うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

公園

 

 

彼らがそこに行く時は、いつも夜であった。だから彼らは、そこについて何か思い浮かべる時に一番初めに、三本のぼんやりと灯されている、曇った空に浮かぶ月のように淡い光を放つ街灯を思い出す。

 

その時には、その街灯の内一本の下に、蛙が、まるでこの公園の主であると言わんばかりに、黙ることが威厳を見せる時には有効な手段になり得ることを知っているかのようにして、そこに佇んでいた。

 

「蛙だ。」
「随分とでけえな、」
「寝てるのかな、全然鳴かない。」

 

闖入者である二人の会話だけが、静かに響いた。二人はお互いのどんな言葉も聞きもらさぬよう、あるいは伝えそびれることのないように、小さな声で話し、耳を兎のそれよろしくそばだてていた。

 

この場所は、闖入者である彼らを憎みもしないし、愛しもしない。ただひたすら彼らを受け入れる。その日の夜は星が寒天の中できらめく金箔のように浮かんでいたが、その場所から空を仰ぎみても二人の視界を埋めるのは、お互いにぶつからないようにして背を曲げている木々が頭を垂れている光景のみである。


彼らは二人に空を見させない。彼らは皆、二人に二人の姿しか見させない。
そこには二人の声と、雨に濡らされて漂う木々と土の匂いと、お喋りを決してしようとはしない蛙だけである。

 

 

 

 

 

【写真企画】意図を楽しむこと

写真を添付して文章を書くという【写真企画】である。

安請け合いしてしまったが、どうしてくれようかと考え始めて頭を抱えることになった。


なにせ僕は写真を撮らない。

ツイッターやLINEでコミュニケーションをとる上で、目の前に広がっている光景とそれについて感じたことを言葉でわかりやすく表現できないときだけ、写真を撮って載せる。

あるいは、社内の掲示板に張り出された連絡事項を手でメモする代わりに撮る。

僕にとって写真とはそういうものだ。それは写真のようで「写真」ではない。あくまで文字や言葉の代用品でしかない。


なんならこの2年くらい、どこに行っても何を見ても、できるだけ写真を撮らないようにしている。

ある日、珍しいものを前にして一斉にスマホを掲げ、画面越しに対象を覗き込んでいる人たちの群れの中にいる自分に気付き、そこで考えこんでしまったからだ。

 


誰もがカメラを常時携帯していて、無制限に撮る。撮って撮って撮りまくることができる。

カメラ越しに世界を眺める人々。目をつむり、スマホのカメラに視ることや記憶することを代行してもらっている。

スマホはすごい。今や手の代わりであり、眼の代わりであり、脳の代わりである。この機器はもはや人の身体の一部になっているといっても過言ではない。

これについては恥ずかしながら僕自身も例外ではない。無論、この文章の主題はそういった有り様について言及することではないが、これは僕の中で写真について考える一つの切り口になった。

 

かつて「写真」と呼ばれていたものは「写真ではないもの」になった。


「真を写す」と書いて写真。

 

f:id:analfrisk3456:20180629221335j:image


みなまで言うまい。

写真はデジタル化され、むしろ「偽」であることを前提とすべきものになった。

つまるところ、ほとんどの写真は「画像」になったのだ。隠すことが前提、直すことが前提、切り取ることが前提。もはやそれが一般的な認識になっていると言っていいだろう。

アナログの時代から「真を写している」というのは思い込みだったかもしれないが、それが意識されることは今より格段に少なかったはずだ。

画像を見ることの第一義が、隠されたものや切り取られて消されたものについて想像を膨らませること、あるいは焦点が合っていない部分に注目して撮影者の本意ではない部分を読み取ることになっている人も、決して少なくはないと思う。

 


たとえばこんな画像がある。借りてきた。

f:id:analfrisk3456:20180629210637j:image

「これはわたしの家にいるブルーナボンボン」という説明が付された画像。みなさんはまずどこに注目するだろうか。

 

僕はここ。

f:id:analfrisk3456:20180629211245j:image

一番左は『村上春樹河合隼雄に会いにいく』だ。

オウム事件阪神淡路大震災を契機とした様々な思索について語られている対談集。春樹が「救い」について模索していた時期の出版物だったように思う。

その隣は恩田陸の『木漏れ日に泳ぐ魚』だろう。

恥ずかしながら未読だが、今はネットでそれなりに良心的な書評を漁ることもできる。ざっくりとだが、様々な「禁忌」について考えさせられる小説だと理解した。

その隣にある「郎」と思しき漢字の記された本はなんだろう。

作家の名前だろうか。谷崎潤一郎、あるいは大江健三郎安岡章太郎か。そこまで硬派寄りじゃないな。伊坂幸太郎かも。

そんな風に想像を巡らせる。言語化するとこれだけでも結構気持ち悪い。

 

以上は極端な例かもしれないが、かつての「写真」がこのような解釈をされていたとは到底思えない。受け取る側がそうしたくとも、粗さが隠れ蓑になる。

 

もちろん「伝えようとしていないことが伝わる」というだけではない。「伝えたいことを伝える」という機能も拡張された。

f:id:analfrisk3456:20180629214619j:image

あなたの家のブルーナボンボンはこの光に満ちたブルーナボンボンですか?

 

f:id:analfrisk3456:20180629214654j:image

それともあなたの家のブルーナボンボンはこの影に覆われたブルーナボンボンですか?

 

加工の仕方によって与える印象は変わり、メッセージも変わる。受け取る側に解釈を委ねられたものより、ある方向に明確に限定されたものの方が価値を持つ。そんな時代だ。

 

ここまで書いてきた文章も、伝えたいことを伝えるための努力の産物であるし、一方で伝えようとしていないことも伝わるという意味では、画像と同じだ。なんなら、伝えたいけれど卑しさは隠したいので直接的に表現せず、わかる人にだけ伝わればいいという託し方をしてもいる。そこも同じかもしれない。

なにせ文章は頭の中そのものだと言えるし、写真だっていまや脳を代行しているものなのだから。

 

さて、適当に書き殴りながらオチを考えていたのだが、さっき思いついた。

「写真」が今こうなったからこそ、この【写真企画】は面白い試みだったのではないか。

写真自体が《企て》を前提としている中で、様々な書き手が様々な写真を添えて、文章を書いてくれた。

 

もう一度読み返し、見返そうと思う。

そこにはきっと新しい発見がある。あらゆる変化は、そうやって受け入れていこう。

 

 

ふわっふわの毛布(@soft_blanket101)

【写真企画】ポスト

 ポストにもいろんな形やいろがありまして、各々のポストは今か今かと手紙を待ちわびているのですよ。待ちくたびれてしまっているポストもあります。それでもポストはあなたからのお手紙を今か今かと待っているのです。たった今も。

 うまく言葉の交わせない私たちは手紙を書き、手紙を送られることによって、ひととの交流をはかることができるのですから、あなたもお手紙をお書きになったらいかがでしょうか。

f:id:analfrisk3456:20180626090036j:plain

 一通どうでしょうか。お手紙。

 これも一つのお手紙かもしれませんね。誰でもない、誰でもあるあなたに送る手紙。

 ほら街のいたるところにあなたのお手紙を待っているポストがあるのです。どこにもお手紙を送らないなんてもったいない。

 さああなたも手紙を書きましょう。たくさんのポストがあなたを待っています。

 体裁はどうでもよいのです。紙もなんだっていいのです。コーヒーのフィルターでもいいでしょう。

 うまく言えない私たちは手紙を書きましょう。

 

 

いしいしんじ「ある一日」

久々に読書感想文を書く。

読書感想文というよりは、「読んで思った事」くらいの軽さで書いてみようと思う。

 

ある人に「一度読んでみるといい」と勧められたこの一冊。

非常に薄い。普通に読み進めれば2時間で十分終わってしまう程度。

しかし、三日ほどに分けて読む結果になった。進まなかった。

 

面白くなかったわけでも、難解な文章だったわけでもない。

頭に浮かぶ情景がハレーションを起こし、目の奥の方がチラチラと輝き、真っ白になってしまってどうにもこうにも休憩を挟まずにはいられなかった。

 

京都を舞台にした物語で、いちいち情景がリンクしてしまって仕方がない。ああ、あの道。ああ、あのギャラリー。そうだね、確かにあの道はいつもどこか濡れていて、じっとりと、ぬらぬらとした空気感がある。

その場にいるような臨場感。まるでそこに同行しているような。

しかし、その臨場感の隙間隙間に、なぜか幻想的な表現が組み込まれる。賑わう錦通りの頭上をスルスルと鱧が泳いでいるような気分にさせられる。

確かに浮かんだ情景の所在がキラキラとした水面のようなものに目が眩ませられる。

言葉によってここまで情景が浮かぶものだろうか。素直にそう感じることができる。

 

キラキラとハレーションが起こったのち、休憩を挟み読み進めると情景ががらりと変わり、出産という私が経験したことのないはずの痛みに耐えるシーンが続く。まさに鬼気迫る。男性がここまで書けるものなのか。そして序盤と同じように組み込まれる一種の非現実的な表現。それによって出産というものがより神秘的なものとして描かれる。

新しい命が産まれる奇跡、というものの表現として、こんなに上質なものがあるだろうか。

 

正直、好みではなかった。というか苦手だった。

頭の中での立ち位置が定まらない。異常にリアルで、妙にファンタジックで。

しかしその表現はどれを取っても素晴らしく、豊か。

日本語という芸術をみた。そう感じた。

【写真企画】得るということ。


f:id:analfrisk3456:20180617080733j:plain









お母さんが余命2ヶ月という夢を見た。日に日に弱っていくお母さん。立ち上がれなくなるお母さん。自分の余命が途切れる頃に娘の大事な支払日と給料日があることを心配するお母さん。



内容はもうよく覚えていないが、目が覚めた瞬間、声を殺して泣いてしまった。










いつか訪れるであろう大切な人の死に、自分は何ができるであろうか。





生きている間は、他人と自分を重ね合わせて、他人に共感し、受容し肯定する人になりたいと思う。



でも相手や自分が死ぬことになった時、私は境目を欲するのだろう。



傷つきたくないし、傷つけたくない。



いつか傷ついてもいいと思える日が来るのだろうか。







もし来るのであれば、きっとそれは、私が何かを捨てて、何かを得た時だ。







あ(@anchanRM)

【写真企画】Nomi no ichi

f:id:analfrisk3456:20180616163839j:plain

 

退廃的な物を眺めるのが、好きだ。

 

使い古され、使用主の元を離れ、彷徨い続けて、

疲れ果てた顔をして並ぶ古道具。

 

読了されてしまったのか、

最後まで読まれることなく売られてしまったのか、

経緯もわからず、積み重なった本。

 

持ち主が死に、遺された人々には不要だった玩具。

 

いろいろな想い、さまざまな感情。

それぞれが持つ歴史。

 

ただ、古びてしまった、捨てられてしまった、売られてしまった。

 

彼らが持つ歴史も、感情も、想像することもなく、

疲弊に満ちた表情を眺めることで、

「愛しさ」に近い感情が芽生える。

 

対人間には持つことのない感情、心持ち、etc.

 

朽ちていく美しさをレンズに収めながら、

フチの欠けたガラス瓶だけを連れて帰った。

 

本棚に並ぶガラス瓶は、物憂げな表情をしていた。

 

 

雨 @percent_1335

【写真企画】我が家のぬいぐるみ達には意思がある

表題をみて「何言ってんだこいつ、頭おかしいだろ」という反応をした方、あなたはなにも間違っていません。


でも本当に我が家のぬいぐるみ達は意思を持って生きていて(この表現があっているのかは分からない)、我が家の人々はこの子達を溺愛しているのだ。


そして溺愛されている子供達の殆どが今実家ではなく東京で一人暮らしをしている私の家にいる。

子供達が私にとてつもなく懐いているからだ。



こうして文字にするととてもおかしくみえるが、我が家は至って本気だ。

それぞれの子達にキャラがあり、その子達とお話したり遊んだり、元気をもらったりしている。


我が家では愉快な日常を写真で記録し、ラインで共有されている。

頭がとてもおかしいだろうがそれらを紹介していこうと思う。


まずは我が家のメンバーを紹介しよう。


f:id:analfrisk3456:20180611193508j:plain

メンバー大集合な写真がこれしかなかった。

上段左からゆうた、しまごろう、くまぞう、ななこ、

中段左からつだしょうはちろうかねまさ、にゃんみの、にゃんまげ、にゃんたろう、くらら、くらまさ、

そして下段ゴン。

ゴンとくらまさ(通称くら)は妹の子供たちでそれ以外の子は私の子達だ。

正確に言えばにゃんまげ、にゃんみの、にゃんたろうの3匹はそれぞれ私、妹、兄のお付きの武士だったのだが、今は江戸でお勤めをしている。

そのため私の子供達ということになっている。

この写真は前の家にゴンとくらが遊びに来た時に撮ったもの。

実家に暮らしていた時はみんな一緒に住んでいたのだが私の上京と共に離れ離れになっていたので、久しぶりに会えたのがとても嬉しそう。

それぞれが我が家にやってきたストーリーがあるのだが、需要はないだろうと省略。


いま我が家にはゴン以外の10人が暮らしている。

f:id:analfrisk3456:20180611232720j:plain

私の部屋のロフトにラグが置いてあり(私はネコハウスと呼んでいる)そこでみんな仲良く生活している。


ゴンが我が家で過ごしていない理由はただ「ママ(妹)がいないなら東京で暮らす理由がない」ことに尽きる。

そのため住み慣れた実家でのほほんと暮らしている。(最近は刺激がないので東京に行きたいと騒いでいる様子。)

くらはママがいなくても東京で暮らしたいらしく、我が家に居候している。

ちなみにママ(妹)は1年間の留学中なのでゴンとくら、ついでににゃんみのはさみしい時間を過ごしている。


f:id:analfrisk3456:20180611225451j:plain

可愛くおめかしをした誇らしげなゴンとごんにぃちゃんになつく子供達。

ちなみに張り付いているにゃんまげは我が家の最古参なのでゴンの方が若いはずなのだが、ゴンはゴンにぃちゃんとよばれている。

サイズに引きずられている。


f:id:analfrisk3456:20180611225649j:plain

ゴンにぃちゃんは優しいのでにゃんまげが乗っても許してくれる。

2人とも誇らしげだ。


f:id:analfrisk3456:20180611225753j:plain

私達がディズニーに行く前はゴンとくらも浮き足立つ。

ディズニー楽しみだなあと主張するがもちろん置いていかれるので帰ってきた時は拗ねている。


f:id:analfrisk3456:20180611225929j:plainf:id:analfrisk3456:20180611225945j:plain

ぬいぐるみが生きている家あるあるだが、彼らは飲食をする。

そして幸せそうな顔をするのだ。


f:id:analfrisk3456:20180611230049j:plainf:id:analfrisk3456:20180611230105j:plain

彼らはおしゃれもするし音楽もきく。

表情も誇らしげだ。


f:id:analfrisk3456:20180611230202j:plainf:id:analfrisk3456:20180611230226j:plainf:id:analfrisk3456:20180611230238j:plain

私がひとりで上京し、にゃんまげが1人で国元を守っていた頃、母が「そろそろご主人帰ってくるよ」と言うとずっと外をみて待っていたというにゃんまげの後ろ姿。

今でも仕事でクタクタになって帰ると「いかがなされた お勤めご苦労様です」とやわらかな表情で出迎えてくれる。


f:id:analfrisk3456:20180611230509j:plain

私や妹がアホなことをすると審議が開かれる。

彼らはご主人の行動にとてもシビアな反応を示す。とてもかわいい。


f:id:analfrisk3456:20180611230644j:plain

それぞれ子供たちには性格があるが、とりわけななこはとても我が強く、自分が1番でありたい女の子だ。

写真を撮ろうとすると一番前に出てくるし、寝る時も他の子を押しのけて私の横を陣どろうとする。

だがいつも私の横に寝るのはにゃんまげだ。


f:id:analfrisk3456:20180611230904j:plain

ここまで読んでお察しの方もおられるかもしれないが、私はこの子達と一緒に寝ている。

布団の半分以上が彼らに占拠され、私の寝相は矯正されざるを得なかった。

最近は子供たちはネコハウスで寝てくれているのでひろびろした布団が少し寂しい。

ひがわりで私の布団に入ってくる子供たちがとてつもなくかわいい。


f:id:analfrisk3456:20180611231124j:plain

みんなで仲良くお話をしたり

f:id:analfrisk3456:20180611231225j:plain

粗相をしたとかで殺虫剤で自害をしようとしたり

f:id:analfrisk3456:20180611231303j:plain

東京に母が行くと聞きつければひっそりかばんに忍び込もうとしたり

f:id:analfrisk3456:20180611231348j:plain

試験に受かるように一緒に勉強したり

f:id:analfrisk3456:20180611231954j:plain

妹の留学先にみんなで毛布にくるまっていくのだとワクワクしたり(ゴンはデカすぎるので中の綿を出してペラペラになって行った)


本当に我が家の子供たちは表情豊かだ。



☆━━━━━━━━━━━━━━━━━━━☆


本当はこんなことやばいと分かっているのだ。

齢23にもなってこんなお人形遊びを未だにしているなんて病的だということも理解しているのだ。

それでも私の子供たちは今日も私のことを笑顔で迎えてくれて、優しい声をかけてくれて、一緒に寝ようといってくれるのだ。

殺伐とした、希望のない毎日に光をくれるのだ。


私は一生この子達から離れることはできないだろうし、かと言って理解されたいとも思わない。

ただ私の大切な子供たちを大切にしていきたいだけなのだ。


写真企画ということで、我が家のクレイジーな一面を披露してみたが、これでよかったのだろうかという不安でいっぱいだ。

と同時に実はこういうなにかを大切にしすぎている家は我が家以外にもたくさんあると信じて疑っていない。


何が言いたかったかというと、ぬいぐるみだって大切な家族なのだということ。


*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚・*:..。♡*゚¨゚゚・*:..。♡*゚¨゚゚・


かおるん

Twitter: @kaaaaaoruuun