うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

うまくいえないひとたち。

366日目になった。

 

僕がまだうら若きバカだったころ(乙女に対応する言葉が男にはないのは不公平だ)に、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』を読んで、こんなことを書いていた。

 

ーーー

その糸は、もう二度とほどけないんじゃないかと思うほど、グチャグチャに絡まってしまうことがある。

ほどくために自分が何をすべきか考え、糸が絡まってしまった原因を考え、ほどけなくなってしまう前になぜ気付かなかったのかを考える。その過程で、自分の過ちを想定する。

過ちを償うことはできない。背負うことしかできない。過ちは過ちでしかない。

だが、それは「なぜ?」の答えになる。

この世界では「不明である」という状態が最も恐ろしい。不明だったことが明らかになって、それに納得すれば消化できるし、必要なら反省もできるし、そこまで行ったら忘れることさえできる。

その糸は、ほどけたら失われてしまうのかもしれない。「関係」という、その一本の糸は。

 ーーー

 

そこにいたことを大切にしたい。今だって、いないけどいるんだから、不思議な話だ。

またな。クソッタレ。

 

 

ふわっふわの毛布

 

私とは合わないけど尊敬してる

よく当たると評判の、「しいたけ占い」の乙女座へのアドバイスが更新されていました。


私はハイパー乙女座と呼ばれる乙女座で、現実主義者のくせに占いをわりと良く読みます。

統計学をまぁまぁ信用しているから。「おばぁちゃんの知恵袋」と同じくらい。

乙女座の人らをいっぱい見てきたおばぁちゃんの言うこと、ちょっと参考にしたい。



そうはいっても占いは占いなので、誰にでも当てはまるようなことを書いてある場合が多いわけですが、今回気になったのは"「私とは合わないけど尊敬してるよ」と相手に言うことが大事"だという話。

これって、乙女座に限らず対人関係では大事なんじゃないかなぁと思います。

(乙女座がどうしても他人に合わせたり巻き込まれたりしやすい性質だから、たまには切り離してもいいよという話だとは思いますけど)



"私とは合わない"って言われたら結構ショックだけど、その後に"尊敬してる"なんて言われたら、先ほどのショックを大きく上回って気分上々↑になりますよ。

こんなん、対人関係における魔法の言葉なんじゃないでしょうか……。



私個人は「尊敬する」という言葉は「降伏する」くらいに重い言葉という認識があったので、そんなにポンポン使いません。

でもこれからは少し苦手な人でも尊敬できる部分を探して、正直にそう言っていきたい。


今後私から「尊敬する」と言われた人、私とは合わないけど尊敬してるので許して〜〜!



会いたい人には

どんなに時間が無くても、どんなに疲れていてもその人1人くらいを気遣える余力が残っていたら会いたい人に会いに行きたい。

 

旧友でも好きな人でも知らない人でもネットの人でも沢山の会ってみたい人に出会って話して色んな考え方を知ってみたい。

 

今も変わらずそう思えるのはこの一年で出会ってくれた人と過ごした時間がとても、とても楽しかったから。

 

ありがとう。

 

人と出会うことに対して一歩踏み出してからもうすぐ一年。

 

また一年楽しく過ごしてやるぞ!

 

 

何をするにもまずは健康でなくてはね。

暑い日が続いておりますがこれを読む皆さまもよく食べよく眠りよく心を動かしご自愛下さいませ。

 

 

おやすみなさい。

よい夜を。

 

 

 

お恋

時効というものがあったなら

不思議な人だった。

ふとした時に陰がある気がした。

それが妙な色気だと思い始めたら、彼の事が気になるようになった。

 

そしていつの間にか、夢中になっていた。

 

すぐに気付いた。

彼の周りには沢山の女の人がいた。

電話もほとんど通じなかった。

「忙しい人」だった。それを信じていた。

 

私が彼に近寄ろうと一歩近づくと、彼は私から一歩遠のいた。

諦めて二歩下がると、彼は二歩詰め寄った。

付かず離れずの距離を完璧にコントロールされていた。

 

寂しがり屋の人だと気付くのはもっと先だった。

気付いた時には手遅れだった。

私をさらに加速させる材料にすらなった。

 

それなのに、終わった。

正しく表現するとしたら、始まってすらいなかったものが、消え去った。

彼の何も掴む事なく、何にも触れる事なく。

 

消え去ってから、私は彼にとってなんでもなかった事を思い知った。

 

その後、混乱が訪れた。

混乱は私を巻き込んだ。不思議と私は何も思わなかった。

けれど、関係なかったはずの信用していたものや信頼していたものが、一緒に泡になって消えた。

それについて激しい憤りはあったものの、私の選択ミスだと思う事にした。

 

もうどれくらい経ったかな。

それぞれ、決して私の目の届かない所で、幸せになってください。

ラーメンと、アイドルマスターと、人生を形成する3つのサムシングについて

「書く」ということは、僕が動物のようになってしまうことを回避するためには絶対に必要なことだと思っている。もちろん、呼吸をするかのように書き散らすとまではいかない。それが出来ないのだから、偉そうに「書く」ことについて語れるような立場でもないのだが。

ただ、ランダムにキーワードを募ってまで「書く」という作業に身を投じたくなるときがあるのだ。そしてその理由を説明していけば、きっとその過程で無作為な話題にも筆先が繋がっていくだろう。僕にとって「書く」というのは、びっくり箱のような、不思議で楽しいものだ。

 

ツイッターのネタになるかと思って大人になってから読み返した10代の頃のmixi日記で、僕はしきりに「書くというのは規定することだ」と綴っていた。

曖昧で形のない思念に、文字という記号で、目に見える輪郭を引いていく。 その営みの中で言葉になったものは、言葉になる可能性があったものの全てではない。だが、表現しきれなかったものは切り捨てられて、どこかに消えていってしまう。

 

たとえば「好きな食べ物を一つ挙げてください」というアンケートに「ラーメン」と記入したとしよう。この時点で、そのやり取りの中ではラーメンだけがスポットライトを浴び、カレーとかオムライスといったラーメンに引けを取らない他の好物たちは否応なく退場させられてしまう。

また「ラーメン」とだけ書けばあらゆるラーメンに対して好意を持っているということになるが、一方で僕は絶対に味噌ラーメンは食べない。とすれば、そこで「ラーメン」という回答をするのは相応しくないことになる。

とはいえ「味噌以外のラーメン」と書けば殊更に味噌の存在を強調してしまって「味噌ラーメンが嫌いだ」という表現だと受け取られかねない。

そんなわけで、僕はラーメンの種類をさらに限定して、鶏ガラ系の醤油ラーメンや魚介系の塩ラーメンに後ろ髪を引かれながら「横浜家系ラーメン」と書かなければならない。

このとき、その記入スペースには「薄焼き卵でチキンライスを包んだクラシックなオムライス」と書かれていた可能性も同等にあったはずだ。しかし、僕は「横浜家系ラーメン」を選択し、他の可能性を捨ててしまっている。

「書く」というのはそういうことだ。

 

僕は筋金入りの東京タラレバ息子だったから「あのときこういう風に言えていれば」とか「こう言ってたらもっとうまくいったかもしれない」なんて無意味なことをよく考えていた。結局のところ、自分が表現するときに持っている発想力のモノサシで届かない範囲の物事は、そのときの自分には取り扱いようがない。それは誰にとっても同じで、誰にもどうすることもできない。後からもっと長いモノサシを引っ張り出してきたところで仕方がないのだ。

僕たちはそのときに取り扱える範囲で表現を規定し、はみ出す部分は捨てるという選択をしなければならない。まだセンシティブだった10代の僕はその受け入れがたい事実と向き合うために、繰り返しそれを確認していたのだろう。

 

 選ぶ。決める。捨てる。

この3つの行為は、僕の人生のあらゆる局面に登場してきた。誰でもそうだと思う。与えられた自由の中で人間的に生きるためには必要不可欠なことだ。

それをしなければただそこに立ち尽くすばかりで、どこにも進んでいくことはできない。いつまでも保留していたら、そのままいたずらに生を消費して、生産性の無い存在になってしまう。それはいかにも動物的で、社会的生活とは言えない。考えただけでもだんだん苦しくなってくる。

 

選んで、決めて、捨てる。そして前に進む。

それはアイドルを育成するのとよく似ている。

…いや、今のところ似てないよ。似てないんだけどさ。この流れでアイマスぶちこむのは正直結構キツいって。だけどしょうがないじゃん。とりあえずぶちこんでみたらいいじゃん。ぶちこんでから考えればいいじゃん。

……それはアイドルを育成するのとよく似ている。輝く星に憧れてオーディションにやってくる原石たち。まさしく可能性の宝庫だ。しかし、全員がアイドルになれるわけではない。

河原の石ころは磨いても光らないとか、決してそういうことを言いたいのではない。宝石がどこにでも転がっているものだったら、それは河原の石ころと変わらなくなってしまうということだ。

 

いや、やっぱ無理だわ。「書く」こととアイドルの育成は似てない。全然似てないよ。アイドルを育てたかったら文章なんて書いてる場合じゃない。金を積め。金を積んで石を買うんだ。石を砕いて射幸心の虜になるのだ。それがアイドルの育成だ。射幸心の家畜となって動物化していくのだ。ブヒブヒ言うのだ。

 

えー、ゴホン。さて、僕にとって「書く」ということは「選んで、決めて、捨てる」という行為について考えるための手段で、それによって僕は自分の人生を形成し、目指すべき方角を照らしてきた。手探りで書いてみないと、今自分が何を考えているのか、何が大事で、何が大事ではないのか、僕にははっきりと分からないのだ。だから書く。きっとこれからも、そうしていく。

 

ふわっふわの毛布

ラ・ラ・ランド

ネタバレどんと来いさんいらっしゃいませ。こんばんは。

 

今日はふわっふわな毛布のお兄さんへ捧げる旬な映画のレビューをネタバレありでお届けします。

 

 

この映画をまだ観ていないひとに紹介するとしたら「舞台は夢を追いかける人々が集う街ロサンゼルス ハリウッド。それぞれの夢の実現を目指すミアとセバスチャンが出会い過ごす日々がロマンチックかつ心躍るオリジナルサウンドのもと往年の名作を彷彿とさせる極上ミュージカルで描かれる。」って感じでしょうか。

 

予告に使われていた楽曲も良かったけれど、終盤でミアが独唱するかつてはふたりで歌った歌も好きだな。あれも入っているならサントラを欲しいくらい!

 

冒頭やパーティーでのダンスシーンの衣装はハッキリとした発色で歌とダンスに加えてそのカラフルさが楽しい。

 

所々、これって確か......と思わせるオマージュに心掴まれ......。(気になる方はまずはカサブランカ雨に唄えばを観てみて下さい。)

 

はあー。ミュージカルシーン最高。

 

 

でもね、皆が喝采するのはその心躍る部分の後にやってくるリアルがあってこそだと。ふわ毛さんが言っていたのはこういうことだったんだって。

 

ラ・ラ・ランドって聞くからに楽しそうな響きだし米俗でハリウッドという意味があるなんて知らなかったわたしは、ふわ毛さんのブログを読むまでは歌って踊って楽しくて分かりやすくハッピーエンドな映画だと思っていたんですよ。

 

実際は、、、うぅ〜ン!そう終わるかー!っていう全く予期していなかった結末。

 

でもその驚きは落胆じゃなく、夢見る子どものわたしを差し置いて現実に足を浸した大人なわたしが好意の興奮を覚える種類のもので。THE ENDを見た瞬間拍手したくなったのを我慢するくらい笑

 

酸いも甘いも苦さまでも知った大人に見て欲しい。あのラストシーンで見つめ合うセブ(セバスチャン)とミアの表情、あなたはどう思う?って聞いてまわりたい。

 

あんなに譲らないと言っていた店の名前をミアが考えたものに変えて夢だった自分の店を構えたセブ。そのお店を今や映画で主演をはるハリウッド女優でセブではない男性の妻となり一児の母となったミアが見付けてくれた。

 

セブは嬉しさとまだミアを想う情けなさと今ミアの隣に居るのが自分ではない哀しさとミアの成功と幸せを祝う気持ちとが混ざったような何とも言えない表情。

ミアは、「お店の名前をわたしが考えたあの名前にしてくれたのね。あんなに変えないって言っていたのに。わたしはもうあなた無しで暮らしているのに。二人でいる未来はもうないのに。」という感じの気持ちとお互いの夢の実現を祝う気持ちとまだセブを想う気持ちはどこかにちゃんとあるけれどわたしはわたしの幸せを生きるわって気持ちが混ざったような表情。

 

そしてお互い未熟だったよね、でも楽しかったみたいな気持ちもあったのかな。

 

わたしにはそう映った。

 

 

大人になれば誰かを片隅で大切に想いながら別のそれ以上に大切な人や大切にしなければならない人と暮らしていくこともあるでしょう。

 

お互いに生涯忘れない存在であり続けるという二人の終わりであり今後。

 

夢を追う日々をともに過ごした二人が報われて結ばれてハッピーエンドもいいけれど、これは現実を生きるわたしたちにはとてもリアルなハッピーエンドだったんじゃないかな。

 

観てよかった。

 

デートで観るのにお勧め?って聞かれたらうなっちゃうけれど、わたしはラ・ラ・ランドを観てよかったねって言い合えるひとと一緒にいたいからあえて観に行ってみたいな笑

 

好きな映画が1本増えました。 

 

 

それではこの辺で。 

お恋

『ラ・ラ・ランド』 〜 現実はいつも厳しい

2012年に『レ・ミゼラブル』でアン・ハサウェイが「I Dreamed a Dream」を歌い上げ、助演女優賞でオスカーを獲得してから5年という月日が流れた2017年、ロサンゼルスの街で暮らすワナビーたちが、今にも破れてしまいそうな夢を見ながら現実と向かい合うミュージカル映画『ラ・ラ・ランド』が公開された。

 

恋人が予告を観るたびに観たい観たいと繰り返していて、なんだか逆に冷めていたというか、そこまでの熱量もなく付いていった映画館で、僕はスクリーンに映し出された物語に釘付けになった。上映終了後、恋人の数倍の熱量で感動を語ってしまった。早口で喋ることオタクの如しである。

 

核心に迫る内容を書きたい。以下ネタバレである。まぁ観に行けや。損はしないよ。すごくよくできてる。

 

 

※※※ネタバレします※※※

 

 

冒頭。渋滞中の高速道路で、大人数のド派手なダンス。歌われるのは「明日は新しい日で、いつか夢は叶う」という内容の明るいナンバー。現実にありえない光景。高速で人々が次々に車から降りてきて、歌って踊る。まさしく夢の空間。

それはそうだ。現実には、夢を追う人の列は大渋滞。明日まで待とうが車は全然動きそうにない。「夢は叶う」なんて言葉は大きな嘘。自分をギリギリ騙すための祈りの言葉だ。

 

ヒロインのミア(エマ・ストーン)は女優志望。オーディションを受けたところで、ロクに取り合ってもらえないような毎日。

主人公のセバスチャン(ライアン・ゴズリング)はピアニスト。時代遅れになりつつあるジャズにこだわるが、演奏したくてもさせてもらえる環境すらなくなっていき、好きな曲を演奏できる自分のジャズバーを出店することが夢だ。

 

ふたりは夢をみる。しかし現実は非情だ。打ちひしがれる。自己実現の機会を求めてもNOを突き付けられる毎日。それでも夢をみる。夢を追えば追うほど、現実を見るのはつらくなる。夢を捨てたら夢を追った月日は無意味になるのだから。

出会ったふたりは、夢を追う相手に、夢を追う自分の姿を重ねた。すぐに惹かれ合い、支え合う関係になる。

 

ミュージカルナンバーがかかるのはラブリーでスイートな夢や恋の世界に没入していく瞬間か、諦められない夢や輝かしい未来を語るとき。それは全編を通して徹底されていた。そして曲が終わると、必ず厳しい現実が突き付けられる。オープニングからエンディングまでずっとだ。楽しくて華やかな歌と踊りで、映像と音声のテンションが上がれば上がるほど、現実に立ち戻ったときのみじめさが際立つ。

 

要するに「おとぎの国」を意味するタイトルが冠されたこの『ラ・ラ・ランド』という作品で描かれているのは、決して夢と希望と恋のめくるめく世界などではない。キラキラした夢で人を魅了するステージには、必ず舞台裏の人間臭い世界があるということだ。僕たちが懸命に生きる現実は、全然都合よく割り切れないということなのだ。

 

流石にここまで読んで、まだ観てなくてこれから観に行きたいという人はいないと思うから言ってしまうけど、はっきり言ってステレオタイプなハッピーエンドとは程遠いじゃないか。

互いに夢の実現を誓い合って、永遠の愛を語って、それで離れ離れになったふたりの間に5年という月日が流れ、互いに夢を叶えたら。物語は普通どのように閉じられるものなのか。

当然、再会してキスして結婚してハッピーエンド。この流れではないのか。それがフィクションにおける自然な理路なのではないか。映画館は非日常を提供するんだから、そこではカタルシスが差し出されるべきなんだ、観客はお約束を求めているんだ、という。

 

『ラ・ラ・ランド』は、そんなもんは大嘘だ全部クソ喰らえとハッキリ言ってしまった。

セバスチャンは、街に貼られたミアの大きなポスターを横目に見ながら、念願のジャズバーにミアが提案した名前をつけ、いつかミアが来る日を待ち望んでいる。

しかし大女優になったミアは、セバスチャンではない、金を持ってそうな他の男と結婚して、あろうことか子供までいるのだ。

そうだ。そうなんだ。これが現実だ。スーパースターの女優様が、修行時代に付き合ってたピアニストと一途に結ばれるなんてあり得ないんだ。だってそうだろ。なんでわざわざ苦労した時代を噛み締めなきゃいけないんだ。華やかな世界を目指したんだから華やかな相手と華やかな人生を送るんだよ。

ラストシーン、ピアノの前に座るセブに微笑みかけるミア。なんとも言えない表情で返すセブ。お互い夢叶ってよかったわね、ありがとう、おめでとうみたいな表情のミア。なんとも言えない表情のセブ。なんとも言えない。

 

『ラ・ラ・ランド』は最高に痛快な作品だった。人間は矛盾するし、嘘をつくし、嘘でもついて自分を騙しているくらいじゃないと夢なんか見ていられないのだ。現実はいつも厳しいのだ。

細かいところまでこだわられている作品なので、まだまだ言いたいことはあるけれど、キリがないので、今日はここまで。もう1回観に行こうかな。