うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

The Wind-Up Bird

最近また夏目漱石の「こゝろ」を読み返している。

伝えなきゃいけない大事なことが言い出せなくて、言わないでいるうちにどんどん取り返しがつかなくなって、嘘までつく羽目になって、それでも自分のプライドや世間体が大事で、恥をかきたくなくて、足踏みしているうちに相手が自殺してしまって、伝えられなかった後悔が人生のすべてを覆い尽くす話だ。

 

自分の視界からいなくなってしまって二度と会えないし話すこともできない相手は、死んでしまったのと同じだなと思うことがある。

自然の成り行きでそうなったのならほとんど気にすることはないけど、何かの拍子に疎遠になったり、自ら遠ざけてしまったりした相手には、大抵伝えたかったことが伝えられないまま、心の底の方に沈殿してしまう。たとえば恨み節とか、弁解とか、謝意とか、好意とか。

 

そうなる前に伝えたところで相手との関係は何も変わらなかったということの方が、きっと多い。

だけど「あんなこともあったけど、今ではそれも糧になったよね」なんて美談にして整理をする、生ゴミ処理機みたいな人間にはなりたくない。

犯した過ちを償うことなんかできないんだからずっと背負っていかなければならないし、負わされた傷はちょくちょく自分でカサブタを剥がしてその痛みを忘れないようにしなければならない。

それがイヤなら、たとえ自己満足だとしても、伝えるべきことは伝えて消化すべきなのだ。

 

今日も明日も明後日も、1日分だけ色んな世界にねじが巻かれる。色んな世界が1日分だけ動く。

気付かなければならない。突然、大事な世界のねじが巻かれなくなってしまう、その前に。

最後に涙を流して泣いたのはいつだっただろうか。


別に泣きすぎて涙が枯れたわけではなく、いつの間にかそういう風になっていた。

これが大人になって精神が安定した成長の証なのか、それともひねくれて変に負けず嫌いな自分が、人前で泣いてやるもんかっ!というあれなのかはイマイチよくわからない。



まあ涙を流して泣かなくてもお腹は空くし、腹を抱えて爆笑するし、かなしい出来事にあって落ち込むこともあるし、私はこのままヘラヘラしながら生きていくんでしょうね。






ただ最近思うことは、もし泣くほど嬉しい出来事があったとき、涙を流せなかったらさびしいな、と。

ネタがないからネタがないという話をネタにします

いつの間にか140字に満たない言葉しか持たない世界にどっぷり浸かってしまった。

 

いざ書こうと思ってもなーんにも書く事がないんです。なーんにも。

パスワードを教えてもらってから早数日。ぼんやり何を書こうかなあと考えてはいたけれど、ちっともなんにも浮かばないの。ちょっと不安になっちゃった。自分の中になんにもないみたいで。こんなに空っぽの人間だったっけって。

 

昔はブログだっていくつも持っていたのに。あの時は何を書いてたんだっけ、って思ったけれど、アレだ。制作の事以外はバンド関係の事かふわふわ恋愛日記みたいなのが多かった。ああ…やめて…ヤプログの話は…魔法のiらんどの話は…やめて…辛い…

 

仕事以外でこうやってまとまった文章を書こうとするのは一体いつぶりだろう。

大学のレポートか、それ以降で思い当たるのは就職の時の動機書か。

 

140字というのは絶妙な数字で、原稿用紙の半分にも満たないくせに、ある程度の事は言えてしまう。まるで小学生のときに書かされた特に感想がない時の読書感想文。あとの1枚半は同じような事を適当にごにょごにょ書いてごまかした。あの頃は10倍希釈したカルピスみたいな文章を書くのが得意だった。

 

よくもまあたった140字の積み重ねでここまで仲良くなったものだ。

友人を作る事に積極的でない私が何人もの人と会ってるんだもん。すごいよ。

実際会ってみるとみんな140字で想像してた感じと少し違ったり、想像通りすぎたり。そのギャップ(またはそのなさ)が面白かったり。

いわゆるリア友っていうやつより頻繁に会ってる気がする。月一回は誰かに会ってるもん。アレ?こんなので大丈夫かな。大丈夫じゃないかな。大丈夫だよね。大丈夫って言って。お願いだよ。

 

大丈夫じゃないなら責任とってまた遊んで。

大丈夫じゃなくしたのは、君たちなんだから。頼んだよ。じゃあね。

 

 

まんたろ

 

 

徒然と戯言を

大好きな人がどこかで笑っていたらそれでとても幸せ。

 

見えるところに居なくても生きているのが分かるだけでもいい。

 

もし死んでしまったら、一緒に新しいものを共有できないしもう二度と触れられないからとてもとても悲しいけれど、覚えているからきっと大丈夫。

 

 

楽しそうに話すその事柄の向いている先がわたしだったらとてもとても嬉しいけれど、誰に向いていても構わない。

 

そんなに楽しそうに想えるひとがいて良かったねって思う。素直にそう思う。

 

 

幸せならわたしも幸せ。

 

でもどっかで生きてたらそれで十分。

 

 

 

きっとそっちじゃないよ。って思うとき、言葉をかけてしまうわたしは子どもかな。

 

本当に声をかけて欲しいひとは別にいるしそのひとでしかわだかまりが解けないだろうと分かっていても井戸の底に落ちていく何かに手を伸ばすように慌てて何か声をかけてしまう。

 

結局届かないし、欲していないお節介をまたしてしまったなって落ち込む。

 

選んで進むのはそのひと自身だからね。

 

上手くいったらそれが一番。

 

ももしその事柄が上手くいかなくてもわたしの大好きな人たちだもの、しっかり休んで上手くいかなかったその中から必要なものをきっちり掴んでまた笑うよね。

 

 

見守ろう。

 

いつも同じようにしっかり立って、頼りたいと思われたときにそのひとにただ上手に寄り添えるひとになりたい。

 

いつでも静かに穏やかに笑っていたい。

 

ざわざわするときは自分に籠ろう。

 

落ち着いたらまたちゃんといつものところにいつものように立とう。

 

 

病んでないよ笑

でもいつもそう思ってる。

難しくてできない日がたくさんだけどw

 

 

わたしの大好きな人たち、どうかいい夢を見ていますように。

どうか泣いてもまた立てますように。

疲れが癒えますように。

できたら笑っていますように。

 

 

お恋

 

頭がよくないからうまく伝わらない、モブのはなし。

保育園児や小学生の頃、発表会みたいなのがあって、白雪姫だったり醜いアヒルの子だったりというのを役を割り振ってやった。

 

やはり、小さい頃だから、誰でもきれいなものがよくて。

白雪姫になりたいし、白鳥になりたいんだよね。私もなりたかったけどさ。

 

 

でも、結局、白雪姫では悪い魔女だったし、醜いアヒルの子は最初のみんなにいじめられる(白鳥とわかる前の)醜いアヒルの子、だった。

 

人生においてもそれは変わらなくて、大抵おいしくはない、というか、みんなが手をつけない、とか、そういう役回りをあてがわれる事が多い。

 

主役ではないのはもちろんのこと、モブとしても微妙な立ち位置。

 

でも、きっと。大半の人がそんな日々を生きてる。みんながみんな、白雪姫や白鳥になれるわけじゃない。

 

 

自分自身にそう言い聞かせて、明日も頑張るから。今夜は早く寝よう。そうしよう。

 

 

 

酢飯

日曜の夜

ゐ ω  ナょ 〜♡


 ⊇  ω  レよ″ ω  ゎ !


 、キ ょ ぉ も 二  ・/  二  勹  ヤ  廾  ィ  了  ┐″ ラ  マ  ゙/  マ  ゙/  ぁ  ω  ι  ω ちゃ ω  ナニ″ ょ 〜♡




という文を打って飽きそうになりました。



改めましてこんばんは。10月も中旬に差し掛かりましたが、皆さんいかがお過ごしでしょうか。こちらは朝晩の冷えを強く感じるようになり、冬の足音がいよいよ聞こえてきました。


ちなみにこれが私に書ける精一杯の外面文です。何が言いたいのかというと、「まだ10月なのにクソ寒いじゃねえかボケ」ということです。要約するととても分かりやすいですね。



半身浴がてらブログを書かせていただこうと思ったんですけど、案の定イケメンアイドルとレストラン経営を通して距離を縮めていく通称ときレスというゲームをやっただけで半身浴を終えてしまいました。あるあるですね。





私はクソ捻くれカスボケデブ女なので、InstagramTwitterで、「お互いを高め合っていこうね♡」「切磋琢磨♡」「あいつも頑張ってるし頑張れる卍卍卍」みたいなことを言ってるカップルを見るとサブイボが出てしまうんですけど、向上心の強い彼氏の話を聞いていて、根が真面目な私は「私も頑張りたいな」って、「サボって適当にやりたくないな」って思えてしまって。気づいたらInstagramで「自分のことがおろそかにならないために他を切り捨てたのに、結局怠惰で自分のことをおろそかにしてるの、とても意味ないですね。やるべきこと一つずつこなしていきましょうね。」って言葉をキラキラした写真とともに投稿していました。やっぱり向いてないなって思って3秒で消しました。


私の頑張りは誰かに伝える必要はないんですよね。誰に認められなくても、結果という形になって現れる。それで十分なんです。

それでも、私が頑張っていると家族や彼氏が褒めてくれるんですけど、それってお菓子のおまけみたいなものでしかないんですよね。お菓子を買ったら付いてきた、頑張ったら褒められた、みたいな。でもお菓子についてくるおまけってなんだか嬉しくありませんでしたか?私はほっこり幸せになれるのですきでした。


そんなちょっとした嬉しさや幸せを次に頑張るためのエネルギーに変えていけたらいいなあと思う今日この頃であります。



また1週間が始まります。私にとってはいよいよなことが始まる1週間です。気候の変化に負けず頑張っていきましょう。




あんしんちゃん

テンテレテンテンテテン

テレレッテテテテン テンテレテンテンテテン テレレッテテテテン テンテレテン

テンテテン テレレッテテテテン テテテテテテテテ

 

とっとこ ハメるよ ハメ太郎

ちんぽこ ハメるよ ハメ太郎

大すきなのは 酒!!!!!!女!!!!!セックス!!!!!

やっぱり ハメるよ ハメ太郎

 

とっとこ まわすよ ハメ太郎

おんなを まわすよ ハメ太郎

大すきなのは 正常位!!!!!対面座位!!!!!寝バック!!!!!

まわすと うれしい ハメ太郎

 

とっとこ ねぶるよ ハメ太郎

どこでも ねぶるよ ハメ太郎

大すきなのは 鎖骨を噛む!!!!!背中を責める!!!!!ふとももの内側!!!!!

やっぱり ねぶるよ ハメ太郎

 

とっとこハメ太郎

 

 

 

 

 

元気な君が好き

SMAP解散までもう3ヶ月を切った。あのニュースが確か年始で、この2年くらいでまた1年間の速さが加速してしまったことを感じる。

 

初期のSMAPの曲が好きだ。表題は「笑顔のゲンキ」という曲の出だし。

「元気な君が好き」のあとは「今は遠くで見てるよ」と続く。

ここだけ切り取ると多少の危うさを感じなくもないが、それは時代性によるものだろう。当時はストーカーなんて言葉も一般的ではなかったはずだ。

 

「どういうところが好きなの?」

 

誰かと付き合っていてこの質問をされるとき、いつも答えに困る。

「きっかけ」なら体験を話せばいいのだが「どういうところ」だと、答えとしては属性を求められていることになる。

 

「料理が上手なところが好き」

「気遣いができるところが好き」

「器が大きいところが好き」

「元気なところが好き」

 

料理上手も、気遣いのうまさも、器の大きさも、元気が溢れていることも、代替可能だ。この広い世界、もっと料理上手な人はいる。もっと気遣いができて、器が大きくて、エネルギーに満ち溢れていて。相手以上の人間は探そうと思えば、そこら中にいる。

 

この問いに答えるたびに、内心では「あなたの美点はこういうところだけど、そんな部分が明日なくなっても好きな気持ちは変わらないだろうな」と思う。

嫌いになるとしたら欠点が増えたときか、新たに露呈したときかもしれない。

 

元気な君が好きなら、それは遠くで見ているのが正解だなと思う。あえて伝えることはない。

いつも元気でいなければならないと思えば、それは苦痛だ。絶対にしっかり料理を作らないと許されないのもごめんだし、気遣いができなくなってしまうくらいイライラしている日もあるし、器がおちょこみたいになってしまうときだってあるんだ。誰だって。

 

あなたたちの中で罪を犯したことがない者だけが、この罪人に石を投げなさい。

 

ね。

アラー!

山本さんから聞いたんだけど、ディランさんとこの!ボブ君!何だかスゴい賞とったそうじゃないのー!

ギネス賞よりスゴいのかしらね!?


アタシゃハイカラな事はよくわかんないけど、せっかくだし団地でお祝いしたげなきゃねえ!ホラB棟の山城さん、そういうの好きでしょ?アタシも影響されちゃってねえ。


あっおはぎ!ボブ君あの子おはぎ好きじゃなかった!?
ちょっととし子!とし子ー!

丹波屋さん行っておはぎ買ってきてちょうだいー!コラあんたいつまで寝てんだい!

食べてぐうたら寝てると牛になるわよ!

……そして最後はアタシのようになるのよ……

 

ヤァダねこの子は!そう言ったらすぐ起きるんだから可愛くない子だよっ!なりなよ!

ホラアンタも覚えてるだろディランさんとこの……

そうそう3年生の時の。たまにヤッパサンご馳走になってたでしょ?

ボブくんが、なんだかスゴい賞貰ったらしくてさ。

ちょっとお祝いするからさ、コレでおはぎ買って来てちょうだい。

うん、串だんご1本くらい買っていいわよ。

アタシのもお願いね。

 

さぁてどうお祝いしてあげようかね。 若い子はそうだね、カレーかしらねえ。

アラヤダお義父さん!どうしたんですかこんな所まで!

お義父さん何言ってるんですか。村上春樹は昨日食べたところじゃないですか。いやですよもう。

不変の国

私は私自身の身の丈にあった言葉で、私のことを語りたい。

伸ばした腕が届く範囲の、半径1mちょっとの世界の中にある言葉たちだけ。それ以上のことを言ったって、メッキはいつか剥がれるのだ。

 

ゆうべ、私は早くも押入れから掛けぶとんを出してしまった。柔らかくて暖かい重み。

 

ふとんの国は幸せと貧しさが同居する国だ。そこには多くの安寧と少しの背徳がある。ふとんにもぐるのが早い時間であればあるほど、その中毒性が運んでくる快感は大きくなり、人を怠惰にしていく。

 

だらしない生活を続けると、自分でも気が付かないうちにこころが貧しくなる。なにも生産せずに、消費すべきエネルギーも消費できず、なのに限りある時間はきちんと減っていくからだ。当たり前に湧いていた力も、いつの間にか湧いてこなくなる。

 

それでも私はふとんの国を愛している。私がどんなに変わっても、ふとんはいつだって暖かく迎えてくれるからだ。ふとんにどんなにひどい扱いをしたとしても、ふとんは私を裏切らない。

 

だけどそろそろラブイズオーヴァーだ。悲しいけれど終わりにしよう。キリがないから。

 

いや、実際のところはすでにちょっと遅刻のラインなんですけど。ほんと無理。逆に出られない。

 

 

 

漂流、過剰な自意識と刃

 

 「変わっている」という評価に苦しめられ始めたのは、いつ頃からだろう。

 

 麻薬だ。「変わっている」という言葉は、他の人とは違うという陶酔と、他人と違い続けなければならないという義務感を与える、麻薬。気づいたときには、自分が何者でもないという事実を突きつけられ、過剰な自意識に溺れ死ぬ。

 

 あるいは刃だ。言葉を受けるたびに、深く深く傷つくのに、誰にもSOSを出せない。血だらけなのに、戦いをやめることができない。それ以外、人との関わり方を知らないから。そうやって刃を受けることが、他人からの認識を実感できる、唯一の方法だ。

 

 僕は異常じゃない。

 

 「大人の付き合い」は、ゆるやかに、でも確実に死に至らせる。

自分と真剣に関わろうとしない人たちの中で、心が孤独に死んでいく。

 

 

 僕は、異常なんかじゃないのに。

 

 

 

nem

納入する準備はできていた

いや、なんか細かい税金とかの払込票がね。大した額じゃないから財布の中に入ってるお金でいつだって払えるのよ。

だけどさ、その払込票の存在をコンビニのレジ前でタイミングよく思い出すことができなくて。何度も何度も払込票と一緒にお出かけして。

家に帰ってきてから思うことは、また今日も払わなかった。明日は払おう。今日はお昼までは覚えてたのに。帰りの電車の中までは覚えていたのに。先にスーパーに寄ったところまでは覚えていたというのに。

 

そんなことの繰り返しで、私はいつだって、ほんの小さな、いくらでも取り返しのきく失敗から、何も学ぶことができないまま、ただ毎日を平凡に、小石につまづきながら、それでも、歩いていくんだ。

読者を選ぶ文章

読者を選ぶ文章は2流だ!
 
そう口を酸っぱくして言われてきました。文章を書くとき、それは当然誰かに読まれることを前提としている。誰かに読まれて初めて意味を持つのが文章なのだから、多くの人に読まれた方がいいに決まっている。裏を返せば読む人を選ぶ文章は、優れたものとは言えない。
 
そんなわけで読者に知識を要求する専門用語まみれの文章や、単純に難しい表現が多い文章を書くのは避けた方がいい、と。わかりやすさこそが重要である、と。読者を選ぶものを書く人間は2流。1流の文章は明快だというのが大前提。
長いあいだそういう風に思って生きてきました。
 
 
 
20代後半になってからでしょうか。気付いたのです。
 
「自分は1流でなければならない」
 
この強迫観念が自分自身の首を絞め、生きづらくさせている最大の原因でした。
今、いわゆる完璧主義みたいなものを捨てることができて、自由な人間がここでブログを書いています。
 
僕は2流でいい。
2流の文章を書きたい。
読者をガンガン選別していきたい。
わかる人だけにわかってほしい。
自分が生きやすいように。
そのためにはどうしたらいいのか。
 
僕はここで【ネタバレ】を書こうと思います。
 
ちょうど○ん○ん○ゃんから「君の名は。」を観て何を思ったか書いてほしいって言われたりしてたし。実際書いてたし。
書いてる途中でぶん投げてほったらかしていたものを、今ここに大放出する。
 
いや、こんな贅沢なことはないですよ。だって、本来は書きあがったものしか読者は目にしないんですから。
それを、書き上がる前の段階で大放出。これはすごい。お買い得。
いや、途中だけど。最後まで書いてないけど。だからなに?文句ある?
うるせぇな。今からiPhoneのメモ帳に保存してあるやつをただコピペするから見てろ。
あっ、でもアレだぞ。「君の名は。」はいい映画だから、観てないやつは読むなよ。読まない方が映画を楽しめるぞ。観たやつだけ読め。な。
あと、アレだからな。わかりにくい部分を括弧つきで補足したり、注釈を入れたりとか、絶対しないからな。全然分かりづらいからな。覚悟しろよ。
 
じゃあここからは本当にコピペしただけの、ディレクターズノーカット版でお届けします。今夜もお疲れ様でした。
 
 
 
 
年に1本か2本、背筋がゾクっとするような、他では味わうことのない不思議な感覚におちいらせてくれる映画に出会う。

君の名は。

新海誠監督の最新作アニメ映画で、興業的にも新海作品としては未曾有という言葉がふさわしいほどの大ヒットとなっている。

ここに至るまでの新海は、名はあれどもどこか「マイナー」という言葉が似合うような、落ち着いた作風の映画をつくってきた監督だった。メディアが評した言葉を借りれば、まさに「文学的」な作風である。

新海の名を「アニメファンたち」の間で有名にした出世作「秒速5センチメートル」は、説明的な言葉が比較的少ない作品である。全3話の連作短編だが、どの話も語りの目的が表現ではなく内省であるという印象を受ける。いたって感覚的、自己完結的な言葉で語られるからだ。
 
たとえば第1話、雪が降りしきる中、大きな桜の木の下で明里と貴樹がキスをする場面では、キスをした直後に貴樹の独白が挟まれる。以下に引用する。
 
 
 
永遠とか心とか魂とかいうものがどこにあるのか分かった気がした。13年間生きてきたことの全てを分かち合えたように僕は思い、それから次の瞬間たまらなく悲しくなった。明里のそのぬくもりを、その魂をどのように扱えばいいのか、どこに持っていけばいいのか、それが僕には分からなかったからだ。僕たちはずっと一緒にいることはこの先もできないと、はっきり分かった。僕たちの前には、未だ巨大すぎる人生が、茫漠とした時間が、どうしようもなく横たわっていた。でも、僕を捉えたその不安は、やがてゆるやかに溶けていき、あとには明里の柔らかなくちびるだけが残っていた。
 
 
 
たとえ大人が過去を振り返って語った言葉だったとしても、中1で初恋の女の子とファーストキスをした際の印象を述べたものとしてはやはり非常に「文学的」だ。解釈の余地はあったとしても、そこに明快さはない。
 
ただし「秒速5センチメートル」の説明不足は、画面の情報量でしっかりと補われている。情景とその構図、表情、小道具。細部まで意図を感じる。
 
 
たとえば第2話は貴樹に恋心を抱いている花苗の片想いのエピソードだが、花苗が貴樹の背中を見ている描写が何度も繰り返されることによって貴樹が花苗ではない誰かを見ていることが強調されているし、高校を卒業したら東京に行くという進路を決めている貴樹といつまでも進路を決められない花苗がこれから生きていく世界は別の世界だということが、画面を真っぷたつに割る飛行機雲の描写で表されている。
 
 
無論それは連続的に情報が流れ込んでくる映像メディアでは、言わば「オタク」的に、何度も見返さなければ気付かないような表現方法である。こういったところが新海作品の良さでもあり「マイナー」から今一歩脱皮できない原因でもあった。
 
君の名は。」のパンフレットに掲載されたインタビューの中で新海自身が述べた『「秒速5センチメートル」はバッドエンドを描いたつもりはないのに、バッドエンドと受け取られた』という言葉はまさにこのことを証明している。表現方法が明快ではないために、大多数を占めるライトな視聴者には誤解されたのだ。

---(ここからたぶん違う話)---

私たちの生きる現実も、いまやあまりに頼りない糸によってつながれている程度のものに過ぎないのではないか。SNSで報告される近況をみているだけで、本当に友人と自分がつながっていると言い切れるのか。そこには本当にあなたや、あなたがつながっていたいと思う大切な人の実体があるのか。
ただ、11本はあまりに頼りない細い糸でも、それらをしっかりと編んだ組紐は、頑丈に結びつき、簡単に切れることはない。それを結びつけるのは記憶だ。同じ時代を生きたという、時間の結びつき。同じ場所にいたという、空間の結びつき。そしてもちろん、交わした会話や繋いだ手の感触のような、人と人との物理的な結びつきも。
それらを1本ずつたぐりよせて、記憶の中で固く結べば、それは頭のどこかに必ず残る。一目見れば必ずまた思い出せる。
君の名は。」という作品にそんなメッセージをみた。

---(↑たぶんここら辺が結論)---
---(↓思いつきを繋がりなく書いてる部分)---

舞台となる架空の町「糸守」には、その名の通り古くから伝わってきた伝統という細い糸を守ってきた人たちがいた。本作のヒロイン宮水三葉とその家族、宮水家である。
 


オープニングといえば、オープニングテーマ「夢燈籠」の歌詞に「5次元にからかわれて それでも君を見るよ」という一節がある。あまり頻繁に耳にするものではない「5次元」という言葉に、否応なく巨匠クリストファーノーランの名作「インターステラー」を想起させられた。
インターステラー」のクライマックスシーンでは、全てを飲み込むブラックホールの向こう側に存在する5次元空間に主人公クーパーがたどりつく。そこは時空を超越した「この世のすべて」に干渉できる場所。そんなことが可能だとすれば、それは限りなく神に近い。神がいる世界だから「あの世」とでも言うべきか。さておき、クーパーはその無限/夢幻の世界から、10歳のときの娘マーフィーにメッセージを送って行動を誘導し、その直後に5次元空間の中を飛んでいって、35歳に成長したマーフィーに向けて人類が直面した問題を解決することができる重要な情報をモールス信号で送信する。

別作品の話が長くなったが、既に隕石の落下という災害に巻き込まれてこの世の人ではなくなっていることが発覚した三葉ともう一度出会うために、瀧は「あの世」である宮水家の御神体がある場所へ向かい「三葉の半分」である口噛み酒を飲み干す。そこで昏倒した瀧は、時空を超越して宮水家の人々の人生の糸をたどっていくことになる。最後には隕石落下事故の当日の朝に戻って三葉として目覚めるわけだが、そのシーンで表現された空間はまさに「インターステラー」で表現された5次元空間と瓜二つではなかったか。

ところで、この部分についてシナリオの中で都合が悪い部分を帳消しにする、なんでもアリの「奇跡」だと批判するような向きもあるだろう。そう言ってしまえばそれまでだが、食事をとることや水を飲むこともひとつの「結び」だとする三葉の祖母の言葉を思い出せば、「三葉の半分」を飲んだ瀧が三葉と結びつけられることに作品内での齟齬はない。何もかもが結びつくように、丁寧に語られている。

前前前世 三葉は隕石が落ちる日を2回生きる。1度目は東京まで会いに行った瀧によって与えられた2度目の生では、前世で
 
 
 
いや、ちゃんと最後まで書いてから出そうよ。その方がいいよふわ毛。ふわ毛もっと自分を大事にして

溜まりまくった下書き

深夜です。


皆さまどんな夢を見ているのでしょうか。
魔王を倒したり何となく起きていたり仕事をしていたり謎のハイテンションを迎えていたり、田舎にいてもネットには眠らない街が広がっていて毎夜楽しいものです。



せっかくとうこちゃんがつくってくれた場、お言葉に甘えて自由に書いてみようかな。



誰かの目に入れるまでもないと思うのに文字にせずにはいられなかった下書きツイートが溜まりまくってるから、話題はそこから拾って。コレ。


「あの最高の空耳を空耳のままに録音したかった」


直感に従えばだいたい納得する結果が得られていたのにひねくれて曇っていたなって気付いたときの下書き。

(空耳が嬉しすぎて本当は何て言われたか忘れたけれど、とにかくぜんっぜん違う話だったw
(恋人じゃないしそんな話ししたこともなかったのに。幸せな脳みそと耳に感謝。))


素直に好きと思える人にあんなにいい笑顔で「結婚しようか。(空耳)」って言われるとこんなにも安心で嬉しいものか!!という衝撃を味わったこの日。


こんなこと、結婚したくせに知らなかった!wって苦笑いした。


違和感のままに社会的に〜とか年齢的に〜って適当に掴んだ結婚はダメにしてしまって、本当に申し訳なかったなと。





え、4時……
朝だよ……




えーと

安心はYes
違和感はNo

忘れていたけれどこの判断方法はわたしが間違わないためにまだ有効そうです。という一行の下書きツイートに関するお話しでした!

みんなが大事にしている譲れない判断基準、気になる〜






この場をつくってくれたとうこちゃんに愛をこめて♡笑

お恋