気持ちがわからなくなってしまって、たびたび返答につまる。可愛げのない人間だとおもうけど、でもわからないんだもん。仕方ないじゃん。

 

 

 

そういう人間に、「ほしいとおもう気持ち 」をちょっとずつくれたひとがいる。最初にくれたのはうまれてはじめてみたおもちゃだった。これは今でも毎日鞄に入れて持ち歩いている。次にくれたのは、ミッフィーだった。一旦喧嘩したあとでようやく手元に届いた某ひよこの神様だってそうだ。標本をホルマリン漬けにしたなにかももらったな。くら寿司のガチャガチャも実は大事にとってある。多分そのひとは、わたしにあげたことすら忘れているとおもう。

形のあるものはあんまりいらないよ、とはじめは何度もいったんだが、でもそれでももらうことが嬉しいのには敵わなくて、この人からもらったものはなんでもうれしいなということに徐々に気づいたら、「ポッキー買って」とか、ちょっとずつおねだりができるようになった。その進歩が自分でもちょっとうれしくて、最終的にもらえなくてもよくなってしまったんだけども。

 

 

 

でもだんだん、「ほしい気持ち」が強く強くなってしまっていくのがこわくて、自分が欲張りモンスターに陥るのがとてもおそろしいな、という気持ちが育っていくんだけども、そのこわい話はまた別の機会に。

 

 

 

だから、今はなにがほしい?と訊かれて、なんとなく答えられるのは、「贈り物をもらってうれしいと心の底からおもえるひとがいて、とりあえずはそれがずっと続く未来がほしいかな」ということだけな気がする。

 


これはそんな話。

 

 

 

 

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透子

 

 

 

ライチ☆光クラブ(映画)

ライチ☆光クラブが映画化する。

その情報が入ってきた時私は、絶対に観ない。そう思った。

好きすぎるのである。古屋兎丸の最高傑作であるこの作品が。

 

観るきっかけになったのは某動画配信サービスから配信が始まったという通知が来たからだ。私は風邪っぴきで何もできない暇つぶしに観ることにした。

 

違和感は開始5分からだった。

なんだこの雑魚っぽいウルトラ怪獣は。触手モノAVでももう少し作り込んだものを見られるぞ。後の光クラブのカリスマになるゼラがこんな怪獣みたいなものの「お告げ」を信じ切ってしまうなんて。(原作は占い師)

学校教師の臓物を「美しくない」と吐き捨てるあのゼラがこんな醜いものに感化されるはずがない。ありえない。ゼラはちょうど良く美しいけど。

 

まあまだ序盤だし。そう思いながら続きを観るが、あらゆる点で大筋は同じなのに改作部分がすべて原作の良さを潰していると言わざるを得ない。なんなんだこれは。

 

殺戮の道具もパチンコや子どもが使う遊び道具を使うからこそ少年の歪んだ倫理観とのコントラストがつくのだ。いやそれは死ぬやん!という新兵器みたいなもので殺したってそら死ぬやん。ちゃうやん。ちゃうねん。

ゼラに至ってはなぜ死に方を改変したのかわからない。便器に貫かれて死ぬっていう原作だってありえないですよ。けど。中学生が作ったロボットが人工知能を持って動くという所からもうありえない。だから別にいいの。大切なのは「それぞれが一番嫌であろう殺され方をする」という所なの。自身の美にこだわる雷蔵が顔面を潰されたように、ニコが忠誠を誓ったゼラに見捨てられて死んでいったように、ゼラは醜悪で不潔なもの(便器)に殺されなくてはならなかった。

 

しかしゼラ。色気は足りませんでしたが概ね良かったと思います。ソツなく。美しいし。スタイルも良いし。制服も似合う。しかしゼラのつけている手袋。違う。ゼラの象徴である手袋はもっとピンシャンとしていなくては意味がない。往年のタクシードライバーのようであってはならない。何十、何百のストックを持ちそれを関節が曲げにくくなるほどに糊をきかせ、雷蔵あたりにでも完璧に管理させる位で良いのだ。

 

残念だったのがなんといってもジャイボ。みんな大好きジャイボ。どういう事だ。完全にミスキャストだ。たしかに誰よりも難しい役ではあると思う。しかし、少年が青年に変化する直前の儚さや危うさ。それが引き起こす恐ろしささえ纏った色気。そういうものが全くない。美形の役者さんではあったが完全に成長しきってしまった大人の男だ。残念ながらただの色物俳優のコスプレだ。

 

良かった所もあった。メインの舞台となる基地のセット。素晴らしかった。

ライチの造形はオイルの照りばかりが目立って今一つ重厚感に欠けるが、基地の廃墟感、閉塞感は原作で感じたものと全く同じであった。ゼラの椅子や光の文字、薄暗い基地の中のさらに暗い牢にされる空間。このセットをうまく用いて舞台でやったほうが良かったのではないかと思ってしまう。古屋兎丸が原作と書いたが、そもそもは舞台が原作。場面転換も少なく、ほとんど基地内の話。観ていないが再舞台化されたのも頷ける。

 

殺戮マシーンのライチが連れ去ってきて美少女カノンは綺麗でしたね。

芯の強さがもう少し出ていると文句はなかったのですが美しかった。

カノンに関しては美しさが全て。まっすぐ伸びた黒髪も、大きな目も、細長い手足も、白い肌もすべてが理想通りの美少女。

 

タミヤやニコも良かったと思います。タミヤは唯一の普通の感性を普通なものとして、ニコは異常な忠誠心を異常なものとして描いていて。

 

しかしトータルして物足りなさばかりが残る映画だった。

そもそも少年の漠然とした将来や成長への不安や嫌悪が全然伝わってこない。そこから始まってしまった全ての過ちの元凶であるそこが描かれぬままゼラがカリスマとして祀り上げられトップに君臨していて、ただのサイコパス少年団になってしまっている。

大筋のストーリーをなぞっただけの勿体ない映画だった。

マドラー

 
 
 竹久が目を覚ましたとき、聡子は歯を磨いていた。「今日は遅いのね」。今日は遅番の日だった。聡子が自分の皿を洗い始めたところで竹久はベッドから起き上がった。「今日はあの男のところに、行くのか」聡子はなんの逡巡もなく肯首した。竹久は、聡子が用意したトーストとサラダを食べ、コーヒーを飲んだ。聡子は「皿洗いをしておいてね」と言って家から出ていった。コーヒーを時間をかけてゆっくりと飲みながら、聡子は今ごろ白い車に乗ってあの男のところへ向かっているだろう、と考えた。竹久と明夫は古くからの友人だった。聡子は週に2、3度彼のもとへ通っていた。リビングの本棚の脇には聡子宛の手紙は整然と並べてある。竹久はそれを読んだことはない。竹久は残りのコーヒーを飲み干してから身支度を始めた。
 仕事が終わると竹久は明夫のやっている喫茶店に向かった。聡子はそこで働いていた。聡子はカウンター席に座る彼の姿を認めるなり「オーダーはお決まりですか」と聞いた。「ブラックのホットを一杯」。明夫が淹れるコーヒーはとても美味しかった。竹久はコーヒーを飲みながら本を読んだ。店内にはチャールズ・ミンガスが流れていた。竹久は時折、聡子に目をやった。申し分のない美しい女性だった。喫茶店は白熱灯の暖かな光が点在して、店内に暗がりをつくっていた。客も少なく静かで落ち着いてコーヒーを飲みながら本を読むにはもってこいの空間だった。聡子はしばしば竹久のところへやってきて「水をおつぎしましょうか」と尋ねた。
 竹久は小説の区切りまで読んでしまうと、明夫にごちそうさま、と言った。明夫は、いつもありがとう、と言った。「なぜかここはとてもくつろげるんだ」。
 竹久が明夫の店に行くのは聡子が店にいるときだけだった。
 その夜、聡子は家には戻らなかった。2、3日して朝起きると、聡子が朝食を作っていた。ベーコンとレタスにトマトがはさんであるパン。竹久の好物だった。
「今日は明夫さんのお店へ行くわ」
 竹久はその日も喫茶店を訪れた。店に入ってカウンター席に座ると、聡子が「ご注文はお決まりですか」と聞いた。竹久は、ホットコーヒー、と答えた。明夫はカウンターにいた。竹久は明夫に向かって、「少し話せるか」と聞いた。明夫は、もちろん、と答えた。
「聡子のことなんだが」「君のうちに住まわせてくれないか」
 明夫は表情一つ曇らせることなく、もちろん、と答えた。竹久は、聡子が運んできたコーヒーを飲みながら、終電近くになるまで、喫茶店のカウンター席で本を読み続けた。
 次の朝目覚めると竹久は聡子の存在に気がついた。聡子が数日家をあけることはしばしばだった。しかし、そのとき、そこには、決定的に彼女の存在の無さがありありと感じられた。もちろん竹久の好物のサンドイッチもなかった。
 明夫は世に云う遊び人で、多くの女性と関係を持っていた。その中で聡子がどういう存在としてあるのか、竹久には分からなかった。
 竹久はそれから毎晩、明夫の喫茶店に通った。聡子は「ご注文は何になさいますか」と聞き、竹久は「ホットコーヒー」と答えた。


 

鏡の部屋

 セツナは左手の小指の爪を丹念に整えた。他の指、ましてや足の指などはただただ身体の白い排泄が無くなるところまで切るのみであったが、左手の小指の爪だけはセツナにとってなくてはならないものだった。その透き通るような白、それに続く滑らかな艶色。セツナにとってはその小さな指先だけが特別なのだった。先を何度も丹念に研いだ。「月より美しいわ」。セツナは目で直接見ることなく、鏡に写してその爪を眺めた。「見られることによって、美は完全なものになるのだから」。セツナにとっては、セツナのみが唯一の他者だった。セツナは水の入ったグラスに腕を伸ばすと、そのしなやかな腕の動きに耽溺した。セツナにとって自らの身体とは一つの彫刻であった。滑らかな動きのひとつひとつの瞬間を最も写実的に感覚する事ができるのだから。伸ばした腕はセツナの意識を離れて、美しい別の生き物となり、グラスを手に持ったときには、どんな彫刻家も成し遂げたことのない限りなく生身に近い彫刻となって眼孔に映し出された。手首から肘にかけて流れた血管、均整のとれた肘の骨の形、今にも握られようとする折られかけた指の形。
 セツナの食事は限りなく簡素なものだった。小さなトマト、クリームスープ、水。セツナはトマトのへたを取るのを食事の一番の楽しみにしていた。「トマトは新鮮なものでなければだめ」。指でそっと摘まみ、少しだけ左右に引く。どんなへたも同じようにとれる。「時間が均等に区切られてゆくの」。水は必ず食後に飲んだ。セツナは日常的にはほとんど水を飲まず、食事の最後になって初めて水を口にするのだった。セツナはその水が食道を流れてゆく感覚を好んでいた。
 kはセツナの部屋に通るのを許されたただ一人の人間だった。セツナの所望するものはkが何でも手に入れた。海辺の貝殻、光沢のあるもの。美しい蝶の羽、真っ黒なものに鮮やかなブルーのラインが入っているもの。セツナは黒い羽を好んだ。kはセツナの望む羽を持つ蝶を捕まえて、羽を千切る作業を何度となく行った。飛べなくなった蝶は夜の川に流した。それかセツナの望みであったから。セツナの部屋にはそれらの羽で周りを縁取られた掛け時計があった。その時計は全く実時間に合ってなかった。セツナはそれを気にもとめなかった。kがセツナに触れることは許されていなかった。ただセツナの影に触れることだけが許され、しばしばセツナはその影に接吻することをkに要請し、kはそれを行った。
 セツナはほとんどの時間眠っていて外に出ることはめったになかったが、ある日kを伴って近くにある浜辺に行った。夏であったこともあって、そこにはサーファーや家族連れやカップルたちでひしめいていた。セツナはそれらの人々の間を、まるで彼らが存在していないかのようにすり抜け、波際へ寄った。そしてkに言った。「ここにいる人はいないのよ」。
 数日経って、その海辺に若い男と女の死体がうちあげられた。セツナは一日のほとんどを眠っていたから、その日kがセツナを伺候したとき、セツナはまだ眠っていた。起きるのは何時間先になるか知れなかった。kは小さな白い錠剤を飲み下して、月光が映すセツナの陰で跪いていた。時を示さない時計の長針が三周したころセツナは瞼を薄く開いた。kは立ち上がってグラスに水を注いできた。セツナはそれを受け取るとグラスを傾けて指先を濡らした。雫がkの手の上に落ちた。kは打ち上げられた二人の死体のことをセツナに報告した。「そう、それでいいの。二人で幸せだったわね」。セツナの時計は時を示さぬまま、小さなトマトだけが確かな時間を刻んでいた。セツナの美しい爪が跪いたkの頬をなぞった。kは微動だにしなかったが、目からは涙があふれていた。
 数日後、kはセツナの部屋から姿を消した。セツナの部屋は何も変わらなかった。鏡に映る他者が一人いるだけだった。セツナは左の小指の爪を整えた。

ブラックペアン1話

ブラックペアン1話。ネタバレ多数。

 

普段はテレビを全く観ない生活をしているのでドラマなんて週一で追いかけられるはずもなく、かといってわざわざ録画する程の情熱もなく。しかしミーハーな母が録画して観ていたのでラジオ感覚で聞いていたら思ったよりも引き込まれて最初から2回見直したのでとりあえずざっくり感想を。

 

ざーーーっくり言うとブラックジャックとドクターX(観てないけど)を足して2で割ったようなドラマ。

とんでもない金額ふっかけるけど手術は完璧、人格に難あり。みたいな。

 

まず開始早々内蔵が思いっきり出てきて「あ、こういう系ね!」と見る側に意識させるのがうまいなあと。

中途半端なニノかっこいー!で終わるドラマじゃねぇぞっていう気合いみたいなものを感じる。

 

まず何よりテンポがいい。生きるか死ぬかの瀬戸際の病院内のバタバタ。唯一だらだら惰眠をむさぼる二宮くん。緩急が丁度よく、飽きない。みんなが焦ってバタバタしているのにも関わらずちんたら歩く二宮くんをいつの間にか「早く処置して!」と急かしてしまう。まるで二宮くんの下につく研修医の竹内涼真と同じ心境ではないか。してやられた。

 

良かったのは水谷豊の娘の趣里ちゃん。必要になるであろう医療器具の準備の指示をする時の凛々しさ。(「なになにその医療器具なんて言ったの?」と思ってようやく探してクーリー鈎と言っていた。医療器具コラムでもしてくれたら楽しいのに)

 

あと治験コーディネーター役の加藤綾子。アナウンサーとしては性的に狙いすぎてあんまり好きじゃなかったけど、それがバッチリガッツリはまっていて良かった。加藤綾子と会食したい。取引だってしちゃうしちゃう。取引だけじゃなくてもっとディープなお付き合いもどうですかね。

 

二宮くんはちょっとキャラがかたまってないのかなとか思ったり、これ以上やりすぎると流石に漫画チックになりすぎるのかなとか思ったり。

ただ最後の竹内涼真がオペを依頼して見事成功した後のシーン、あれは素晴らしかった。

手術が成功して一瞬ほっと息をつこうとした瞬間、竹内涼真の胸に血の手形をべったりと付ける。ぞっとした。まさにオペ室の悪魔。そのもの。

 

ただひとつ、キャストがいまひとつ物足りない。大御所!!みたいな存在のインパクトが足りない。

それぞれが素晴らしく(またはそつなく)演技をしているのは間違いない。けれど画面に映っただけで「ヤバい役」だと思わせてくれるベテラン大御所俳優がいたらもっと引き締まるのになあと。

 

小泉孝太郎が自分の病院でもないモニター室に一人で行けてしまったり、モニター室が無人で自由に触れてしまったりというありえないでしょ、という部分はあったものの、感想を書こうかなという気になる程度に引き込まれた。第二話も観る。

雨と傘と。

ここ数年ずっと使っていた傘

強風に煽られて骨が折れ、ついに壊れた

 

何てことのない、どこのコンビニにでもあるようなビニール傘

 

初めて二人きりで遊んだ日、予報外れの雨が降り出して

二人でコンビニに駆け込んで

 

本当は君のぶん一本で良かったのに

ひとつの傘に二人で入れたのに

君は私の分も買ってくれて

 

でもそれは、駅でさよならした後までを考えてくれた君の優しさ

 

もっと可愛らしい柄のきちんとした傘も持っているのだけれど、それ以来いつも使うのは買って貰ったビニール傘

 

ふと思い出して、年に一、二度しかしない君へのLINEを送ってみたけど

きっと、その言葉を君が見ることは無いのだろうな

 

 

さよなら、、傘も、君も。

 

うかびあがる


「いい加減にしろ」という言葉を電話越しに聞いて、もう耐えているのがばからしくなった。




ここ数か月だけの話ではない、きっともっとずっと昔から積み重なっていたものがいよいよ無視できなくなってしまった。


迷惑や心配をかけているのがお前にはわからないのか、という言葉を数千回刷り込まれると、それは呪いに変わるということを体感した。
呪いだとおもっているだけじゃないか、本人の気の持ちようでなんとかなるのでは、と言われたらそれまでなんだけど、わたしはどうしてもこの呪いを解く方法を見つけ出せなかった。
それにずっと呪われていて、どんなにあいしてやまないひとたちにでさえも貸し借りの理論を適用して、自分は迷惑や心配という言葉であなたを呪わないし自分も呪われないぞ、と強くおもっていることを表明したつもりだった。「あなたをあいしています、迷惑はかけないからどうか近寄らないで。」



卒業式の当日、家を出る予定時間の3時間前の夜明けにトイレで一年ぶりに酔ったわけでもなく吐きまくって、脳内回線がショートしたかのようにからだが熱くて、ずっと泣いていた。



もう貸し借りのことなんて一ミリだって考えたくなくて、あなたが嫌がってでもいいからあいしていますと大声でいいたくて、すきなもののために生きて死にたくてそのためなら長生きすることは簡単に諦められて、とにかく要領の悪くて愚図でとろくてどうしようもないひねくれもののわたしが、誰のためでもなくわたしのために生きていくことを許してほしかった。



ただただ、もうなんのために我慢するのかわからなくなるまで我慢するのはやめにするのだ。


これからどうなるかなんて知らない、どうにかなってきたひとたちの文脈なんか何にもわたしを支えるものにならない、ただわたしが作ってきた道だけがわたしを救うのだとおもったら、とてもクリアになった。



自分で浮かび上がるためにやれることをするだけ・すきなものをすきでいるために身の周りを整えていくだけ。
それしかないのだなと最近思い至りました。





というわけで、鬱々しかったのも一区切りつきそうなので、社会不適合者ではあるけれどまたいろいろかいていこうとおもいます。


長く更新しないままでごめんなさい。また企画を立てたりするのでみんなみてね。












管理人

2018/01/01/11:58

 

 

2017年に片づけられなかったことがすべてやってくるのが2018年であって、結局仕切り直しとかできないじゃんか、ということになったのがいまです。

 

 

どうもおはようございます、管理人です。

 

 

 

2017年に記事一本あげようとしてたんですけどね、隣にいたひとがマイクラを勧めるものだからマイクラしながら年を越してしまいました。うそやんか。

 

 

 

同じことを何度も語ってしまうのは、それがその人にとってよほど印象的な出来事だったのだろう、ということだけはなんとなく信じていつもバーで接客をしているのですが、改めて何度でも読者さまや書き手さまに御礼を。

 

 

昨年の夏にプライベートのしちめんどくさい案件が片付いて、実家の自分の部屋の窓辺で窓を開けて夜の空気を吸いながら眠れないまま、面白いことしたいなとほんとうに突然思いついて、それに巻き込んだ方が最初は2名いました。

わたしは部活でレクリェーション係とかいうわけのわからない係の担当だったくせに、レクリェーションの才能が全くないという矛盾を抱えていて、それをいちばん手助けしてくださった方であることには間違いないのです。

お二方には感謝しても足りないです。いつもお世話になっています、ブログ以外の個人的な相談も何度したことか。ありがとうございます。

 

 

 

足りない言葉でいい、みんなの言葉でそれとなく語られるものにわたしは興味があって、読者の中のひとりくらいはこのブログにある記事の言葉にハッとさせられたひとがいると思います。予期せぬところから救いを得るのはいつも驚きがある分、噛みしめる喜びもひとしおだと思うんだけど。正直にいえば、就活中に何度もこのブログの記事をみては救われていました。結局就活で得たものを大事にして内定は蹴ってしまうことにしたけども、それでもあのつらい時期を乗り越えられたのはみなさんのいろんな類の言葉でした。ネタとして面白かったり、あるいは愛に満ち溢れていて、静かに語られてはいるけれどまっすぐ横たわった正論であったり、個人的な懺悔であったり、あるいは現実ではなく夢であったり、手紙だったり、思い出だったり。

 

 

ひとが、それぞれの文脈で生きてきて、それに即した言葉で語られるもの以上に価値の高いことなんてあるんだろうか、というとめちゃくちゃ言い過ぎなような気もするんだけど。でも間違ってないような気もします。

 

 

 

 

みなさんは2017年、このブログの記事を読むのを楽しんでもらえたでしょうか。

わたしはとても楽しかったです。

まだ楽しくやるつもりでいます。

まだたのしむつもりでいます。

またどうぞ、本年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

透子

(@hereIam397)