うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

特にこれといって面白いわけでもない話

どうせここから電車に1時間揺られっぱなしなので、久し振りに書くことにした。単なる自分の脳内の不要ログの吐き出しである。

 

わたしとその人が最初に知り合ったのはいつだったのか覚えていないし、どうしてそんなに仲良くなったのかも曖昧である。ただ、SNSだとかインターネットだとかの世界の中で出会ったことだけは確かである。

わたしは当時とても仕事で荒れていた。今もそりゃあ荒れることはあるけれど、それよりも更に疲弊していて、恐らくその手の医者に行けば病名が付いて休職になったと思う。

そんな中、その人とのLINEのトークや通話でだいぶ助けられた。別に仕事の相談をしたわけではない。他愛もない話。

その人が昔バイトしていたというファーストフード店での商品の作り方とか教えてもらったりした。今に至るまで全く役に立たない情報である。

 

しばらくそんな日常を続けていた中で、「仲良く話す」だけからもう少し先に進みたくなってしまった 。

その人に会いたくなった。

 

しかし、  その矢先にそんなことを言っていられなくなってしまった。

その人は手術が必要な病気になっていて、入院をするという。

しばらくは声も出しにくくなるし、多分連絡は取れそうもないかな、と。

わたしたちの会話はいつも夜中だったから、当然連絡などできないし、私も弱っているところに邪魔するようなことはしたくない。

 

そうやって、わたしたちの連絡は途絶えた。  

 

どれくらいで復帰できるかもわからなかったし、わたしから連絡はしなかった。その人だってこんな時に他人に構う余裕など無いだろう。

その後は思い出してLINEを開いては、迷惑かな、と、そのまま閉じるだけの日々を送っていた。

そのうちに、その人に連絡をする勇気は無くなってしまった。

もう自分のことなど憶えていないだろうし、そもそもLINEを送ったところで相手してもらえないだろう、と。

そのまま、なんと形容すればいいかわからない少しだけ甘いような、苦いような記憶として大切に保存しておこう、と。

 

しかし、久し振りに開催された飲み会でお酒を飲んでしまった帰り、気が大きくなってしまい一言だけ送ってしまった。

 

「会いたいです」

 

酔いがさめてから青ざめ、慌てて送信取消をしようとしたが既読が付いている。

まぁ、既読無視だろう。と、そう思った瞬間。

 

「全く、いつもそうやって突然だね」

 

そして、今日、わたしは何年越しかの思いのまま、その人に会いに行く。

今、その電車の中である。

ちょうど次の駅で降りる。

だからこれでおしまい。

ね、特にこれと言って面白くもなかったでしょう。ごめんね。

愛と赤い蛇と閾値の話

クソ長いから引き返せ。




先日、二度目のワクチン注射を終えた。
副反応というのはわりあい覚悟していたものの少しばかりの倦怠感や発熱程度のもので、
特に体調不良と言う事もなくやり過ごせた。

と、自分では思っていたのだが、どうやら体温も高く傍目に見ると顔は真っ赤だったとのこと。妻に大いに心配をかけてしまった

怒りや悲しみや喜びみたいな感情を、ちょっとした閾値を超えてこないと自覚できずに溜めてしまう性質については自覚していた。

閾値というのは反応や動作、効果などが現れる最小ラインの数値の事で、つまり小さな怒りや悲しみはそのラインを超えずに表面に現れないしだいたい自覚しない。

体調の方についてもそうなんだなあと我ながら関心したのだけれど、この時たぶん過去一度感情が閾値を超えた時の事と、
その性質を持ってしまった(たぶん)時の事を思い出した。

ネガティブな不幸自慢みたいなのがたぶんクソ長くなってしまうかもしれないけれどまあ夜中の独り言。
書きなぐるだけ殴らせてくれ




私の机の正面の壁には、ビーズで編まれた赤い蛇の刺繍が額に入れて掛けてある。
愛とは何か、難しいややこしい話だけれど
私にとってはこの赤い蛇のビーズ刺繍が、形ある愛のように思う。


もう6年ほど前か、私は茜さんと名付けた赤い蛇を飼っていた。
今も蛇とヤモリを一匹ずつ飼育しているが、茜さんは私が初めて飼った蛇だった。
顔に対してまだ大きな赤い目が可愛らしく、そしてそれなりに危ういベビーの頃から一緒だった事もあり
今でも赤いコーンスネークは思い入れのある生き物だ。

やがて私の至らなさか、茜さんは寄生虫にやられ体調を崩してしまい、結局はまだ大人にもならないうちに死なせてしまった。
冬の事だったが、腹側に局所的に温めるヒーターを敷いていた。
私が家に帰って気づいた時には温められた腹がもう黒ずんでしまっていた。

哀しむだとかそういった事より先に、これ以上腐敗を進行させたくないと、その為の処理をした。
処理とは、腹がうすら黒くなり少し腐臭を発していた茜さんをタッパーに入れ、弔う時まで冷凍庫で凍らせる事だ。
本当はまだ生きているのでは、と思いたかったがもう無理だ。持ち上げた時に感じる感触には、そこに命が既にない事が確かに感じられた。

冷凍庫のドアをしっかりと、閉めた。


それから茜さんの生きていたケージを掃除し熱殺菌し、
そしてその時付き合っていたひとに、今の妻なのだが、
茜さんが死んでしまった事を伝えた。

彼女も茜さんの事を可愛がってくれていたので、それは伝えなきゃなと、確か簡素な感じで連絡したように思う。
彼女は悲しんでくれて、そして私を心配し、今からでも少し離れた私の家に来てくれようとした。

既にすべき処置が全てすんだ事、茜さんはもう冷凍庫の中で眠っており、しばらく(私の感情として)タッパを空けられない事を伝え
気持ちはありがたいけどその為不要だと、私の気持ちも不思議と落ち着いてはいるので大丈夫だと。ただひどく疲れたので今日はもう寝ると伝え横になった。

こういう時に泣けもしなければ悲しくもならないのかと、我ながら嫌になりながら眠った。





話が途切れてややこしくなるが
たぶんコレで感情の閾値みたいなのができてしまったぞというあたりの事をはさみたい。
何かへの恨み節のような不幸自慢のような事で、まあ申し訳ない。
酒の勢いということにして欲しい。クソ長いぞ多分。まだこの辺の感情は黒いからな。


私が17から18歳へかわる高校3年生の5月、両親が離婚した。

母は仕事と家庭を両方こなすけど一応共働きで、それでも夕食など作って出すと
親父は私や兄に「あんま旨うないな。」とヘラヘラ言っていた。
母を下げる事で、子から見た自分を上げようと言うのがわかり易すぎるほど分かった。
今思えば父は古いタイプの薩摩隼人
戦後少しして鹿児島の南端で生まれ育った父としてはもしかしたらアレでも女卑を抑えていたのかもしれないが、幼い私でもあの振る舞いが嫌いだった。

母としては日常的なあの手の扱いを心情として許せるはずも無く、まだ幼い私の兄にそれとなく「お父さんがいじめるんよ。」と言ってみた。
すると兄は幼いながら何か不穏なものを察して泣き出したらしく、母は「この子達が成人するまで耐えよう。」と決めたそうだ。

決めたものの一応同じ事を、もっと幼い私に話してみると、どこで覚えたのか「そうなのォ〜〜?リ・コ・ン。したらァ〜?」とクネクネし始めたので
「上の子が成人するまで耐えよう。」に変わったらしい。ムカつくガキである。

そんなこんなで高校3年生、17~8歳の5月に両親が離婚した。
オカンはよく耐えた。とまるで他人事のように感じていた私にはノーダメージだ。

その時の私の進路としては、ギタークラフトマンというギター制作の人間を育てるスクールに行くつもりだった。
今思えばその道を選ばなくてよかった。私はギター、全然上手くないの。

ともあれ新聞配達しながらであれば衣食住と、返さなくていい学費まで面倒を見てくれる新聞奨学制度というのがあるようで
チャランポランな道ながらそれをやるならスジは通るやろと思っていた。


離婚が決まってからも我々と父は同じ部屋で暮らしていた。
どちらがかは知らんけど、新しく住む所が決まるまでという事だ。この状態はなかなか長く続き、主に親父は肩身狭かったんじゃないかと思う。

夜、寝ていると時折両親の話す声が聞こえる。
コシの強いタイプなはずのあの母が泣いている。
親父は声を荒らげている。
抑えてはいるようだけど、狭い家の隣室で寝てる私がそれで起きないと思ってたのか。

「そんな道楽に金が出せるか。」
と、大体そんな所だった。
奨学制度の事はまだ私も資料を集めていた所だったので何も話していなかった。

バッと出ていってその話をすればよかったが、母が泣きながら小さい声で反論してる場面に
なぜか出ていけなかった。今まで聞いたことのない母の弱々しい声が辛く、惨めに狸寝入りをしたまま、私も泣きながら眠ってしまった。
ここから少しずつ、溜め込む下地ができたように思う。


親父の言うのは要するに大学行くなら学費は出すが道楽みたいな楽器作りなんかには金は出せんという事だ。
あの狸寝入りあたりから少しおかしくなっていた私は、それなら出して貰おうやんけと言うことで進路を変えた。
当て擦りのやけっぱちだ。最も道楽のような学部で大学を志望した。

なんせそれまでは道楽専門学校志望で、学校勉強なんてまるでしていない。赤点前後を常に浮遊していた私はそれからもうずっと英単語カードと赤本とノートに張り付いていた。


母はもともと大学ルートへ私らを行かせようと中学生辺りまでは育てていた為、私のにわかな進路変更を顔には出さないが喜んでいたように思う。

その頃、まだ同居を続けていた父とは話す機会は激減していたので詳細は知らないが、父の家にいる時間が随分長くなっていた。

兄は、母が言うには「本当は寂しくてそうしていた。」との事だが、何かにつけて父と口論していた。これはもうほぼ毎日で、母が帰宅するまで続くしたまに私へもふっかけてきていた。

あの時生まれて初めてヘッドフォンというものを買った。
同じ部屋で中身のない言い争いをする父と兄。
それを無視しヘッドフォンで音楽を聴きながら、ひたすら英単語を覚える私。
もし手も出るようなら両方どつき回してやる。どんどん歪んだ。

洋楽に大ハマリした。
邦楽だと歌詞に気を取られるが英詞だとノートに集中できる。
敬愛するスティービー・ワンダー
それにエリック・クラプトンストーンズマーヴィン・ゲイプラターズ
もはや兄や父がいなくてもひたすら聴きながら英単語を覚えていた。
スティービー・ワンダーは本当に最高で、とにかく昼飯を安く抑えては中古で買い漁った。全部聴いてくれ。


時々隣室の母の泣く声を聴き、父と兄の口論を無視して英単語を覚え、もう学校で話す人もほとんどいなくなり、駐輪場でサッサとパンを食って学校に持ち込んでたギターを昼休みだけ弾いた。
春も夏も過ぎ、そろそろ秋が終わりそうだった。

延期に延期を重ねたスティービー・ワンダーの新譜、time to loveがようやく発売された。
私の友は洋楽と英単語とたまに弾くギターだけだったので、
すぐには買いに行けなかったがなるべく早く買った。

あの辺りの記憶は随分朧気になってしまってるが、買って帰ってすぐ再生したいと楽しみにした丁度その日だったと思う。


親父が倒れて病院に運ばれたと連絡があった。


父方の祖父もそれで死んでいる。くも膜下出血だった。
医者に状態を説明され、暗くなった病院の廊下か待合室のような所で手術が終わるのを待った。

机に突っ伏していた親父を発見してくれたという同僚の方3名ほどに、当たり障りのない世間話をされ、ぼんやりと言葉を返した。
なんとかひねり出してくれた言葉だったはずだが全部覚えていない。

明け方、手術は一応の成功と言う事だったが、重い障害が残るであろう事は伝えられた。
救急車で運ばれる時に、親父は一度目を覚ましたらしい。
目を覚まし、混乱して暴れ、次の脳出血を引き起こしてまた昏倒した。
脳の言語野という所がやられ、今までのようには話せないでしょう。と。
一度目の出血の方でも判断能力や、半身の麻痺に繋がったという事だ。

それらを伝え、何を思ったか医師は
「腫れる脳を圧迫しない為に頭蓋骨の一部を外したままにしてあります。触ると脳がぶにぶにしてますよ。ホラ触りますか?」と言った。バカ者。
本来なら怒るべき所であろうか。既にちょっとずつ歪んでた上に憔悴していた私は言われるがまま触っていた。
ブニブニしていたと思う。
丸坊主になって目の落ちくぼんだように見える親父は、なんというかまっすぐ見られなかった。


母は学校へは伝えてたかもしれないが、両親が離婚した時私はその事を教師やクラスに何も言わなかった。
皆も受験勉強大変やしな。変に気ぃ使わせられんな。と。
誰も私のとこの離婚を知るクラスメイトはいなかったはずだ。

しかしさすがに親父の事は、その日私が休んでいる間に知らされたようで、翌日いわゆる陰キャ層の二人くらいがおずおずと励ましてくれた。
ああいう人間こそ勇敢だ。
随分前からあまり人と話さずノートに小っっちゃい青い文字でひたすらみちみち英単語を書き込んでいる者である。話しかけやすいはずがない。
そうでなくとももとより誰も、おかしくなってる私なんかに気は使わないのだ。
いや話しかけない事が最も気を遣っている事なのかもしれないが。


親父は勿論集中治療室にいた。
父母は離婚したものの同居している。そして親父の親族は鹿児島だ。

日々のタオルの交換や色んな事を、ほとんど母が負担した。
私は現実を逃避してしまった。
母の「アンタは受験勉強で忙しいから。」の言葉に簡単に甘えたのだ。
兄はどうしてたか知らんが、まあ多少はやっていたらしい。
しかしそれまで彼が親父に向けていた矛先は残る二人に向いた。

どうぶつ占いみたいなのにハマっちゃうとこやらは割とマジでアカンアカンやと思うけど
私は母を本当に尊敬している。本当に尊敬してるけど今も用事がないと全ッッッ然連絡はとらない。
しかし本当に尊敬している。
あの人が甲斐甲斐しく着替えやタオルを交換しに行ってる相手は、今や冷え切った夫ですらない男だ。
「あんたのお父さん。」と迂遠な言い方で表しながらも、その仕事を少なくとも私には振らなかった。

情けない事に、私はそれに甘えていた。


甘えていたが、学校帰りに親父のもとへ寄る日も勿論あった。
電車で英単語カードをめくる。
お受験勉強、他の奴らは3年やってるが私はこの5月からだ。時間がなさすぎる。


親父はそれなりにヘヴィに煙草を吸う男だった。
なんでだったか意図的に、医療として目を覚ますのを遅らせているという状態だったのだが、ヘビースモーカーというのは痰の出る量が多い。掃除機の様なものを頻繁に喉に当て吸い出さないと痰で窒息死してしまう事もよくあるという。

私が訪れた時、丁度看護婦さんが親父の喉にホースを当てていた。

親父がまだ元気な頃は、もうあまり親父の事を視界に入れる事も少なくなっていた。
ただ、記憶の中の親父は幼い頃から力強く、張り手でも食らわされたら首ごと飛んでいった気がした。
鹿児島の海で親父が釣り竿を横にふると、重しが水平線の向こうまで飛んだように思った。
親父の事は幼い頃から嫌いだったが、しかしその力強さはまわりに自慢して周りたいほど誇らしかった。
平均的な成人男性と比べるとどうだったか分からないが。
力の強さはそれだけで男として大切な要素の大きな部分を持つと思う。
高校を超えるあたりからはどうやっても父も兄も簡単に抑え込める差がありありとあることは、私も認めたくなくて認めていない事だった。

その父親の腕。まるで老人のように細く、浅黒く焼けていた。
いつの間にこんな容貌になってしまっていたのか。
また、親父の事をうまく見れなかった。

痰を吸うため喉奥をホースで吸われる事は、意識がなくても苦しいらしい。
親父は目を覚まさないまま「ごっ……ごっ……!ごっ……。」と声をあげ、目に涙を滲ませた。

カリカリの老人のような見た目の親父が、苦しそうな声を上げながら、涙を滲ませ
意識は無いはずなのに、私の方を見た。錯覚だと思うが私をギョロと見た。

無理だ。ごめん。許してくれ。
何を許してほしいのかわからんが、置くものを置いてすぐに病院を出た。
帰りの電車の中で英単語カードをめくりながら、親父のカリカリに細くなった腕と、助けを求めるように涙ぐんで私を見るあの目を思い出し、ずっと「もう嫌だもう嫌だもう嫌だ。」と、口に出ていたかもしれないが頭の中で呟いていた。



何があっても時間は過ぎる。
兄は時々私に口論を吹っかけ、母の家事にケチをつける。
母はまだ家事までなんとかこなしていた。本当にすまない。

兄の論に中身は無く、優位を認めさせたいだけで、そうなければ手が出る。
母には流石にそれはしないので、私にふっかけられても、殺してやろうかと思いながらも反撃はしなかった。
たぶんずっと武力としては強い私が反撃すると、彼が優位で終わるとこって、なあ。
一緒に暮らしてない今なら気楽にどつき回せるので来てほしい。ブンブン回すぞー。


そのうち親父は二度目の脳出血を起こし、我々はどんどん憔悴していった。今でも私は電話をとるのが少し苦手なんだけど、兄もそうらしい。

母の負担は今思う私の想像よりずっと重かったはずだ。本当に自分が情けないが今そんなん思うのは酔いですね。どうしようもねえ。

そうして兄のつける家事のケチに、ある日母は限界を迎えた。

とは言っても一言声を荒らげただけだった。
「アンタらは何で私に迷惑ばかりかけるの!」と言ってから、それだけで母は我に帰り「シャワー浴びてくる。」とその場を後にした。
兄もバツが悪くなって、彼が占領していた一人部屋へ退散した。


私はもう、ぐしゃぐしゃだ。
アンタら。アンタら。
アンタらだったんだ。そうだよな。俺はなんもしてねえもんな。

本当に情けないやら悲しいやら腹立たしいやら、どういう感情なのかわからなくなった。

あの兄は、きっとこの先ずっと私の害悪であり続ける。
人生のどれ位がコレでなくなるか分からないが、いなくなった方がいいよな。
これはもうしかたない。私だって人並みに幸せに生きたいもの。

台所で包丁を掴み、兄のいる部屋のドア前まで立った。

そして、まあビビっただけかもしれない。
しかしその時はそこで母の事を考えてしまったと思う。

この後に及んで兄と私とを失ったら母はどうなる。
しばらく考えて、ううう!と唸るだけで何もできないまま包丁を片付け、小さい文字が病的なまでにミチミチになってるノートに向かい直して、めちゃくちゃにページを破り丸めながら泣いた。
くしゃくしゃになってほとんど紙の無くなったノートに「母さんごめん」とだけ書いて、母が戻ってくる前に布団へ向かった。
本当に情けない、惨めな負け犬だ。
眠りにつくまでの間、涙が止まらなかった。

翌朝、ノートには「私もごめんなさい。」と書いてあった。
あの時はちゃんとわからなった。多分本当に俺は辛かったんだ。



数日後の指定校推薦試験?だっけ?はもちろん落ちたが、
その後親父はちゃんと目を覚まし、順調にリハビリを重ね少し話せるようになった。
やがて親父の親類が鹿児島へひきとっていった。

何年もして大学も出て私は3年だけ自衛官になり、艦が偶然鹿児島へ寄った頃、分隊長の強い言葉に勧められて私は本当に久しぶりに親父に会った。
5年は経っていたか、リハビリもうまくいっていて、
親父が普通に話せる頃にはした事もなかった、親父のこれまでの人生や母との恋の話を沢山した。普通に話せる我々なら2分で済むような話に親父と私は30分はかかるが、それでもあの時が一番親父と対話したと思う。
親父の話す母との馴れ初めの話では自分を相当美化して話していて、それを話す親父はこれまでに見たことが無い程嬉しそうだった。
鹿児島に実家もあるのにすぐ近くの旅館みたいなのを、妹さんに話して取ってもらっていたらしい。
私も、多分親父も感じていたと思うし実際そうなった。
これが人生最後の、私と親父の過ごす時間だった。
男だ。十分だろう。


話は逸れたが親父が鹿児島へ帰った事で、母と兄と私の生活に色が戻ったように思う。
良くわからない黒で塗りつぶされた世界の中に居るように、ずっと感じていた。
それまでは死もそう遠くない友達だった。彼が望むならいつでも私の手を取れたはずだ。




母がいかった日、私の感情も初めて閾値を超えた。
それまで負の感情を間延びさせながら、超えない限り決壊はしないラインが引かれていたように思う。
歪みながらも壊れないように、体がそう作ってくれたのだと。

ついでに、大学は受かったし高校卒業までに人と話すことも増えて失恋もした。ギターは盗まれた。殺す。
あのとき生まれていた歪みは大学で本当にいい友達ができて、それだけで割と解消された気がするけどどうだろうな。
偏屈なのは変わりねえな。
学費は親父がアレになったので全部奨学金だよクソ。無償化しろ。


私は不注意も多く人の気持も分からん事が多い。おまけに運も悪いで随分嫌な目にあってきた。
自衛隊に3年いたが手を出す以外は結構色々やる感じのゴリゴリのパワハラも受けた。

そのどれも全部あの時に比べれば全然マシ。チョロ過ぎ。と思うラインがある。
ハラスメント軍役はカケラも暴発せずにやりすごせた。まああの3年で不安定なラインが確固たるものになったとはおもうが
多分そのラインは結構高いところにある。

高いところにある為、そこにある感情に気づかない事があるのだとおもう。





話は戻って茜さんがいなくなってしまった事も、気づくべき感情だった。
ただひどい疲れだけを感じて眠った。

何かに触れられ目を覚ますと、眠る前に連絡を入れた彼女がいた。
合鍵は持っているので、それはまあ入れるハズだが、しかし来ることはないよと伝えていた。

それでも来てくれていた。
ベッドの上で体を起こし、何となくアレコレ私も理解して「ありがとう。でも落ち着いているし大丈夫だよ。」みたいな事を言ったと思う。
彼女は私を抱きしめて「悲しかったね。」と言った。

そう言われると、本当はそうだ。
悲しかったような気がして、閾値が多分どんどん下がっていった。
そうしてあの18歳の時以来、初めて感情が閾値を超えた。

彼女に何と話したか覚えていないが、泣いた。
悲しかったのだ。茜さんを死なせてしまった。
黒くなった茜さんを冷凍庫に入れてしまった。それはちゃんと悲しかった。
悲しかった事に安心すらした。
私が何か言うとうんうんと頷いてくれた。
茜さんがいかに美しい蛇であったか話すと、そうだねと言ってくれた。
涙と一緒に出た鼻水も彼女の整った服を汚してしまったが、気にも留めないでいてくれた。



母の所にもそれは確かにあったはずだが、気づいたことも無かった。
愛というものは何か。
これだ。今、私を包んでくれたものが愛だ。
私の一人よがりかもしれないが、
きづいたのはその時は26?7年?生まれて初めてだ。愛とはこれだと思えるものを知った。


こういった事はあまりしないはずだけれど、その日はそれまで撮っていた茜さんの写真を彼女と1つずつ見返して、
この時はこうだあの時はああだと子供のように話した。
彼女も翌日仕事があるはずだが、ずっと聞いてくれた。

あのまま、疲れて眠るだけなら、閾値だけ超えず積み重なる黒い感情が貯まっていたはずだ。



少しして、彼女は茜さんの写真を送って、と言った。
茜さんを可愛がってくれてたのだなあと嬉しく思い、写りのいいものを送信した。


彼女がその写真を見て、茜さんの生きていた頃の美しさを刺したビーズ刺繍を私にくれた。
本当によく出来ていて、彼女がひと刺しずつ悩んだと言っていたのが私にすらよくわかる。

私はがさつなもので、今も汚い机にかけてはいるが
あの時、贈られたビーズ刺繍を見て、茜さんの死んでしまった夜と同じ暖かさに包まれた気がした。
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この時感じた大いなる感謝と敬意はこの先何がどうなっても持ち続けると思う。

この先がと言ってしまうのが私が人に敬遠される所だろうがコレはどうもならん。
しかしこの先はどうなるかは分からんのだ。

わからんにしてもこの時の感謝と敬意。そして私が愛だと思った、少なくとも私の主観だけは変えようがない。
形があって変わらないもの。
それが、形としてあるのだよ。
朝やんけ途中な気がするけど寝るわ。おやすみ。

今年の誕生日プレゼントはもう決めてあるんだ

 

例年6月は知り合いの誕生日が集中しているため、必然的に5月からプレゼントの計画を練り始めるのが常となっている。

今年は3人にそれぞれ異なるプレゼントをあげたけど、内1人だけ微妙な反応をされたので、一瞬「誕生日プレゼントって買いなおすとかできるのかな」と焦った。

 

 

とまあ、それはそれとして。

他人のプレゼントを選んでいる時ほど、自分が真に欲しいものをいつもより見つけやすかったりして、途中から目的を見失いかけるくらいAmazon楽天の検索履歴が迷子になる。

 

そういや今年の自分への誕生日プレゼント何にしようかな、いやいつも自分を甘やかしてアクセサリーとか買ってるしな、とかだんだん誰かへ贈るプレゼントのことなんて頭から離れだした瞬間、あ、と声が出た。

 

 

「指環にすっか」

 

 

ちなみに今年、私のTLでは知り合いが何人か婚約したり、婚約したもの同士で同棲を始めたりと微笑ましくめでたいニュースがちらほら見かけられたが、私はそんなフラグは一ミリも立っていなかった。たまにさ、ああいうの見ると超焦るわけ。歳の近い人たちが分かりやすい幸せのレールに乗っていくのを見ると、祝福する気持ちは当然のように存在しているけど、自分がそうなるかといったら甚だ疑問しかなくて、「そのレールに乗りたいかどうかすらよくわからない」自分についてひどく不安になる。今訳あって好きな人と同居しているけど、結婚の話は以前持ち出したら曖昧な回答がきたので、それ以上求めることがよくないのかもしれないしなと反省して、とりあえず現状維持でこんな歳になっちゃった。オトコとかオンナとか関係ないってずっと思ってるけど、例えばわたしが子どもが欲しいとして、出産を基軸に人生のスケジュール感を考えたら結婚なんてするタイミングは自然と限られてくるのでは?と思う方が当たり前のように思うけど、『今は結婚したくない』『けど別れたくない』というオトコって、じゃあどういう幸福の姿形をイメージしてそう言っているのか、そしてそこに暗にオンナのライフスケジュールとしての結婚や出産のイベントごとは考慮されてないってことよね?とつい問い質したくなってしまう。実際には全然そんなことしない、問い質すなんてことはしないよ。オトコとかオンナとかはマジで実際どうでもよくて、お互いがお互いの幸福も苦しみも尊重できたらいいなと思ってるから、ある意味では別にわたしのことなんて考えなくていいなとも思う。恋の一つの通過点として結婚があってもいいけど、別にマストなイベントでもなんでもない。かといって結婚しているすべての知り合いを否定したいわけでもない。わかっている、そんな当たり前のことは。

 

 

でも、好きなひとと結婚してみたいというのは、ある時からのささやかな夢で、それがもう多分叶いっこないとうっすら分かり始めたのだ。空の雲行きがあやしくて、明日は曇りっぽいなって想像するように。何が食べたいかわからないままドラッグストアに行ってとにかく食べるものを買うんだけど、レジに並ぼうとしてる時点でこれは心の底から食べたいものじゃないんだよなと気づくのを恐れるように。

 

 

正直、結婚や婚約とかに夢を見すぎてるなとも思うんだけど、人間は自分ひとりで自分を幸せにすることができる人とそうでない人がいて、わたしは明らかに後者だったから。誰かといて幸福でいる気持ちや、誰かが喜ぶ姿をみて幸福に思えることや、そういうことがわたしにとってとても大事なことだった。だから結婚って自分には合ってるんじゃないかとずっと思っていた。

だけど、わたしは昔から「好きな人と結婚する」か「早く死ぬ」かの2択で生きていて、ここは基本的に歳をいくらとろうが変わりない。正直にいえばこんなに付き合っている期間がまあまあ長いのに、結婚のけの字もまともに考えられてなかったことにびっくりして、こんなに長い時間をかけた結果がこれならもうあとどのくらい待てばいいのかなあ、それなら待つより早く死ぬことにフォーカスして生きていった方が無駄ないかもなあ………と、他人の誕生日プレゼントを選んでる間に、なぜかこんなに思考が加速して飛躍して爆発してしまった。

 

 

なんで指環かっていうと、形だけでも幸福を示すような何かが欲しかったので。

ただこの指環は世界に一つしかなく、誰とも共有しないものであるためにオーダーメイドで知人にお願いした。「今年のわたしの誕生日まででいいので、指環って作れますか?」「いやもうデザインとかなんでもいい、形とかもそこまでちゃんと想像してない、好きにお願いします」「サイズ?測ったことないですねえ………」と最低な会話で受注をお願いしてしまった。ほんとごめんなさい。マジで。

 

 

 

付き合っている人がいてもひとはこんなに孤独を感じるんだとしみじみ思ったけど、わたしは誰の幸福も苦しみも否定したくはなくて、別にお付き合いしている人がわたしを最終的に選んでくれなくてもいいんだと思っている。みんながみんなの幸福を追い求めていいはずだから。だから、わたしは一人で生きて一人で頑張って死ぬんだぞっていう誓いをする必要があった。それがたとえお付き合いしている人に理解されない行為だったとしても、だ。

ってこの話すると、大抵の人が理解できないっぽいので口頭ではなるべく言わないようにしていたんだけど。自分にとって大事なことなので文字に残しました。見て嫌な気持ちになった人がいたら大変申し訳ない。

 

 

 

指環届いたら写真あげて記事また書こうかな。

よろしければ一緒に見てください。

 

 

 

 

 

2020→2021

 

  新しい職場の同期の子はわたしの2個下なんだが、アニメをめちゃくちゃ布教してくるのでしかたなく進撃の巨人を見始めたんだけど、それに乗じてか「おのれの価値観」まで布教してきそうな気配が最近あって、”あなたの意見は否定しないが、わたしはこうです”とATフィールドを展開しながら、その彼女の姿を見て(若いってつまり勢いがあるってことで、それって今の自分にあるのかしら…)ってことだった。彼女の年齢の時、実際確かに嫌なことは嫌で全力で振り切って逃げてきたし、金だけでなく、キャリアや人脈に関するチャンスをすべて失って、文字通り逃げた分の不利益を被って、やっと仕事が決まったんだったなとか思い出しちゃって、マジ今までよく生きてんなって軽い走馬灯が流れた。今はもう嫌だなと思ったら他人と2日話さないようにすれば大抵のストレスは消化できるので、うまく人生を乗り越えてきた自信がついてきたわたしにとっては、彼女の価値観教示千本ノックなんて大した攻撃じゃないな~と思いましたとさ。まあ、ここに書いてる時点で、彼女にうまく伝えられてない自覚があるってことでもあるんだけど。

  うまくいえなくても、また年を越してしまったし。わたしたちまた長生きしちゃったね。また会えるのを楽しみにして、この憂鬱な日々を乗り越えていきましょう。(ちなみに緊急事態宣言が出ても通常出勤が命じられたので、ほんとうにめげちゃいそう。)うまくいえないわたしとあなたを、どうぞ今年も変わらずよろしく。

もう人生全然うまくいかないんだけど?

 

 

っていうの、毎回誕生日前日に言ってる。どこからうまくいってなかったんだっけ?とか考えだすと、結論が「生まれてきたところ」になるのも毎回そう。極論すぎ?でも直せるなら人生初めからやり直したくない?人生ってなんでこんなに続けるのがめんどくさいの?って思いながら0時を過ぎて、あーまた同じ1年になりたくないなあって思うの。でも去年の10月からこの1年で、前よりはちょっと他人に対して疑心暗鬼になるくせが治まった。ネコもたくさん見たし、自分で思う以上に自分の仕事を他人から認められていたことを実感できたし、自己肯定感がちょっと養われた。次の誕生日までは『生きてるだけで毎日優勝』くらいのきもちで、たまに文章書いて、たまに音楽を聴いて目が潤んだりして、手を洗ったあとの石鹸の香りが好きなことを思い出しながら、この生きづらい世の中を泳いでいこ〜と思います。思い返せばクソみたいな不動産屋に勤めていた時からここにたくさん書いてきたわけだし(実際にはその勤め始めた約半年前からブログ開設しましたが)、マジでクソみたいなところからよくここまで死なずに生きてこれて、それで自分が生きててもまあいっかみたいなところまでポジティブになれてるのは、ほんとうによかった。この誕生日を迎えるまでに、いろんな人にわたしのいろんなきもちをいつもよりすごく言語化したけど、わかってもらうって大事なことなのにずーっとスルーして生きていたことにその時気づいた。話を聞いてくださる友人の皆さま、いつもほんとうにありがとう。

今日はね、誕生日前日だから夜マックのポテナゲ食べたよ。カロリーの欄は見ないことにするとマックとよくお友達になれる。

それを片手にAmazon Primeのボーイズ観て推しのフレンチーを応援しながらにこにこして今日は眠ろう。

 

 

 

 

 

 

夢の話

 

 

 

心から愛する友人と、遊園地で2人でクライアント(しょっぴく相手?)が来るのを待っていて、麻薬取引の囮捜査をしているところだった。その時ちょうど同じ遊園地で全く別の事件が発生して、いろんな予定がごちゃごちゃになってしまっていたが、とにかくクライアントと麻薬取引をする役が主にわたしで、今後囮になって彼らのことを内密に調査していこうという段取りになった。

わたしはその時もちょうど具合がよくなくて、それを隠して現場にきていたが、心から愛する友人こと相棒はそれを見抜いて、ふらふらになって歩くわたしを抱きしめながら一緒になって行動して、何も言わずに約束の時間まで温かい飲み物を買ってくれてともに座っていた。遊園地の忙しない音に紛れてありがとうを言った。本当はあなたを荒事に巻き込みたくないよ、と小さな声で呟いたのに、「それはこっちも同じだから」と返事が返ってきて驚いた。

その後、組織の末端の運び屋?みたいな人間が5人待ち合わせ場所にきた。その中のリーダーらしきモリくんと話をつけようとしたが、周りの4人がひどく煩くて、挙げ句の果てにその内の1人が首根っこを掴んでわたしを持ち上げたりした(一種のパフォーマンスのようであった)。それを見た相棒の目がやめろと言わんばかりに険しくて、わたしはそれを見て(ああやっぱりこの人は夢の中でもわたしに優しいのか)と思って、目を一瞬閉じた。

 

 

この生活

自粛生活、皆様いかがお過ごしだろうか。

 

新型コロナウイルスが猛威をふるい、人々の生活を変化させた。らしい。

 

らしい。という濁らせ方を使うのは、仕事の休みが増えて、テレワークなんていう自制心のない人間にとっては降って湧いた天国のような仕事環境を与えられ浮かれポンチになっている状況と、世間の動きがいまいちマッチしないからなのだ。(ありがたい事に会社も大きく傾きはしなさそう。三年前の就活してた私、グッジョブ。)

 

また、中途半端にビジネスに興味があり、数々のビジネス書のマーケティングにまんまとハマり、いっときの感情で読んだ挙句「俺はこれで生きていくぞ!」なんて鼻息荒く動き出すも、翌日、日常の空気に触れていく中で元の呼吸を取り戻していくような私にとって、

 

数々の著名人が話す「コロナ後の世界」なんていうのは割と興味をそそられるものだったりもする。最近の流行りはお笑い芸人キングコング西野亮廣さんだ。ただこれらも私の世界を一変させるものではなかった。

 

変えてもらうのではなくて自分で変わらないといけないんだなぁという当たり前のことに気付かせてくれたのがコロナだ。

 

 

事務所に行く事で仕事をしなくてはならないという外圧を自分で感じる(この場合って内側からきてるから内圧なのかな?)行為をしていたりとか

 

でも仕事してるんだから仕事しなきゃって思うことって悪いことか?、お金もらってるし、と振り返ったり

 

そもそもお賃金もらって「うへへ、今月もお寿司食べよ🍣」なんて貯金する必要のない独身貴族恋人無しの気まぐれな贅沢をして生きていくだけで良いのかなって好きなつぶ貝のコリコリした食感を愉しみながら気軽に考えたりと

 

すごく余白をくれた。

 

色んな変化をさせたコロナが無かったら、実は4月半ばごろで色々終わってたかもしれないと振り返って思ったりする。

 

 

 

 

大西ライオンも真っ青な声量で叫びたい

 

テレワーク、続けて

天使がいたのなら




 もし天使がこの世界にいたのなら



 あの、美しく、正しく、聡明な天使は

 この世界をどのように生きるのだろう。

 権力者が、富豪が、浮浪者が、呆知者がいる

 この世界で。


  正しく、聡明な天使よ、教えて欲しい


 全ての浮浪者に金を与えるべきですか、それとも誰にも与えないべきですか?

 強欲な富豪や権力者には、慎みの心を持て、と言わなければいけませんか?言ってからはどうしたらいいのでしょう?

 全ての呆知者に愛を与えるべきですか、呆知者の唾液が体に降り注がれても?


 正しく、聡明な天使は

 この世界で

 一歩でも足を踏み出すことが出来るだろうか。

 一言でも発することが出来るだろうか。




 美しい天使よ、最後の質問です


 貴方のその美しい背中についた

 美しい翼の付け根は、 人間と天人との境目は…美しいですか?

tOkKyOn

 渋谷までは380円ですよ。360円デハ20円足りずIC 現金払い。残金、480円。 ええ、ええ 使えるのは100円 何も買えませんよ。
 なれない新宿行きの埼京線、乗り換えて渋谷行きの埼京線。そうね、バカらしいね、こんなこと。君もここで飛び込もうとしたんだっけ?いえ、違います、彼は山手線でした。そう、同じように下を向いていたんだろうね。
 渋谷駅に着いて渋谷駅で迷って、出口わからない、ハチ公口に出たいんですけど、同じ所に帰って来てしまいました。あ、こっち?そうですか、ど どうもありがとうございます。
 迷った渋谷駅での発見は岡本太郎。「明日の神話」でっかいでっかい。かっこいいな。ケイタイで写真にとった。
 動く歩道で躓く。「我に躓かぬ者は幸いなるかな」。僕のイワカンに違和感。場違いな自分。

 ハチ公前にたくさんの人。タバコの匂いと、排気ガスの匂いと、香水の匂いと。フラッシュバック、映画で見た交差点。交差点で流される。皆は流れる。
 たくさんのピアスをした真っ黒な外人、女性がなんかの勧誘。金髪の路上ライブ、警察サボんな、この前補導したろ「許可とってんのか!」ってさ。テレビ中継のカメラ、インタビューアーの髭のおじさんさ、ここ東京の中心なんだね。
 小学四年生の女の子二人、男子高校生二 三人、金髪に厚化粧の女性達、誰だかわかんない普通の人、水色髪の若い女性、気取ったハットを被った変な紳士。「イチャイチャ」 看板、の下を通る小学生の女の子。そのとなりの店の宣伝をする5歳くらいの男の子。じっと見つめる。大きな音で風俗店の宣伝の「陽気な歌」を流すトラック。陽気な女性の声で。運転手はしかめっ面のおじいさん。でっかいスクリーンが右にも左にもたくさん。交差点の音は何の宣伝? 皆キャハハハ。この交差点に手榴弾投げ込みたいなあ。
 駅の裏、といっても、金髪から15メートルくらい、の、線路下を避ける女の人。一人で入る線路下。ダンボールの家、腐敗臭、でも本当は頭の中には「死臭」という言葉。毛布で顔を隠してダンボールの上。外ではキャハハハ。ゆっくり外に出ますよ、キャハハハの中にも太った女性、さ迷える僕が会うのは二度目のさ迷える貴女とさ迷える貴女の虚ろな眼。派手なカーテン、チューリップのワッペン、出会いの場、通行人キャハ。

 知っていたし、そんなもんに驚くわけないじゃん、倫理とか知らないからさあ、とかね。やっぱり口先だけ。

 左耳のイヤホンで流れる「昼間の渋谷で会って 手を繋いで歩いても良いじゃない? 悪いことしてないわ」 出会うのはコスプレした60代のおばさん、見分けのつかないほどカッコイイ5,6人の金髪の男の人達。この人達のことですか? っていうか、貴女は、本当なの?

 帰りの切符をかって改札口に入らない。交番に突撃しようかな。交差点に突撃、知らない内に流されて覚束ない脚で交番にサヨナラ。飲み込まれて切符落としちまえばどうなんの? 有り金の100円にぎりしめてさ。それからコンクリートがある路地裏を廻った。何かあったっけ?そうだ、HOTELと「案内所」が誰も通らない道にありましたね。

 交差点に戻って、駅まで流されて、皆サヨナラ、警察の人サヨナラ、化粧のおばさん誰待ってるのサヨナラ、皆バイバイ。忘れないさ、煙の匂いも黒い人も。ミンナ、Bye-bye、誰もこっちを見ないけどねえ。

 帰りの埼京線に薬切れて花粉症最悪。下向いて帰る。車椅子に乗った身体障害者の人とその家族。お父さん悲しそう。ドアの前で邪魔で頭を下げるお父さん。僕は花粉症だから、そんなの知らねえ。ああ、もうつらい。もうつらい。新宿で途中下車。駅内一周。ああもう疲れた。山手線さあ。

 帰って来た。静けさ、故郷?もの足りね。慎ましげに、丁寧に、目立たないよう、大人しい、くだらね。つまんね。

 東京、いえ、tOkKyOn、が好き。

あおいはと

青い鳩はとんでゆく
燃えて燃えさかる京の夜に
いってん
白けた腹に赤みを着けて
ゆうゆうとぉ、ゆうゆう、
腹にほのおを引き連れてぇ
京を端から端へ飛びまわる
十万のひとを灰に焼けこけて
叫喚地獄ゆくらゆくら広らげてく
西から、東と、
東から、西と、ぐらぁんぐるぁん
ほのお広らげてく。
青い鳩はとんでゆく
ゆうゆう焼けこける京の夜を
白けた腹に赤みを着けて
ひとのさけびはもう沈め
ごおごおと唸るほのおを引き連れてぇ
青い鳩は京をまるごととんでゆく
総てほのおでつつみこむ

かわいそうな子

かわいそうな子はかわいそうな子です
かわいそうな子には昔、名前がありました
でもかわいそうな子は名前を忘れて無くしてしまったので、かわいそうな子になりました

かわいそうな子はかわいそうな子です
だからかわいそうな子はうつむきました
うつむいたら本があったのでそれを読みました
必死に文字を追いました
だけど何にもわかりませんでした
だけど必死に文字を追いました

存在と神について必死に考えました
でもそれは実際、髪でも良かったのです
てもやっぱり、髪ではなかったのです

必死に考えると文字が時間とそのまま流れ落ちていきました
その音は歪すぎて、かわいそうな子をすり減らしました

だからかわいそうな子は耳もイヤホンでふさぎました
もう外のことは何もわかりません

かわいそうな子が俯いて自分への賛美歌を聞いてる間に、何もかも過ぎ去ってしまいます
かわいそうな子は何も覚えずにただ忘れていきます
「ナイヨウハ、サヨナラサヨナラ。」

逃げ込んだ図書館で心を閉じてしまったかわいそうな子は
そのまま気づかない振りをして目を閉じたいのです

目を閉じたいのです。
「ミンナシアワセヲカミシメテイテ」
かわいそうな子はかわいそうというセイシツを手に入れます
かわいそうなセイシツはこうかく語りき、
「セカイノ、カナシミヨ、アア、セカイノカナシミヨ、ンン…ナンダッケ?エイエンハ、エイエンダトオモイマス。」
それを聞いたかわいそうな子はこう叫びました
「オヤスミ!」
目を閉じたいのです。

わたしたちはずっと静かだった

 

 

高校生のどのクラスの時も、奇跡的に教室の隅っこに席があった。1年生の時は一番廊下側の列の一番後ろ。2年生の時は一番窓側の列の後ろから2番目。3年生は震災後に移った新校舎の教室で、誰も座ったことがないという特権をもった、一番窓側の列の一番後ろだった。

1年生の時の4限、お昼後の古典の授業の景色を未だに思い出せる。当時、自分の体が太ることで見た目が変わることと、食べ過ぎて授業中眠るのがずっと怖くて、お昼に食べるお弁当を半分残して残りは放課後の余った時間に食べる癖がつきはじめた頃だった。いつも通りお弁当の下段のご飯は半分だけ残し、おかずもまばらに残しておいて、余ったお昼休みで次の時間の予習のチェックをしたり、譜読みをしたりして過ごしていて、4限が始まる。古典の先生はおじいちゃん先生だった。教え方がうまいとずっと前の先輩からよく聞いていて、まったくの噂通りに授業はおもしろかった。その時そう思っていたのはどうもわたしだけのようだったけども。わたしは楽しみな授業の時ほど予習を念入りにして、ノートにびっしり書くタイプの妖怪だった。あの暑い夏の時もそうで、開け放たれた窓から吹き込んでくる風のここちよさと昼休みの直後という魔法で、この授業に興味のないクラスメイトは静かにかつ分かりづらいような格好で目を「閉じて」いた。カーテンははためかないように同色のタッセルで留められており、両開きのまま綺麗にセンター分けされている。どのカーテンもその仕様にしていると、若干教室が暗くなるから静かになるには最適の環境だった。わたしはあの先生が次に述べる文章のことを思い浮かべながら、次の箇所のノートのページをもうすでに開いて、ときおり頬杖をついて動かないみんなを眺めていた。隣の席の男子は、わたしより平均的に成績がよいひとであったので最初の方は起きていたが、次に見たときには目を閉じてバレないように、額に肘をついた両手をうまくあてて「静かに」していた。ここの人たちは、成績のよい人・教師のいうことについて反感をもち常に態度に表す人・同じ話題ができればその時その場では特に問題としない人、などさまざまなグループが存在していて、わたしはどこにも属していなかったので、どこのグループの人たちとも話せたがどの人とも親密にはなろうとはしなかった。そういう距離感のひとたちがいっせいに機械のように動かなくなって、その空間が静けさを含んで膨らむのを感じたりするのがすきだった。先生はみんながそうして「静かにして」いることについて、特に大きく咎めたりはせず、仕方ないといったようなふうだった。ただ起きて授業を板書したり目で先生を追う人については、きちんと目を合わせて回答をくれるひとだった。今日も変わらず、わたしは誰も動かない教室で、黒板と先生と自分のノートを見渡して、先生が板書している間にみんなの動かない空気を見ているのが、この世でいちばん安らいだ気持ちになれた。この授業が永遠に続くのも悪くないなと、あの時ずっと思っていた。古典の先生ならではの達筆な板書、いつも持ち歩いているチョークケースは木箱で、中身がカラカラ鳴らないのは箱にみっちり新品のチョークを入れているから。先生が眼鏡をあげるとき、今日は暑いから適宜水分を補給してよいといいながら手でみずからを仰ぐとき。

「はい、ここはテストに出すが、」

その言葉だけ大きく、聞こえない人にも聞こえるように先生が発声するので、わたしのすきな空気はすぐに壊れてしまう。みな静かに板書していたと言わんばかりに、頭がきょろきょろ動いて、自分の記憶にない黒板の字とノートを理解が追いつかないまま目で追いかける。あーあ、静かでなくなってしまったな、と思って、わたしはひとりで誰にも気づかれないように笑う。

 

 

 

 

 

 

忘れっぽいイノシシの話

ものすごく頑張り屋さんなイノシシ。

 

それはもう一生懸命走ってた。

 

でも、ある日ふと思い立った時に

 

なんで一生懸命走ってたのかを忘れてしまった事に気づく。

 

なんとなく、自分ではなく誰かの為だった気がするけど。

 

後ろを見ても誰もいなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

みたいな思いつきストーリーを載せたり、ご飯を載せたりするだけのブログを開設しようかと思った。ってのをブログに書いてる。

 

あとイノシシが家畜化したのが豚なんだね🐽

タイトルって大事

会社の同期と、モチベーショングラフを書いてその内容を語り、聞いてる側が感じたことを話す、という事をした。

 

24年間生きてきた事を話して、グループ・集団の中で自分がどういう立ち位置なのかを意識して、そこに沿うように動いていた事を指摘され自覚した。

 

控えめなメンバーが多ければ先導し、話せる人がいれば裏方に周り、という感じで動いていると思う。

 

逆に言うと対個人に関する深い話が何一つその場では出なかった。時間も限られていた、ということもあるがその中で自然と優先して話したのだからそういうことなのだろう。

 

同期に聞き出してもらって少しだけ語った個人の関係は6年間付き合った人についてだった。聞き出してもらったというのは、この24年間の4分の1を占める期間を共にしたはずなのに、全く話に出ないねという指摘からだ。

 

遠距離で会う回数が限られていた事もあるが、モチベーショングラフという議題の特性上何かしら自分に影響があった事を話すが、出てきてもマイナスが多かったから、話したくなかったのかもしれない。

 

原因となるエピソードはプライバシー的に書くのを控えるが、メガネ姿の自分が嫌いになった、自分の胸の内を話すことに臆病になった、自分は思考を何もしていない人間だと思うようになった、自分は相手のこと何も考えられない人間なんだと思うようになった等は、相手の影響だと思っている。

 

でもきっとこの話をしても、それは自分の受け取り方でしょ、と返されていたのだろう。

事実、そうだと思う。

 

書きながら新しく気づく気持ちも多い。

少しづつ消化しながら、前向きに楽しく生きれるようになると良いな。

 

タイトルは思いつかないからこれにしておきます。

 

はじめまして

昔からの素敵な縁に誘われて、うまくいえないひとたち。という不思議な場所に出会いました。

 

どんな事を書こうかはまだ決めきれてませんが、出来たら暖かく見守ってください。

 

完全に心の中で精算できてない過去の話を女々しく描いたり、いろんな情報に振り回されている今の事を書いたり、もやもやした景色の先にあるだろう未来の話を書いたり、になるでしょうか。どれも一本の自分なんですがね。

 

他のSNSのように、特定の誰かではないけれど、でも誰かには読まれてるかもしれない場所に書き込む事で起こる自分の動きを楽しみにしたいと思います。

 

以上を挨拶とさせていただきます。

以後よろしくお願いします。