うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

ラ・ラ・ランド

ネタバレどんと来いさんいらっしゃいませ。こんばんは。

 

今日はふわっふわな毛布のお兄さんへ捧げる旬な映画のレビューをネタバレありでお届けします。

 

 

この映画をまだ観ていないひとに紹介するとしたら「舞台は夢を追いかける人々が集う街ロサンゼルス ハリウッド。それぞれの夢の実現を目指すミアとセバスチャンが出会い過ごす日々がロマンチックかつ心躍るオリジナルサウンドのもと往年の名作を彷彿とさせる極上ミュージカルで描かれる。」って感じでしょうか。

 

予告に使われていた楽曲も良かったけれど、終盤でミアが独唱するかつてはふたりで歌った歌も好きだな。あれも入っているならサントラを欲しいくらい!

 

冒頭やパーティーでのダンスシーンの衣装はハッキリとした発色で歌とダンスに加えてそのカラフルさが楽しい。

 

所々、これって確か......と思わせるオマージュに心掴まれ......。(気になる方はまずはカサブランカ雨に唄えばを観てみて下さい。)

 

はあー。ミュージカルシーン最高。

 

 

でもね、皆が喝采するのはその心躍る部分の後にやってくるリアルがあってこそだと。ふわ毛さんが言っていたのはこういうことだったんだって。

 

ラ・ラ・ランドって聞くからに楽しそうな響きだし米俗でハリウッドという意味があるなんて知らなかったわたしは、ふわ毛さんのブログを読むまでは歌って踊って楽しくて分かりやすくハッピーエンドな映画だと思っていたんですよ。

 

実際は、、、うぅ〜ン!そう終わるかー!っていう全く予期していなかった結末。

 

でもその驚きは落胆じゃなく、夢見る子どものわたしを差し置いて現実に足を浸した大人なわたしが好意の興奮を覚える種類のもので。THE ENDを見た瞬間拍手したくなったのを我慢するくらい笑

 

酸いも甘いも苦さまでも知った大人に見て欲しい。あのラストシーンで見つめ合うセブ(セバスチャン)とミアの表情、あなたはどう思う?って聞いてまわりたい。

 

あんなに譲らないと言っていた店の名前をミアが考えたものに変えて夢だった自分の店を構えたセブ。そのお店を今や映画で主演をはるハリウッド女優でセブではない男性の妻となり一児の母となったミアが見付けてくれた。

 

セブは嬉しさとまだミアを想う情けなさと今ミアの隣に居るのが自分ではない哀しさとミアの成功と幸せを祝う気持ちとが混ざったような何とも言えない表情。

ミアは、「お店の名前をわたしが考えたあの名前にしてくれたのね。あんなに変えないって言っていたのに。わたしはもうあなた無しで暮らしているのに。二人でいる未来はもうないのに。」という感じの気持ちとお互いの夢の実現を祝う気持ちとまだセブを想う気持ちはどこかにちゃんとあるけれどわたしはわたしの幸せを生きるわって気持ちが混ざったような表情。

 

そしてお互い未熟だったよね、でも楽しかったみたいな気持ちもあったのかな。

 

わたしにはそう映った。

 

 

大人になれば誰かを片隅で大切に想いながら別のそれ以上に大切な人や大切にしなければならない人と暮らしていくこともあるでしょう。

 

お互いに生涯忘れない存在であり続けるという二人の終わりであり今後。

 

夢を追う日々をともに過ごした二人が報われて結ばれてハッピーエンドもいいけれど、これは現実を生きるわたしたちにはとてもリアルなハッピーエンドだったんじゃないかな。

 

観てよかった。

 

デートで観るのにお勧め?って聞かれたらうなっちゃうけれど、わたしはラ・ラ・ランドを観てよかったねって言い合えるひとと一緒にいたいからあえて観に行ってみたいな笑

 

好きな映画が1本増えました。 

 

 

それではこの辺で。 

お恋

『ラ・ラ・ランド』 〜 現実はいつも厳しい

2012年に『レ・ミゼラブル』でアン・ハサウェイが「I Dreamed a Dream」を歌い上げ、助演女優賞でオスカーを獲得してから5年という月日が流れた2017年、ロサンゼルスの街で暮らすワナビーたちが、今にも破れてしまいそうな夢を見ながら現実と向かい合うミュージカル映画ラ・ラ・ランド』が公開された。

 

恋人が予告を観るたびに観たい観たいと繰り返していて、なんだか逆に冷めていたというか、そこまでの熱量もなく付いていった映画館で、僕はスクリーンに映し出された物語に釘付けになった。上映終了後、恋人の数倍の熱量で感動を語ってしまった。早口で喋ることオタクの如しである。

 

核心に迫る内容を書きたい。以下ネタバレである。まぁ観に行けや。損はしないよ。すごくよくできてる。

 

 

※※※ネタバレします※※※

 

 

冒頭。渋滞中の高速道路で、大人数のド派手なダンス。歌われるのは「明日は新しい日で、いつか夢は叶う」という内容の明るいナンバー。現実にありえない光景。高速で人々が次々に車から降りてきて、歌って踊る。まさしく夢の空間。

それはそうだ。現実には、夢を追う人の列は大渋滞。明日まで待とうが車は全然動きそうにない。「夢は叶う」なんて言葉は大きな嘘。自分をギリギリ騙すための祈りの言葉だ。

 

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望。オーディションを受けたところで、ロクに取り合ってもらえないような毎日。

主人公のセバスチャン(ライアン・ゴズリング)はピアニスト。時代遅れになりつつあるジャズにこだわるが、演奏したくてもさせてもらえる環境すらなくなっていき、好きな曲を演奏できる自分のジャズバーを出店することが夢だ。

 

ふたりは夢をみる。しかし現実は非情だ。打ちひしがれる。自己実現の機会を求めてもNOを突き付けられる毎日。それでも夢をみる。夢を追えば追うほど、現実を見るのはつらくなる。夢を捨てたら夢を追った月日は無意味になるのだから。

出会ったふたりは、夢を追う相手に、夢を追う自分の姿を重ねた。すぐに惹かれ合い、支え合う関係になる。

 

ミュージカルナンバーがかかるのはラブリーでスイートな夢や恋の世界に没入していく瞬間か、諦められない夢や輝かしい未来を語るとき。それは全編を通して徹底されていた。そして曲が終わると、必ず厳しい現実が突き付けられる。オープニングからエンディングまでずっとだ。楽しくて華やかな歌と踊りで、映像と音声のテンションが上がれば上がるほど、現実に立ち戻ったときのみじめさが際立つ。

 

要するに「おとぎの国」を意味するタイトルが冠されたこの『ラ・ラ・ランド』という作品で描かれているのは、決して夢と希望と恋のめくるめく世界などではない。キラキラした夢で人を魅了するステージには、必ず舞台裏の人間臭い世界があるということだ。僕たちが懸命に生きる現実は、全然都合よく割り切れないということなのだ。

 

流石にここまで読んで、まだ観てなくてこれから観に行きたいという人はいないと思うから言ってしまうけど、はっきり言ってステレオタイプなハッピーエンドとは程遠いじゃないか。

互いに夢の実現を誓い合って、永遠の愛を語って、それで離れ離れになったふたりの間に5年という月日が流れ、互いに夢を叶えたら。物語は普通どのように閉じられるものなのか。

当然、再会してキスして結婚してハッピーエンド。この流れではないのか。それがフィクションにおける自然な理路なのではないか。映画館は非日常を提供するんだから、そこではカタルシスが差し出されるべきなんだ、観客はお約束を求めているんだ、という。

 

ラ・ラ・ランド』は、そんなもんは大嘘だ全部クソ喰らえとハッキリ言ってしまった。

セバスチャンは、街に貼られたミアの大きなポスターを横目に見ながら、念願のジャズバーにミアが提案した名前をつけ、いつかミアが来る日を待ち望んでいる。

しかし大女優になったミアは、セバスチャンではない、金を持ってそうな他の男と結婚して、あろうことか子供までいるのだ。

そうだ。そうなんだ。これが現実だ。スーパースターの女優様が、修行時代に付き合ってたピアニストと一途に結ばれるなんてあり得ないんだ。だってそうだろ。なんでわざわざ苦労した時代を噛み締めなきゃいけないんだ。華やかな世界を目指したんだから華やかな相手と華やかな人生を送るんだよ。

ラストシーン、ピアノの前に座るセブに微笑みかけるミア。なんとも言えない表情で返すセブ。お互い夢叶ってよかったわね、ありがとう、おめでとうみたいな表情のミア。なんとも言えない表情のセブ。なんとも言えない。

 

ラ・ラ・ランド』は最高に痛快な作品だった。人間は矛盾するし、嘘をつくし、嘘でもついて自分を騙しているくらいじゃないと夢なんか見ていられないのだ。現実はいつも厳しいのだ。

細かいところまでこだわられている作品なので、まだまだ言いたいことはあるけれど、キリがないので、今日はここまで。もう1回観に行こうかな。

 

櫻井ラーメン いそのかづお 札幌ブラック

今回のラーメンは、札幌において知る人ぞ知る隠れた名店、いそのかづおです。

 

 

 

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まず出迎えてくれるのは、この人目を引く個性的な看板。店主のこだわりとお茶目さが一目で分かります。

 

ここのお店の特徴として、まず開店時間が夜の10時から、ということ。お酒を飲んで〆の一杯として訪れる人が多いです。カウンター7席というこじんまりとした店構えですが、訪れた日も多くの人が並んでおり、結局1時間ほど並びました。

 

 

 

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そしてこちらが待ちに待った札幌ブラック(800円)!黒い!圧倒的なまでの黒いスープ!しかし口に含んでみると見た目ほどしょっぱくはなく、甘みも感じられ、スイスイと飲めていきます。

 

麺は黄色い太ちぢれ麺で、これがスープによく絡み、とても相性がいいです。

 

トッピングには、チャーシュー、メンマ、ゆでたまご、キクラゲ、ネギ、もやしとなっており、札幌味噌ラーメンと一緒の作り方で、フライパンで野菜を炒めてからスープを煮込んでいます。

 

 

 

夜の10時~朝の6時までという遅い時間帯にしか営業していないお店ですが、本当にここは美味しいのでみなさん機会があれば是非訪れてみてください。

 

 

[データ]

●店名:櫻井ラーメン いそのかづお

●住所:北海道札幌市中央区南5条西5-21 第2観光ビル1F

●営業時間:22:00~翌6:00(スープが無くなり次第終了)

●定休日:日曜日

 

股ずれ大五郎

消化に優しくないこと

SMAP解散。こういった時事ネタは鮮度の高いうちに触れておかなければならない。

 高度情報化社会において、もっとも優先されるのは速報性だ。誰もが容易に発信できるからこそ、新たな情報はいち早く出さなければ注目を集められない。

その次に情報の詳しさが求められる。より詳しく報じようとして、各メディアが少しずつ新情報を加えていきながら、繰り返し同じニュースを取り扱う。

受信する側は次第に食傷気味になり、そこまできてようやくそのニュースは報じられなくなる。それは擦り切れるまでリピートされたビデオテープが最後には捨てられてしまうのと似ている。

 

さて、SMAP

日本を代表する国民的アイドルだ。僕自身にとっても、物心ついたときには既に、そして常に画面の向こう側にいた馴染み深い存在。アラサー以下の世代の人たちは、みな似た感覚を持ち合わせているはずだ。

 

今日、アイドルがバラエティ番組で身体を張ったり司会をしたり、ドラマや映画で主役級の俳優として演技をしたりして、お茶の間に笑いや感動を届けるのは当たり前になった。その流れを作り、それを普通にしたのは、他ならぬSMAPだという。

SMAP以前のアイドルは、容姿の優れた人が歌って踊る、そこで完結して何ら問題がなかったそうだ。もっと言えばミステリアスなくらいがよかったのだと思う。人間性の部分はあまり晒け出さずに、まさしく偶像としての役割を担う。理想を背負う。トイレにはこっそり行く。

そういうステレオタイプを打ち破ったのが、SMAP

アイドルっぽいキラキラした応援ソングも勿論歌っているが、一方では「血圧がどん底だけど仕事だからとりあえずがんばりましょう」というようなゆるいメッセージも発信しているし、突出して光り輝くものがなければ埋もれてしまう芸能界にいながら「ナンバーワンじゃなくてよくない?人それぞれいいとこあるよ」と言ってのけた。

冠番組ではふざけたメイクやコスチュームでコントもした。罰ゲームを受けて情けない姿も晒した。

意図されたことではないだろうが過ちも犯すし、それでも表舞台から逃げずに反省して、申し訳なさそうに復帰した。

""アイドルだって人間""という演出が、彼らを親しみやすい人気者にしたし、支持を集めた最大の理由ではないか。

 

この辺のことはアイドル評論なんかを読むと全部既に書かれていることで、何を今更と言われてしまうような話だが、解散について触れるには振り返る必要があった。

というのも、2016年1月に年内の解散が報じられてから、SMAPはこの件についてほとんど何も語らなかったからだ。

 「SMAP×SMAP」の最終回を見ていて強く思ったのは、彼らの活動の軌跡、番組の歴史が延々放送されながら、2016年には全然踏み込まなかったなということだった。

木村拓哉の代表的フレーズと言えば「ぶっちゃけ」なのだが、全然ぶっちゃけなかった。人となりを、人間的な部分を晒け出すことで人気を博してきたSMAPは、2016年、物言わぬ貝になってしまったのだ。

 

なぜ解散するのか。

ファンの、そしてお茶の間の最大の疑問は、あくまで憶測としてしか語られていない。

しかし、そのことが、SMAPというグループを伝説的存在にしていくのではないだろうか。

 

死人は語らない。

カート・コバーンジミ・ヘンドリックスが現在でも世界中で知られているのはなぜか。生前の功績はもちろんのこと、その上で若くして何も語らずに逝ったからではないか。日本で言えば、尾崎豊だってそうだ。病死も括りに入れれば、松田優作夏目雅子にも同じことが言えるはず。

もちろんSMAPのメンバーひとりひとりは死んだわけでもないし、これからも個別に活動していくだろう。だが「SMAP」は何も語らないまま死んだ。

取り残された人々は、その死を消化できずにいる。分からないことが残っているからだ。明かされなかった真実は、明かされなかったこと自体が心に焼き付けられる。多分これからも簡単には明かされないだろう。恐らくはそういう演出意図があったはずだから。

 

ものすごいスピードで何もかもが消費されていく現代社会で、解散したというニュースは忘れられてしまうだろうが、SMAPという国民的アイドル自体は、過去のものになったとしても、簡単に擦りきれて捨てられてしまうようなことにはならないと思う。そもそも消費しきってしまうための情報が欠けているのだから。

 

日本のアイドル文化にもたらした功績も、その幕引きも、やはり彼らはアイドルとして色褪せないオンリーワンだった。そんなことを感じた。

 

 

ふわっふわの毛布

タマ's映画MEMO

チョリ~ッス!タマです。


アカウントは消えましたが、ガムクチャへのストレスは消えそうにありません。

昨日はガムクチャしながらのメモ書きをされたので、渡されたメモに飛んできたであろう唾が付着していて、私の意識も飛びそうでした。


そんなストレス社会と戦う私のストレス解消法のひとつ、”映画鑑賞”。今日は、最近(11月~12月)観た映画の感想を書きたいと思います!
映画選びの際の参考に少しでもなると嬉しいです。

 



タマ's映画MEMO

~11月・12月版~

※あらすじはメンドクサイので書きません。

 

➀『HK  変態仮面』(2013)

監督:福田雄一

出演:鈴木亮平ムロツヨシ安田顕、他

HK/変態仮面 [DVD]

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 オススメ度   ★★☆☆☆

スカッと度 ★★★★☆

イケメン度 ★★☆☆☆

くだらね~~~~!!くだらないのに、ちょっとなげぇ~~~~!!!!

『勇者ヨシヒコ』シリーズでおなじみの監督・福田さんの作品。最近話題になっている『銀魂』の映画化の際の監督も福田さんですよね。

この作品の一番の見どころは安田顕さんの演技だと思います。本当に気持ち悪かった(褒めてる)。クレしん好きな人にはオススメかも。くだらなすぎて笑えたのでスカッと度は星よっつです!!!

 

 

②『明烏』(2015)

監督:福田雄一

出演:菅田将暉城田優ムロツヨシ吉岡里帆、他

明烏 [DVD]

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オススメ度   ★★★☆☆

スカッと度 ★★★☆☆

イケメン度 ★★★☆☆

同じく福田監督作品。構成がポップな落語って感じで好きな人はスゴク好きだと思います。オチは見えているけど、ムロツヨシがずるいので面白いです。ムロツヨシを見て。ムロツヨシがムロッてるから。

今人気の若手俳優・菅田くんがコメディにも挑戦したってことですけど、コメディでもガンガン活躍してほしいですな!!

 

 

 ③『七人の侍』(1954)

監督:黒澤明

出演:三船敏郎志村喬加東大介木村功、他

オススメ度   ★★★★★

スカッと度 ★★★☆☆

イケメン度 ★★★★★

おなじみ(?)の今更シリーズですわ……黒澤監督作品見たこと無くてやっと観ました。オススメされたときは「え~~なんか小難しいやつ~~?メンドクサイんですけど~~?」と思ってたけど、周りの映画好きが絶賛するので観てやるか~くらいの気持ちで観たらホント面白かったです。”通が好きな映画”とかじゃなくて、純粋に今観ても面白い。こんなに昔の映画なのに面白いって凄くないですか!?

またね、このパッケージにデーンと出てる「菊千代」が本当に良いキャラで。タイトル通り侍が七人出てくるわけですけど、みんな別に美男子とかではない(菊千代は別)のに本当に格好いいのでイケメン度星いつつ!!!!

私のことも助けてくれ!!!

 

 

以上、最近観た映画でした。少なっ!!!

いつか小説版も紹介させてもらいます。

タマでした。

バイビ~~~!

 

P.S. ブログ開設してくれたとうこちゃんありがとう。ナイスブログ。みんなの記事、たまに読んでま~す。これからも楽しみにしてます。

 

世界はひとつになれない

賛否両論の暗喩と化した星野源の話をする。

 

イケメンではない。誰が言ったか知らないし、誰も言ってない可能性もまぁまぁ高い、星野源イケメン説。「イケメン」の定義にもよるが、やや魚顔である。

ブサイクでもない。チヤホヤされている彼を見て、なぜチヤホヤされているのか分からないがために、妬ましさから一定数の人が言ったであろう、星野源ブサイク説。「ブサイク」の定義にもよるが、やや魚顔なだけである。

 

芸能人は外見もひとつの商売道具だし、バラエティ番組に頻繁に出演しているのでもない限り、自分から詳しく知ろうとしなければ外見による判断がそのままタレントの評価になる場合も多々あるだろう。

 

世界はひとつじゃない

ああ そのまま ばらばらのまま

世界はひとつになれない

そのままどこかに行こう

 

星野源がソロデビューした2010年、最初にリリースしたアルバム「ばかのうた」の1曲目。「ばらばら」の最初のフレーズである。

今の彼に対する評価、彼について語ろうとする人々をそのまま詞にしたような、そんな歌。

そして、それは至極当たり前のことだ。とても普通の人が言う、普通のことだなと思う。少し安心する。

 

ただ、どちらかに偏った方が、生きることは刺激的になる気がする。

「人それぞれいろんな考え方があるからね、だから肯定的な意見も否定的な意見もあるよね」よりも「あれが好き!これが嫌い!」って表現した方が、しなかった人より何か起こりそうな気がする。良い意味でも、悪い意味でも。

客観的に物事を見ることができるのは重要だが、そのために主観を捨ててしまうなら、代わりに監視カメラでも置いておけばいい。そこにお前は必要ない。

観察者である前に、ひとりの表現者でありたい。だから僕は星野源が好きだと言おう。彼のマルチな才能は、いろんな場面で僕の心を少し豊かにしてくれる。

 

土はこれからもぬかるむだろうけど、アスファルトで固めようとしなかったくだらない心の上に建てた家で、ばかなうたでも唄いながら一緒に揺れようぜと、優しい声で語りかけてくる彼は、すごく魚顔である。

長過ぎた前置きを消すことができない弱さについて

残業残業雨残業(これはどの程度の範囲まで伝わるネタなのか)という感じの多忙な時期を乗り越えて、ゆとりある生活が戻ってきた。ゆとりがあり過ぎて午前9時ごろからブログを書ける。

残業といっても、世の中の社畜(会社に飼い慣らされて思考を停止し、動物化した畜生)様に比べると大したことはない。19時に業務を終えて20時過ぎには帰宅できるなんて、残業のうちに入らないとおっしゃる患者さんも多いことだろう。

 

ただ、朝の7時までには家を出て、帰ってくるのが20時だと、仕事のための時間が13時間。6時間くらい睡眠をとりたければ、残された時間は5時間しかない。

前日に残した洗い物を片付け、それから食事を作ればそれだけで1時間経つ。その上で食事を摂って、風呂にも入らないと。さらに、少なくとも3日に1回は洗濯をしないと困ってしまう。

当然、これらすべてを労働による疲れを感じながらこなさなければならない。

これは仕方ないのだ。分かっている。そうしなければ非人間的な生活をする羽目になってしまうのだから。

 

評論家の宇野常寛氏だったと思うけれど、数年前に氏のラジオ番組で、都心部において夫婦が共働きして生活するとき、家事を完璧にこなすことはとても難しいという話をしていたように記憶している。通勤時間を極力圧縮しないと無理っていう話だったかな。

実感として正しい話だと思う。私自身は家事をこなすためのエネルギーが残るように省エネで仕事をするように心掛け、極力定時で席を立って17時半には帰宅できるようにしているが、それでも平日に部屋の整頓や細かい部分の掃除までは手が回らない。

だって疲れるじゃん。

 

現代の都市生活には息苦しさが蔓延している。必要なカネに対して貰えるカネが少ないからだ。

旧世代が働き蜂として汗を流し、豊かにしてくれた日本という国に生まれた私たちは、技術力に比例して高くなった生活水準の平均値を維持するために、昔よりも多くのカネを必要としている。しかし企業は功労者たる旧世代に多くのカネを払ってしまっているので、後からきた若者たちには安い待遇しか与えることができない。

共働きするしかないでしょう。少なくともパートはガッツリやってもらわないと貯金なんかできませんって話だ。

あ、上位数パーセントの高収入若手の話はしてませんからお帰りください……って、

 

どうしてこんな話になったんだよ。

こんなつらい話をするくらいなら、ふわふわパンケーキが美味しいぽよ〜みたいな脳みそスカスカな話がしてぇわ。

そもそも生活に少し余裕が取り戻せたから少ない時間でクライムサスペンスもののアニメを見漁ってますって話がしたかったんだわ。

権力機構っていうのは暴力を合法的に独占することによって成立するみてぇな話から監視社会と化した現代を憂うみたいな話がしたかったんだわ。

 

ハーッ!おちんちんおちんちん!おちんぽちーーーーーんぽっ!!!おわりっ!!!!

帰らない、でも待っててね

 

 

 

今週土曜御茶ノ水で18:30に待ち合わせよう、というのがわたしと幼馴染との最終的な会話の着地点だった。

 

部活終わりにせっせと楽器を片して、弓についた松脂を拭う中で「前回会った時はつまんなかったよなあ」と幼馴染との再会を特に喜んではない自分がいた。

 

 

わたしと幼稚園から幼馴染の彼女は、正反対だ。

活動的でバレーボールをやっていた彼女と、インドア派で図書室でダレン・シャンシリーズを片端から読み漁っていたわたし。

わたしは私立中学に進学して、彼女は地元の中学へ進学して、それっきり私たちはいま住まう場所さえも違っている。

 

ただ、小学生の6年間の登下校を共にするくらいには、仲がよかった。他の幼馴染を含めて4人で毎週金曜は、わたしの家で先週のエンタの神様で観た芸人のネタを披露するそいつを他の2人とわたしが見ては笑い転げるのが通例だった。今考えたら意味わかんないけど、小学生なんてわけわかんないことで面白がってるもんである。

 

でも大学生になっても根本的な考え方は全然違うようで、家庭になんか入るもんか、ひとりで生きていくんだと意地を張るわたしにとって、家庭に入って安定した生活を送りたいと思う彼女はとてもつまらない人間のように見えていた。

「いまの彼氏は束縛強いけど、まあ結婚できたら安牌だよねえ」と日本酒をかっくらう一年前の彼女の姿を見ながら、「なにこいつ全然つまんねえなあ、もっと失敗しろよバーカ」と当時セフレがいたわたしはハイボールを静かに飲みながら思っていたわけで。

 

 

 

重い足を引きずりながら、御茶ノ水駅の聖橋口で待っているという彼女の姿を探して、目に映るまでは、ほんとうに帰りたかった。無駄な時間なんだろうと。

 

 

 

ただ、聖橋口の切符売り場の柱にもたれて携帯をいじっているその彼女の姿をみて、「ああ、ほんとうになんでこいつが東京なんかにいるんだ、」と思って、笑いが止まらなくなっていた。

 

 

「よー久しぶり」

『うわー全然変わんないじゃん」』

「お互い様でしょ、おかけで見つけやすかった」

『あ、田舎者オーラ出てました?すっみませーん』

 

嘘だった。ほんとうに綺麗になってて、最後に地元で会った彼女とは違っていた。変わっていた。それが少し寂しかった。

 

 

御茶ノ水のミライザカで話を聞けば、一年前に付き合っていた彼氏とはもうすぐ別れるつもりでいて、確かに結婚はしたいけど学費を自分で稼ぐ彼女にとって就職して2、3年は働くことは避けられない運命らしい。

失敗したくなかったのだ、と彼女が澪を飲みながらつぶやきはじてから、黙って耳を傾けた。

失敗したくなかった自分が、出来のいい兄や姉とは違うのだということを希望する大学への受験に落ちたことで思い知ったこと、親に言われて歩いてきた教師への道を歩むのを自分の意思でやめたこと、失敗したことで自分のやりたいようにやりはじめられているということ。

彼女は淡々とそういうことを語ってくれた。

 

 

わたしは彼女の中高時代を、その時聞くまで知らなかった。

それは彼女も同じで、私たちは4人の幼馴染の中で最も距離が近いふたりのはずなのに、何にも知らなかった。

知らないことを責めることすら、頭にないくらい、私たちは近いようで遠かった。

 

 

『あー話せてよかった。なんでホテルとっちゃったんだろー泊まりにいけばよかった。』

「じゃあまた今度だねえ」

『年越し帰っておいでよ。絶対ね』

 

そう言って、彼女はわたしと違う方角へと帰っていった。

手を振りながら、帰省する日はいつだったか、と考えている自分がいた。

 

 

 

わたしは、きっと地元には帰らない。

帰りたくない理由もある。家族がいずれ地元を離れて東京に来るかもしれない可能性があるから、というのもある。

だからきっと、彼女とまた会うには会いに行かないと会えないということになりそうだ。

 

帰らないつもり。でも会いにいくから、待っててほしい。

 

 

 

 

透子

 

2016/11/29 のタリーズにて

 

 

約1ヶ月半ぶりに会う母を、駅の二階にあるタリーズのカウンター席で待っている。

今日は寒くはない。ただもう秋は戻ってこないんだな、という感じはする。

 

 

 

最近は割と""ちゃんと大学生している""つもりで、言い換えれば課題に激詰めされていただけなんだけど。1日が自分の独り言で終わることが続いて、なんかちょっとつらくなった。のでブログを書く。

 

 

 

昔からそうなんだけど、タスクが自分のキャパシティを超えてしまうと結構他人に相談する心の余裕すらない、という特性がある。周りも見えないし、自分の方向性すらわからなくなる。やることの量だけに打ちひしがれてしまう系ダメ女なのである。そしてそんな自分を絶対に他人に見せたくなくて、整理がつくまでは他人の前に現れないという固い決意のもとに引きこもっちゃうのである。

いちばん訳わからんのは、そのまま全く現状抱えてる問題に関係のない将来の不安まで引き連れてきて、一緒に百鬼夜行しちゃうやつである。『就活どうしよう』『わたしこの先どこでどうやって生きてくんだ』『楽器やり続けるのかよ』『いま仲良くしてる友達といつまで仲良くできるんだろう』とか。

 

 

今回の大学の課題案件や他にも最近インターンシップとかに参加したりして、まあキャパオーバーで引きこもりみたいになってたんですよね。ルーチンワークのバイトだけが過ぎていく日数と曜日を数える目に見えないカレンダーみたいだった。

 

 

結局うだうだ泣きながら英語で750ワード以上という規定のある課題をやり終え、提出日の1週間後に出したら、『おーやどかりじゃん、先週休んでたねえ」 』「まあ課題終わってなかったしねー、どうそっちは」『わたしも今日出すよ、まあフツーに〆切に間に合わないよね、前回もMartinに提出しろって言われたけどフツーにわたし誤魔化したし』

 

 

それを聞いた時に、この子のことを羨ましいとちょっとおもってしまった。

わたしはカッコ悪いわたしが大ッ嫌いで、それを他人に言及されるのも好きじゃなくて、他人の目から隠すことでしかカッコ悪いわたしを扱えない自分のこともまあまあ嫌いだ。

 

だから課題が終わってなかったのにも関わらず前回の授業に来たその友達のことを、内心ですごくすごく羨ましがった。こんなことですぐ追いつめられていらんことまで考えてタスクが終わらなかった自分が、すごく惨めで恥ずかしくて、またひとつ嫌いになった。

 

 

あーこれめっちゃ鬱っぽい文章ですね。

いや、フツーに元気なんだけどね。うん。

おかんは電車の遅延で遅れてくるそうです。おわり。

 

 

 

透子

 

 

 

 

中身のないことを惰性で書かせたら右に出るものはない夜の自分自身について

月が大きい晩には何かを語ろうという気分になる。あるいは、それは啓示のようなものなのかもしれない。普段は暗い意識の奥底に沈んでいるものが高くあがった月の光に照らされて、曖昧だった輪郭が実線になってくるような、そんな夜があるのだ。

 

僕はケトルに水を注ぎ、ガスコンロに火をつけてお湯を沸かす。帰り道にスーパーマーケットに寄って買ってきたインスタントコーヒーの瓶から香ばしい粒をすくって、マグカップの中に落とす。この何気ない瞬間が、僕はたまらなく好きだ。夜の冷たい空気に包まれた時間が、穏やかに流れていく。

 

さぁ、今夜も空虚で小さい自分に強い光を当てて、壁に大きな影を映しだそう。

「贋作も永遠に見抜かれなければ、いずれ真作になるよ」

いつか夢に見たピンク色の象が僕に語りかけた言葉を懐に抱いて、僕も美しい言葉で語り始める。いなくなったピンク色の象が待っている、ここではないどこかを目指して。

何となく、気付かされること。

「ねえ、なにか僕/私に質問ある?」

 

たまに初期の会話、お互いを知るところでそうたずねられることがある。こちらばかり質問してしまっては申し訳ないから、と。

 

正直、そういわれてしまうと困ってしまう。

相手のことを知るためにする質問、なんて、あまり浮かばないのだ。

そりゃあ、何歳?どこ住み?のような定型文的なところはまぁ訊くけれど。

 

 

リアルでは人との和を大切にする人って見られている印象らしいけど、多分上記のことからいって私は他人にそんなに興味が無いのだと自分自身気付かされる。

 

それが私のフィルターとして『見えている』人は一定数いて、そういう人にズバリ言い当てられたりするとなんだかバツが悪いような気持ちにもなってしまう。

まぁ、これは治らないだろうから、こういう自分ともうまく付き合っていくしかない。

 

 

ただ、このまま、そうやって、誰にも興味を示さず、孤独を抱えて生きていくのだろうか。それは怖いし寂しい気もする。

 

 

そんなことを考えるような、寒い季節になりました。

皆様、お体、ご自愛くださいませ。

 

 

酢飯

世界をふたつに分けたら

自分が「普通」であることがイヤだった時期があった。かなり幼い頃から割と最近まで、相当長い期間そう感じていたと思う。

他者と自己の差別化を図りたかったのだろう。目立とうとしてみたり、おかしな行動をしてみたり、ふざけてみたり、ワルいことに手を出したりもした。

「私はここにいるよ」

表現したいことはたったそれだけのことだったのかもしれない。

 

自慢ではないが、何をやらされても70点〜80点くらいの結果は出せる子供だった。ずっとそうだった。たまに腐って、30点でいいやと手を抜いたこともあったけれど。それなりにまともに取り組めば「よくできました」という評価がもらえた。

でもそれは「大変よくできました」でも「素晴らしい」でも「完璧」でもなかった。あくまで「よくできました」どまりだった。

そして残酷なことに、いつもなんでも「よくできました」だと、そのうち「よくできました」は「あの子ならそうだろうね」に変わってしまう。

 

高校生くらいまでには、私は「器用貧乏」を自称する立派なニヒリストになっていた。誰かが開けてしまった穴を埋めることは得意だったけど、穴を開けられては困ると誰かから求められる人には、いつまで経ってもなれなかった。

突出した個性でも、決定的にズレているところでもなんでもいい。私にしかないもの、私でなければいけない場所が欲しかった。そして、そんなものはなかった。

 

それでも私は、できるだけ人と違うことを言おう、人よりもおかしいことをしようと思った。だけど私はいつまで経っても80点しか取れなかったし、その20点分の不足はいつでも厳然とそこにあった。たった20点。されど20点だ。1/5も足りないと、その不足は簡単に見破られ、私はその都度「自分は普通だな」という認識を深めた。

 

そして私はいつしか「特別」であることを諦めた。一番こだわっていたことを諦めた人間は強い。もう何もかも諦められるからだ。「もうどうでもいい」は「全部バッチこい」とほとんど同じだ。

ふっと消えて無くなってしまいそうな儚さも合わせれば、なんだかそれはそれですごく魅力的に聞こえるじゃないか。

 

何かが「特別」な人はすごい。私は「特別」になれなかった。それは眩しくて見えないほどの強烈な光だったり、奥底が見えないほど深い深い闇だったりするのだろう。手を伸ばしても届かなかったけど、私は本当に「特別」の方に向かって手を伸ばせていたのかな。

うぐいすあんぱんも悪くない

書いた文章が好みだと言ってもらえるのはとても光栄なことで、書き手としてはこれ以上に嬉しい言葉はない。

が、しかし。その言葉の上にあぐらをかいて、なに書いてもいいやってなもんで適当ぶっこいたときに、それでも好評をいただけるのかというと当然そんなことはない。現実は非情だ。そんなこんなで1度書き始めた記事を、2本お蔵にした。下書きに残してあるけど、多分続きは書かないだろう。

「書け」と言われて「書きます」と言ったからには、それなりに自分が納得できないといけない。中身がないものは人に見せたくないのだ。

見栄か、プライドか。それは自分でもよくわからないけど、空っぽに見える自分という器の中に手を突っ込んだら、手を引き抜いたときには色んなものが絡みついてきていて、自分でもびっくりする感じになっていないと。それができそうにないときは、自分の中に手を突っ込まない。そんな自分ルールがある。そんなに自分を縛り付ける必要なんて、どこにもないんだけどね。

 

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ハンドルネーム、○ん○んちゃんからお題をいただきました。「大学時代」ということで。リクエストありがとうございます。

僕は今年29歳になったんですけど、大学生になったのがちょうど10年前なんですね。このお題で書くって考えたとき、まず「うっわぁ〜〜キッツぅ〜〜〜時の流れを直視させられるのキッツぅ〜〜〜〜」なんてことを思いました。10年ですよ。今年高校を卒業して次のステップに進んだ人、10年前はバリバリの小学生ですよ。鬼ごっこが最高に楽しい時期の小学生。ウヘァ〜〜って声出ちゃうでしょ。出ちゃうよねぇ。

 

ふと、10年前に何を書いてたんだろうと思ってmixi日記を見返してみました。地獄の釜の蓋を開けたわけです。そしたら、どの日記を見ても「バトン」を書いてて。20項目くらいの質問があってそれをひとつずつ答える。そして次に同じ質問に答えてもらう友達の名前を挙げて、質問のバトンを渡すアレです。

自分は答える割に、回ってきたバトンをほとんど誰にも渡してないあたり、自分語りは好きだけど他人には興味がなかったんでしょうか。

それで、そのバトンが驚くほどつまらないわけ。死ぬかと思った。つまらなすぎてショック死。男子大学生の血液型情報のどこに価値があるというのか。きっと昔はそんなことすら考えてなかったんだろうな。

それはさておき、普通の日記を一部抜粋します。

 

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10年前の僕です。少し不思議な世界観を持っていたみたいです。多分これが面白いと思ってたんだろうな。あんぱんだと思ってたらうぐいすあんぱんだったときのガッカリ感。うん。

外から見ると今も大して変わらないのかもしれないけど、自分としては10年経って結構成長した部分を感じました。よかった。

 

10年も経つと色んなことがあって。成功もするし、挫折もするし。とにかく変わるんです。価値観が。校庭で走り回ってた小学生のときと、19歳のときの価値観がまるで違うのと同じで。

10年前の自分を評するとしたら、悪く言えば今よりもっと愚かで、良く言えば澄んでいた。

今の自分はまぁまぁ愚かで、それでいて濁っている。でもそれが、僕なりに正しく歩いてきたということなんだろう、と。そう思います。

これが今日の、書いてる自分もビックリする、思いもしなかった結論。弱いか!弱いかな!

 

大学時代、単位ギリギリまで講義をサボって自分がしたい勉強をしてたんですね。お題にもう少し寄り添うとすれば、そんな話をした方がいいのかなとも思ったんだけど、それはまたいつか。

 

 ふわ毛

ゆめとはどういうことかしら

ブログを書く権利を頂いてから早幾日。


いやね、電子アイドルへの熱を1000文字ほど書き連ねた駄文は産んだんですけどね、余りにもアレだったから。ね。アレだった。


今日起きてダラダラ1時間以上化粧しながら考えてたんで書きます。ツイートで言うにはなんか照れくさいしね。


大学卒業して、どれくらいかな、まだ後輩のサークル活動とか見に行ってた頃の話。

まぁ学生ってさ、後輩達にに向けて青臭いこととか言っちゃうじゃない。んで、私が仲の良かった後輩もさ、『夢はね、ずっと思ってたら絶対叶うんだよ』みたいなこと言ってて、なんだなんだこいつはなに言い出したんだよ、って思ってたんだけど、『僕は、ずっと一番の夢が"友達が欲しい"だったんだよ。ずっと思って生きてたら、ここでやっと叶ったよ。ありがとうね、みんな』みたいなこと言っててさ、いや、不覚にも泣いちゃったよね。


そうそう私も一緒だったよ、いつしかなんとなーく叶えちゃったから忘れてたけど、ずーっと"友達が欲しい"が夢だった。

性格に難アリな部分も少なからずあるから、友達も居ないしひとりぼっちの時間は長くて、一人で絵ばかり描いてたな。


ああ、夢ってそれでいいのか、それならこのどうしようもない人生で少しずつなら叶えてきたかなぁ。不満は尽きないけどさ。人間だから。

童貞も食べれたし。へへへ!


先行き不安でしかない現状だけどこんなことふと思い出して、まぁこんな感じで叶えられることは少なくなったなりに、色々叶えながら絶望しながらジワジワと生きて生きたいかなぁなんて思います。


絶対に生き延びてやるからな。


シオサイ


らーめん山頭火 旭川本店 しおチャーシューめん

 今回は北海道旭川においてまさかの塩ラーメンで有名になった「山頭火」です。

 

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旭川で有名なのは醤油ラーメンですが、ここの本店は数年前まで開業当時のまま「しおらーめん」しかなかったというお店なのです。(今はしょうゆ、みそなどのメニューもあります)

 

個人的には「山頭火はしお!」という思いがありますので、今回は「しおチャーシューめん(980円)」を注文

 

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まず目に飛び込んでくるのは赤いカリカリ梅、山頭火のしおらーめんと言えばこれが外せない!

 

 

スープはしおらーめんと言っておきながらのまさかの白湯とんこつ。キクラゲや白ごまが乗っているのでほぼ九州とんこつに見えてしまうという、「本当に旭川のラーメンなの?」と疑ってしまうような見た目ですね。

しかしそこはしおらーめん、飲んでみると意外とあっさりしていて口当たりがよく、そしてとんこつのコクもしっかりあるという、これぞ山頭火のしお!

 

 

麺は、中細の縮れ麺。旭川ラーメンといったらこの麺です。中細がほどよくスープに絡んで美味しいです。

 

 

そして山頭火のもう一つの顔が、とろ肉チャーシュー。味がしっかりと染みており、そして口の中に入れたらすぐにとろけてしまいそうなほどやわらかく、とても美味しいチャーシューです。本当にこのチャーシューは絶品なので、ここでラーメンを食べるときはちゃーしゅーめんか特選とろ肉らーめんをオススメします。

 

 

これからの寒い季節、美味しいラーメンを食べて温まっていきたいですね。

 

[データ]

●店名:らーめん 山頭火 旭川本店

●住所:北海道旭川市1条8丁目348番地3 ささきビル1F

●営業時間:11:00~22:00(ラストオーダー21:30)(冬季期間は11:00~21:30、ラストオーダー21:00)

●定休日:なし

 

股ずれ大五郎