うまくいえないひとたち。

analfriskerのつどい

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とあるツイートをタイムラインで見て、もやもやしてしまったので、ここに書く。すみません、いきなりこんなものを入れてしまって、エグいかもしれない。要注意

女1人、男2人。これはなにか? 私の恋愛履歴書だ。性行為(のようなもの)をしたのは3人ともであり、私は挿入未経験者だ。

挿入前になると親の顔が脳裏をよぎる。想像上の親の顔はひどく落胆し、憔悴している。親は……特に私の父親は私のことが大好きだ。保育園に通っていた頃、「ななしの一番好きな人はだあれ?」ときかれて、同じ保育園に通っている男の子の名前を出したら、週末に予定していたディズニーランドがなくなりかけた。それくらいの愛情だ。(伝わるだろうか?)

昔の彼女とはキスだけでも十分だったけれど、自発的に望んで至った。昔の彼氏たちはそういうものを求めているのがすぐにわかったから、なるべくそれに応えるようにした。すると徐々にエスカレートする。挿入したいと言い出す。その頃には私の思いは冷めている。

拒む。「好きじゃないの」と言われる。「そうじゃない」と応える。会うたびそれらを相手から求められる、その状況にうんざりしている。

「好きじゃないの」は呪いの言葉だ。好きなら自分の要望に応えろという風に私には聞こえる。うんざりだ。私が欲しいことばは、行動はそんなものではないのに。

挿入なんてされたくない。そんな言葉で縛る君となんか添い遂げたくない。子どもなんか生みたくない。自分の遺伝子を持った子どもなど要らない。気持ち悪い。そう言う私に君は「俺の子どもを求めてくれないのか」と言った。違う、そうじゃない。そういう話をしているんじゃない。私が欲しい言葉はそれではない。

インターネットの荒波をサーフィンしていると、出会いたくない情報に出会う。「どうせなら初物の彼女がいい」「女の価値は処女かどうか」「中古は嫌だ」そんなことばを馬鹿みたいに鵜呑みにして生きてきた結果がこれだ。完全に拗らせているもう手遅れだ。

たまに自棄になって適当な男でも捕まえて脱処女してやろうか悩むけど、結局やめる。

性欲が優先される関係なんて嫌だ。男でも女でもいい。親友と適当にそういう関係になってなし崩し的に恋人になって友愛4:性愛1くらいで生きていきたい。セックスなんて気が向いたときだけでいい。

そんな関係は今だどこにも見当たらない。

Lamp

シャワーを浴びていて、ふいに飛び込んできた水が甘かった。

 

あるアーティストの歌詞を思い出して「最近は髪も爪も切らず/復讐もガソリン切れさ/何にも食べたくないし/ずっと考えている」。

 

何日も外に出ずに、部屋にうずくまっていて、食事も怠って、夜になった。空腹を感じて外に出ると、軽食屋の灯りがまぶしくて、それが恐ろしくて、なぜだか、とても恐ろしくて、いつの間にか食欲はなくなっていた。『蛇にピアス』、「夜にしか生きられない」。映画で観たあの呟きが時々頭に浮かぶ、今夜はそんな夜だった。

ひとが生きるための灯り、が怖かった。

 

何も食べずに、煙草だけ吸って帰ってきて、ここを思い出した。うまく言えない、から。自分のブログは何か月も更新していない。何もかも、うまく言えない。完全に社会不適合者のそれ。誰よりも、うまく言えない、それだけは自信を持ってもいい。と(例えば、太宰治のように)感じた。

 

効かない薬をあおってから、そんなことをここに書こうと考えながら、食器を洗った。久しぶりにシャワーを浴びて、歯も磨いた。いろいろ書こうと思ったことがあったけれど、それは大したことではなかったらしい。もう、特に書くことはありません。

 

(エクスキューズ。以前企画のときに、順番が回ってきたのに、何も思いつかずに、何も言えずにそのまますっぽかしてしまって、それを忘れて、最近気づいて、大変申し訳なく思っています。他にもそういう方、いるかもしれない。厚顔無恥、そんなひと私の他にいないでしょう、その人の分も謝ります。ごめんなさい。)

 

「効かない薬ばかり転がってるけど/ここに声も無いのに/一体何を信じれば?」

 

不意に飛び込んできた甘い水とは何のこと?一縷の蜘蛛の糸。手繰り寄せて、明日に届くか知らん。

明るい空、スーツを着て働く人たち、繁華街を歩く観光客やはしゃぐ学生たち。それらを、見ている人が私。

私はただ、見ている。

なんて声をかけたらいいのだろう。

声にならないから、あなた、と肩を叩いたら、あっさりと不審から拒絶へ変わる眼差しを眼前にして、あなたはどこにもいない。

私は灯りに、陽の、生きるための、灯りの下で生きている<ひと>にはなれない。だから小声で、ここで、あなた、と呟いてみる。あなたの眼差しが見えるように、それが見えるだけの、小さな灯りをひとつだけともして。もしも、そんなことができるのなら。

 

うまく言えないのなら、言葉の断片でもいい。単語を数珠つなぎに並べて、言の葉がそらに舞うに任せてもいい。そう思えたら、少しは、或いは。どこにその場所はあるだろう、どこにあなたはいるだろう?そう、ここにしかない。だから私はしばらく私に耽溺する。そのままその海に沈んでいて、うっすら目を開けていたら、水面から差し込んでくる陽の輝きを目にするかもしれない。そしてそうっと手を伸ばすかもしれない。

 

何かを書くということは、誰かに宛てて、ということもあるのだろうけれど、私にとっては、書くということは、私のなかに沈み込む手段である。だから今はひたすら書いていたいのだけれど、この場所の不文律の境を越えないように、ここまでにします。お目汚し、失礼しました。エクスキューズ、ミー。左様なら。

 

 

 

 

 

《10月企画》記念日との適切な距離について

□はじめまして、ここで書くのは初になります。更新が遅くなり、すみません。職場の旅行で疲れはてていたら、こんなに日が経ってしまっていました。


□日頃から他人に「参加する前に作品をストックしておきなさい」と口煩く言っているわりには、自分自身ができていなくてうんざりします。

□近頃めっきり文章を書いていなかったので、説明が要領をえないかもしれませんが、生暖かい目で見ていただけると幸いです。




□さて、私は「非日常」というものが好きだ。「非日常」を求めて休日は基本ふらふらと出歩いている。それは近くの公園へ徒歩で散歩することだったりもするし、何時間もかけて海を見に行くことだったりもする。

□知らないことを知る、道行く人に話しかけられる、行ったことのない場所へ行く、上司に怒られる、などなど挙げればキリがない。

□遭遇頻度が低ければとたんにそれらは「非日常」として私に解釈され味わわれることとなる。「ときにしょげながら、ときに喜びながら、「非日常」が好きな私はそれらを愉しむ。

□私にとってどんな「非日常」も人生においては「スパイス」程度の扱いなのだろう。それを見た人は皆、理解に苦しむような顔をする。(思考回路は単純明快なのに



□「記念日」といえば、とても分かりやすい「非日常」の形であるように思う。



□しかし、決まりきったように訪れるようになった「記念日」は最早「非日常」とはいえない為、とても退屈で窮屈だ。何より、記念日を祝うことが当たり前になったとき、それは半強制的な効力をもって私の首を絞めることとなる。

□私にとって一番怖いのは、記念日を忘れて落胆させてしまうことや、それを恐れて窮屈に(神経質に)生きることだ。もうそんなことはこりごりなので、私は「記念日」をなるべく意識せずに生きるようにしている。(これ、伝わるかな?

□意識しないというのは「記念日」を忘れるに近い。というより、かなり頑張れば思い出せるくらいの頭の片隅においておく。これが私の「記念日」との距離感だ。

□その結果、お付き合い一ヶ月を忘れたことに対して、昔の恋人にはキレられたし、誕生日を間違えたことに対してもやはり怒られた。(祝ってほしくば自分の口から言えばいいのだ。と私は思っている。

□私と交遊のある友人たちはそれを知ってか知らずか「まあ、こいつはそういうやつだしな」と放っておいてくれている。

□たまたま気がついて、たまたま気が向いたら祝う。後から気がついてもまあ祝う。それくらいのスタンスで「記念日」とは付き合わせてもらっている。ありがたいことだ。

□私はよく記念日を忘れるけれど、相手が喜ぶのは好きだ。知り合いが近い内、または少し前誕生日であることを思い出すと、大抵手持ちのもので賄う。机の中にある飴だったりなぜか手元にあったゴディバだったりだ。

□また、SNSSkypeなどで連絡を取り合っているときに気がついた場合は、Amazonに頼る。プレゼントの内容としては大体がそのとき話題に上がったものだ。

□ちなみに、今年はAmazonの欲しいものリストの話を友人にした。欲しいものリストを公開していてくれれば、気がついたときに送るからと。
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Amazonの郵送方法等については賛否あるかと思われるが、個人的に欲しいものリストほど良いサービスはないと思っているので、あとはユーザーの気遣い(発送情報画面を相手に共有しておくとか)が大切なのだろうと思う。




□というか、もうこんな時間ですね、私はもう寝ます。おやすみ

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《10月企画》疲れてるのかもしれない

途方に暮れている。

 

 

この「記念日」の企画が始まったとき、何を書こうかとぼんやり考えて、題材のメモを残したことは覚えていた。

いざ自分の番がまわってきて、改めてメモを見たのだ。

そして、途方に暮れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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賢明な読者のみなさんならば、既に僕が途方に暮れた理由もお察しだろう。

だが、あえて言わせてもらう。

 

大して似ていないのだ。

 

記念日と自然薯は、大して似ていない。

 

 

 

 

 

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以上の内容を書いてから、数日下書きに寝かせてみた。僕は未だに記念日と自然薯が似ていると思えていない。

体験してみて分かったが、自分のことが理解できないというのは恐ろしい。ある日の記憶が、そこだけすっぽりと抜け落ちてしまっているかのようだ。

連続した毎日を過ごしている僕たちが、そのことに気付くのは容易ではない。

 

「えっ?俺そんなこと言ったっけ?」

言われた側は覚えている。

「言ったじゃん。忘れちゃったの?」

「いやいや、言ってない言ってない」

「うそだ」

「絶対言ってない」

「あのときは確かにそう言ってたのに」

 

 

 

 

 

些細なことならいい。

記念日と自然薯が似ているかどうかの是非とか、その程度のどうでもいいことならば。

だけど、大切な人と交わした大事な言葉だったら?

 

 

 

私たちは日常に流されていく。とりあえず生きようと思うと、途端にルーティンが押し寄せてくる。その方が考えずに済むからいいぞとでも言わんばかりに、毎日、毎日。濁流に飲まれそうになりながら、ギリギリのところで息継ぎをして。生きていく。

あなたはどうですか。安全なところにいますか。飲み込まれて、流されていませんか。

そんな毎日のなかに見つけた、小さいけどキラッと光る出来事、大切にしたくありませんか。覚えておきたくは、ありませんか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アピカ 日記帳 5年日記 横書き A5

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負担なく続けられる
気軽に日記でも始めてみようと思っている方、毎日毎日何ページもその日の出来事を書き留めていくのは結構大変なんじゃないかと心配されていませんか?『アピカ 5年日記』は、毎日6行分の記入スペースなので、1日の出来事を簡潔に書きこむことができます。飽きやすい人でも、5年後を楽しみにしながらコツコツと続けらる日記です。シンプルで高級感のあるアンティーク調の見た目も、本棚でいい味を出してくれるでしょう。

 

 

 

 

 

思い出を振り返りやすいページ構成
1つのページに1つの日にちが書かれており、そのページに5年分のその日の日記がまとめて書けるようになっています。年号が最初から振られていませんので、使用開始日や使用期限を限られることがありません。1年分のページをめくり、遡って昔のことを確認する必要がなく、過去の同日に自分はどんなことを書いていたのかを同じページで振り返りながら記入することができます。過去の出来事や思い出を振り返り、懐かしみながら日記をつけていくことができるので、書いていくことが楽しくなりそうな気がしませんか?

 

 

 

 

 

丈夫で上質な素材で大切な思い出を残せる
5年間毎日開け閉めしていると、表紙や中の紙が痛んでしまいます。でも『アピカ 5年日記』はしっかりとした硬い表紙と、「アピカ1000年ペーパー」と銘打った上質な中性紙を使用しているので、変色や劣化もしにくく、長くお使いいただけます。紙の手触りもよいので、筆あたりがなめらかでサラサラと記入することができます。大切な思い出をきれいな形で未来に残したい方には嬉しい日記です。

 

 

 

 

 

お客様の声

紙質が良いです。大きさも気に入りました。無駄がなくシンプルなところ、青いカバーが綺麗です。カバーをして本棚にしまえる点が良い。年号と曜日は自分で記入する必要があるけれど、私は手間に感じません。これまで他社の10年日記をつけていましたが、大きい分重くて、ちょっと別の部屋で書こうと思っても億劫でした。本棚にも入らなかったので、目につかない奥の方へしまいこんでしまっていました。これからは、5年日記を2冊3冊と本棚に並べていきたいと考えてます。旅先にも持って行けるサイズなので嬉しいです。買って正解でした。

 

 

 

前からアプリなどで10年日記とかをつけていたんですが、なかなか続かず…。やっぱり直接書く方がいいかなと思い、初めての日記購入です。続くかどうかもわからないので3年日記とどちらにしようか迷いましたが、行数が少ない方が続くかなと思い、思い切って5年日記にしました。さすが1000年ペーパー。 書きやすいです。まだ1週間ぐらいですが、数行書く程度なので、楽しく続けられています♪

 

 

 

5年日記としては記入欄のサイズも使いやすいく、年頭や年末の所感欄も活用できそうです。年半ばから3ヵ月続けており、購入前の今年の部分も、手帳を見ながら、印象的なイベントや所感などをさかのぼって追記しています。私は漢字をスマホ等で検索してしまうので、常用漢字表はほとんど使っていません。万年カレンダーなんかついていたら使えるかな? 今回は年半ばの日記購入で、書店の店頭でなかなか見当たらなかった中、いつでも安く購入できるAmazonのサービスは本当に便利です。

 

 

 

 

 

 

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何気ない毎日を記念日だと思える日が、あなたにもいつか訪れますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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※ 本文の一部はAmazonの本文中リンクから引用し、文意に支障のない範囲で改変を加えています。

※本文中で紹介した商品及びAmazonと筆者は一切関係がありません。

 

 

 

疲れっぴピヨピヨ丸(@soft_blanket101)

《10月企画》冬の足音




どうも。タイトル通り10月企画です。


えっ?もう10月過ぎてる?


え〜うそやん〜〜またまた〜〜〜

















大変申し訳ありません。

まだ余裕のあった10月の前半、安易な気持ちで参加を表明した後、忙しくてTwitterをログアウトしたまま今日に至りました。





企画を受けてから記念日についてぼんやり考えてました。恋人との記念日?誕生日?初めて何かをできた日?何がいいのかなって。




















でも私気づいたんです。










































何気ない毎日、同じように感じる毎日、そんな中でも確実に変化はあって、毎日が記念日なんじゃないかなって……☆






















どうですかこの中身の無さに無駄なスクロール。ムカつきますよね。私もムカつきました。










今回の企画はうまくいえないひとたちの記念日と掛けてでしたね。


2年経っても私はまだうまくいえません。


できれば横にいて欲しくて

どこにも行って欲しくなくて

僕の事だけをずっと考えていて欲しい

でもこんな事を伝えたら格好悪いし

長くなるだけだからまとめるよ

君が好きだ


って歌うback numberくらいうまくいえません。










いつか私にも、みなさんにも、うまくいえるひと記念日が生まれる日がくることを願っています。






記事のタイトルが内容と関係ないし、大遅刻という悪魔の所業をした あ(@anchanRM)




《10月企画》今日です。

 

 

怒涛の1年でほぼなにも更新できていなかった管理人です。


あっという間に誕生日がきてすぎてしまったね。

 

いつも見てくださっているみなさん、いつも感謝しております。どうもありがとうございます。引き続きどうぞよければよろしくお願いします。

 

 

 

 

 


前の方の話に似せるわけではなかったんですが、わたしも「住まいを移す」という話をしたいとおもいます。

 


今の家に越す前は大学の寮にいて、そこで夜な夜なクッキーの生地を作り、こね、冷まして焼くという過程のすべてにツイキャスが付されていました。
いま考えると寮なのによくやったな。


そこでだんだんと、ツイキャスがどうしても時間関係なくいつでもやりたい!という気持ちが高まったわけでもないんですが、寮暮らしに限界を感じて今の家に一人暮らしをはじめました。

 

 


バストイレ一緒のIHコンロがひとつ。
もともと押し入れだったらしいクローゼットと、なぜか妙におしゃれな天井照明器具。
約17㎡の一人暮らしには少し狭い広さで。
そういや管理会社の方が入居時に管理費を2000円まけてくれたこともありました。
月々の支払いが32000円の、なんてことのないワンルームがわたしだけの世界でした。

 

 


この部屋で何度鍋をし、何度ツイキャスをし、何度夜遅くまで電話をし、何度ホラゲー実況を垂れ流しにしていたことだろうとかんがえると、かなり感慨深いものがあります。


煙草を部屋で吸って毛を燃やすキャスもしたし、横浜くん(昔からわたしを知る方達はおなじみのアレです)にフラれてわんわん泣きながらみんなに慰めてもらったこともありました。ガールズバーで働きはじめてストーカーされたこともありましたね。あと直近だとわたしの住んでいた市だけ停電になって、水道も流れなくなったことがありました。なんか思い起こすとたくさんあるね…
※横浜くんというのは大学時代に初めてできた彼氏で、初めて横浜に連れてってもらったので横浜くんと呼んでいました。

 

 


男も女も関係なくいろんなひとを呼んで、いろんな話をして、笑ったり泣いたりがつまったこんな部屋を、実は今日明け渡してきました。

 

 


これから住むところはルームシェアなので、詳しいことは相手のためにも話せないのですが、今まで通りお部屋でツイキャスしたり、煙草で毛を燃やしたりはできなそうです。相手に嫌われないように最低限のモラルは守っていこうとおもいます…

 


先程管理会社の方に「最後空になった部屋の写真撮っていいですか」と訊いたら、「あんまり自分の部屋で写真撮らない方いいよ、へんなもん写っちゃうから…」と言われたので怖くて写真を撮っていません。
持って行き忘れた包丁×2を片手に、ジェイソンの如く部屋をあとにしました。

 

 


近くに住んでいた親友やお世話になった方達に挨拶しきれないまま出てきたことだけが心残りですが、ほんとうにお世話になりました。

 


引き続きどうぞ、このブログもわたしのツイキャスも、みていただけたら幸いです。

 

 

 

 

 

 

 

 


今回実ははじめて引っ越しを業者に頼んだのですが、値段を交渉するものだと知らずに60000円支払ったことは、ここだけの話です。

 

 

 

 

 


宕子(@hereIam397)

 

《10月企画》夢を叶えた日の孤独《記念日》

「将来絶対にこの街なんか出てやる。こんな家出てやる。東京で生活するんだ。そのためならなんだってやってやる」

私は小学生に上がる頃からそう思ってきた。


実家が嫌いなわけではなかった。

家族はそれなりに仲が良かったし、街もそれなりに生活しやすく、友達もそれなりにいた。

それでも、多少不安定な家族も、歩くには少し広すぎる街も、コミュニケーションが苦手ながらにしゃべる私と仲良くしてくれる友達も、すべて投げ捨てて東京でひとり暮らしをしたいという漠然とした思いが、家を出るまで干支一回りくらいの年月をかけて育っていた。

田舎にいた頃の私は、いつか都会に出ることだけを生きるエネルギーにしていた。

ひとり暮らしに憧れていたわけではない。

ひとりになってなにかしたかったわけでもない。

家族と離れて、この不便な田舎から離れて、ただひとりで生きていきたかった。

都会に出ることで自分の苦しみや悲しみが消えると信じていた。


ひとり暮らしをはじめることになった日を忘れることはないと思う。

あの日、実家から車に荷物を詰め込み、母の運転で寮に向かっていた。

都内にある予備校に行くことになり、そのために寮に入ることになったのだ。

実家もちょうど引っ越すことになっていて、車の中はみんなの引越し荷物であふれかえっていた。

「あんた、1年大変かもだけどがんばるのよ」涙ながらの母の言葉すらうわの空で、やっと田舎から出られるという喜びでいっぱいだった。


今考えてみれば、私にとっておそらく田舎から出ることは精神の解放のようなものだったのだ。

いつも近所の人の目を気にしたり、近所のおばちゃんがお茶に上がり込んでくるのの相手をしたり。

あたたかいコミュニケーションと言われるそれは、私にとってとても窮屈に感じられた。

いろんなイベントに行けなかったり、本の発売が遅れがちだったり、いろいろな機会を損失しているような気持ちになったし、田舎暮しがただただ嫌で、東京に異様に憧れと自由を求めた。


窮屈で、不自由で、私の大嫌いな田舎から脱出し、晴れて都会の人間になった日、私は孤独だった。

知らない街、知らない土地にただひとりで生きていくためにいる。

孤独はおそろしくも感じられたが、夢を叶えた私は幸せだった。

どこにでもほしいものを求めて飛び出していける。

ご近所の目を気にしなくていい。

むずかしいご近所づきあいもない。

ひとりで少しさみしさはあれど、生活にくるしむほどではない。

東京で生活していくなかで、どんな辛いこと苦しいことがあっても乗り越えられると信じられた。


夢と孤独を手にした夜、私はひとりで震えながら布団で丸くなっていた。

夢は叶えた。

満足して、人生の終わりであってもいいと思った。

それでも人生は続いていた。

新たな夢、目標はその時にはなく、暗闇の中にいるような感覚は、やはり孤独だった。

昼間に感じた孤独よりも、深い孤独だった。


今でも時々小学生の時の私に「あの時からずっと思い描いていた夢が現実になったよ」と心の中で話しかけることがある。

東京で1人で働く。

目標がなくても、過去の自分が目標にしていたところにいる。

それだけを心の拠り所にして生きていく。

私が小学生の頃思い描いていた夢が手の中にある現実が、とても暖かく感じられる。

あの頃の苦しみも悲しみも窮屈さも、消えたわけではない。

その時から抱えているものもまだ大きな傷として私を痛みつけるし、孤独という新しい影も背負った。

それでも私はこの孤独と幸せに生きていく。

ひとり暮らし6年目、まだ夢も目標もない。

ただ、夢を叶える前の私に恥じない私でいることが私を私たらしめている。


夢を叶えた日、孤独にふるえながら私にはその孤独すら愛おしかった。

この孤独こそ、私の夢だったと気づいた、それが私の夢が叶った日だったのだ。


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かおるん

Twitter: @kaaaaaoruuun

公園

 

 

彼らがそこに行く時は、いつも夜であった。だから彼らは、そこについて何か思い浮かべる時に一番初めに、三本のぼんやりと灯されている、曇った空に浮かぶ月のように淡い光を放つ街灯を思い出す。

 

その時には、その街灯の内一本の下に、蛙が、まるでこの公園の主であると言わんばかりに、黙ることが威厳を見せる時には有効な手段になり得ることを知っているかのようにして、そこに佇んでいた。

 

「蛙だ。」
「随分とでけえな、」
「寝てるのかな、全然鳴かない。」

 

闖入者である二人の会話だけが、静かに響いた。二人はお互いのどんな言葉も聞きもらさぬよう、あるいは伝えそびれることのないように、小さな声で話し、耳を兎のそれよろしくそばだてていた。

 

この場所は、闖入者である彼らを憎みもしないし、愛しもしない。ただひたすら彼らを受け入れる。その日の夜は星が寒天の中できらめく金箔のように浮かんでいたが、その場所から空を仰ぎみても二人の視界を埋めるのは、お互いにぶつからないようにして背を曲げている木々が頭を垂れている光景のみである。


彼らは二人に空を見させない。彼らは皆、二人に二人の姿しか見させない。
そこには二人の声と、雨に濡らされて漂う木々と土の匂いと、お喋りを決してしようとはしない蛙だけである。

 

 

 

 

 

【写真企画】意図を楽しむこと

写真を添付して文章を書くという【写真企画】である。

安請け合いしてしまったが、どうしてくれようかと考え始めて頭を抱えることになった。


なにせ僕は写真を撮らない。

ツイッターやLINEでコミュニケーションをとる上で、目の前に広がっている光景とそれについて感じたことを言葉でわかりやすく表現できないときだけ、写真を撮って載せる。

あるいは、社内の掲示板に張り出された連絡事項を手でメモする代わりに撮る。

僕にとって写真とはそういうものだ。それは写真のようで「写真」ではない。あくまで文字や言葉の代用品でしかない。


なんならこの2年くらい、どこに行っても何を見ても、できるだけ写真を撮らないようにしている。

ある日、珍しいものを前にして一斉にスマホを掲げ、画面越しに対象を覗き込んでいる人たちの群れの中にいる自分に気付き、そこで考えこんでしまったからだ。

 


誰もがカメラを常時携帯していて、無制限に撮る。撮って撮って撮りまくることができる。

カメラ越しに世界を眺める人々。目をつむり、スマホのカメラに視ることや記憶することを代行してもらっている。

スマホはすごい。今や手の代わりであり、眼の代わりであり、脳の代わりである。この機器はもはや人の身体の一部になっているといっても過言ではない。

これについては恥ずかしながら僕自身も例外ではない。無論、この文章の主題はそういった有り様について言及することではないが、これは僕の中で写真について考える一つの切り口になった。

 

かつて「写真」と呼ばれていたものは「写真ではないもの」になった。


「真を写す」と書いて写真。

 

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みなまで言うまい。

写真はデジタル化され、むしろ「偽」であることを前提とすべきものになった。

つまるところ、ほとんどの写真は「画像」になったのだ。隠すことが前提、直すことが前提、切り取ることが前提。もはやそれが一般的な認識になっていると言っていいだろう。

アナログの時代から「真を写している」というのは思い込みだったかもしれないが、それが意識されることは今より格段に少なかったはずだ。

画像を見ることの第一義が、隠されたものや切り取られて消されたものについて想像を膨らませること、あるいは焦点が合っていない部分に注目して撮影者の本意ではない部分を読み取ることになっている人も、決して少なくはないと思う。

 


たとえばこんな画像がある。借りてきた。

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「これはわたしの家にいるブルーナボンボン」という説明が付された画像。みなさんはまずどこに注目するだろうか。

 

僕はここ。

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一番左は『村上春樹河合隼雄に会いにいく』だ。

オウム事件阪神淡路大震災を契機とした様々な思索について語られている対談集。春樹が「救い」について模索していた時期の出版物だったように思う。

その隣は恩田陸の『木漏れ日に泳ぐ魚』だろう。

恥ずかしながら未読だが、今はネットでそれなりに良心的な書評を漁ることもできる。ざっくりとだが、様々な「禁忌」について考えさせられる小説だと理解した。

その隣にある「郎」と思しき漢字の記された本はなんだろう。

作家の名前だろうか。谷崎潤一郎、あるいは大江健三郎安岡章太郎か。そこまで硬派寄りじゃないな。伊坂幸太郎かも。

そんな風に想像を巡らせる。言語化するとこれだけでも結構気持ち悪い。

 

以上は極端な例かもしれないが、かつての「写真」がこのような解釈をされていたとは到底思えない。受け取る側がそうしたくとも、粗さが隠れ蓑になる。

 

もちろん「伝えようとしていないことが伝わる」というだけではない。「伝えたいことを伝える」という機能も拡張された。

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あなたの家のブルーナボンボンはこの光に満ちたブルーナボンボンですか?

 

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それともあなたの家のブルーナボンボンはこの影に覆われたブルーナボンボンですか?

 

加工の仕方によって与える印象は変わり、メッセージも変わる。受け取る側に解釈を委ねられたものより、ある方向に明確に限定されたものの方が価値を持つ。そんな時代だ。

 

ここまで書いてきた文章も、伝えたいことを伝えるための努力の産物であるし、一方で伝えようとしていないことも伝わるという意味では、画像と同じだ。なんなら、伝えたいけれど卑しさは隠したいので直接的に表現せず、わかる人にだけ伝わればいいという託し方をしてもいる。そこも同じかもしれない。

なにせ文章は頭の中そのものだと言えるし、写真だっていまや脳を代行しているものなのだから。

 

さて、適当に書き殴りながらオチを考えていたのだが、さっき思いついた。

「写真」が今こうなったからこそ、この【写真企画】は面白い試みだったのではないか。

写真自体が《企て》を前提としている中で、様々な書き手が様々な写真を添えて、文章を書いてくれた。

 

もう一度読み返し、見返そうと思う。

そこにはきっと新しい発見がある。あらゆる変化は、そうやって受け入れていこう。

 

 

ふわっふわの毛布(@soft_blanket101)

【写真企画】ポスト

 ポストにもいろんな形やいろがありまして、各々のポストは今か今かと手紙を待ちわびているのですよ。待ちくたびれてしまっているポストもあります。それでもポストはあなたからのお手紙を今か今かと待っているのです。たった今も。

 うまく言葉の交わせない私たちは手紙を書き、手紙を送られることによって、ひととの交流をはかることができるのですから、あなたもお手紙をお書きになったらいかがでしょうか。

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 一通どうでしょうか。お手紙。

 これも一つのお手紙かもしれませんね。誰でもない、誰でもあるあなたに送る手紙。

 ほら街のいたるところにあなたのお手紙を待っているポストがあるのです。どこにもお手紙を送らないなんてもったいない。

 さああなたも手紙を書きましょう。たくさんのポストがあなたを待っています。

 体裁はどうでもよいのです。紙もなんだっていいのです。コーヒーのフィルターでもいいでしょう。

 うまく言えない私たちは手紙を書きましょう。

 

 

いしいしんじ「ある一日」

久々に読書感想文を書く。

読書感想文というよりは、「読んで思った事」くらいの軽さで書いてみようと思う。

 

ある人に「一度読んでみるといい」と勧められたこの一冊。

非常に薄い。普通に読み進めれば2時間で十分終わってしまう程度。

しかし、三日ほどに分けて読む結果になった。進まなかった。

 

面白くなかったわけでも、難解な文章だったわけでもない。

頭に浮かぶ情景がハレーションを起こし、目の奥の方がチラチラと輝き、真っ白になってしまってどうにもこうにも休憩を挟まずにはいられなかった。

 

京都を舞台にした物語で、いちいち情景がリンクしてしまって仕方がない。ああ、あの道。ああ、あのギャラリー。そうだね、確かにあの道はいつもどこか濡れていて、じっとりと、ぬらぬらとした空気感がある。

その場にいるような臨場感。まるでそこに同行しているような。

しかし、その臨場感の隙間隙間に、なぜか幻想的な表現が組み込まれる。賑わう錦通りの頭上をスルスルと鱧が泳いでいるような気分にさせられる。

確かに浮かんだ情景の所在がキラキラとした水面のようなものに目が眩ませられる。

言葉によってここまで情景が浮かぶものだろうか。素直にそう感じることができる。

 

キラキラとハレーションが起こったのち、休憩を挟み読み進めると情景ががらりと変わり、出産という私が経験したことのないはずの痛みに耐えるシーンが続く。まさに鬼気迫る。男性がここまで書けるものなのか。そして序盤と同じように組み込まれる一種の非現実的な表現。それによって出産というものがより神秘的なものとして描かれる。

新しい命が産まれる奇跡、というものの表現として、こんなに上質なものがあるだろうか。

 

正直、好みではなかった。というか苦手だった。

頭の中での立ち位置が定まらない。異常にリアルで、妙にファンタジックで。

しかしその表現はどれを取っても素晴らしく、豊か。

日本語という芸術をみた。そう感じた。

【写真企画】得るということ。


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お母さんが余命2ヶ月という夢を見た。日に日に弱っていくお母さん。立ち上がれなくなるお母さん。自分の余命が途切れる頃に娘の大事な支払日と給料日があることを心配するお母さん。



内容はもうよく覚えていないが、目が覚めた瞬間、声を殺して泣いてしまった。










いつか訪れるであろう大切な人の死に、自分は何ができるであろうか。





生きている間は、他人と自分を重ね合わせて、他人に共感し、受容し肯定する人になりたいと思う。



でも相手や自分が死ぬことになった時、私は境目を欲するのだろう。



傷つきたくないし、傷つけたくない。



いつか傷ついてもいいと思える日が来るのだろうか。







もし来るのであれば、きっとそれは、私が何かを捨てて、何かを得た時だ。







あ(@anchanRM)

【写真企画】Nomi no ichi

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退廃的な物を眺めるのが、好きだ。

 

使い古され、使用主の元を離れ、彷徨い続けて、

疲れ果てた顔をして並ぶ古道具。

 

読了されてしまったのか、

最後まで読まれることなく売られてしまったのか、

経緯もわからず、積み重なった本。

 

持ち主が死に、遺された人々には不要だった玩具。

 

いろいろな想い、さまざまな感情。

それぞれが持つ歴史。

 

ただ、古びてしまった、捨てられてしまった、売られてしまった。

 

彼らが持つ歴史も、感情も、想像することもなく、

疲弊に満ちた表情を眺めることで、

「愛しさ」に近い感情が芽生える。

 

対人間には持つことのない感情、心持ち、etc.

 

朽ちていく美しさをレンズに収めながら、

フチの欠けたガラス瓶だけを連れて帰った。

 

本棚に並ぶガラス瓶は、物憂げな表情をしていた。

 

 

雨 @percent_1335

【写真企画】我が家のぬいぐるみ達には意思がある

表題をみて「何言ってんだこいつ、頭おかしいだろ」という反応をした方、あなたはなにも間違っていません。


でも本当に我が家のぬいぐるみ達は意思を持って生きていて(この表現があっているのかは分からない)、我が家の人々はこの子達を溺愛しているのだ。


そして溺愛されている子供達の殆どが今実家ではなく東京で一人暮らしをしている私の家にいる。

子供達が私にとてつもなく懐いているからだ。



こうして文字にするととてもおかしくみえるが、我が家は至って本気だ。

それぞれの子達にキャラがあり、その子達とお話したり遊んだり、元気をもらったりしている。


我が家では愉快な日常を写真で記録し、ラインで共有されている。

頭がとてもおかしいだろうがそれらを紹介していこうと思う。


まずは我が家のメンバーを紹介しよう。


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メンバー大集合な写真がこれしかなかった。

上段左からゆうた、しまごろう、くまぞう、ななこ、

中段左からつだしょうはちろうかねまさ、にゃんみの、にゃんまげ、にゃんたろう、くらら、くらまさ、

そして下段ゴン。

ゴンとくらまさ(通称くら)は妹の子供たちでそれ以外の子は私の子達だ。

正確に言えばにゃんまげ、にゃんみの、にゃんたろうの3匹はそれぞれ私、妹、兄のお付きの武士だったのだが、今は江戸でお勤めをしている。

そのため私の子供達ということになっている。

この写真は前の家にゴンとくらが遊びに来た時に撮ったもの。

実家に暮らしていた時はみんな一緒に住んでいたのだが私の上京と共に離れ離れになっていたので、久しぶりに会えたのがとても嬉しそう。

それぞれが我が家にやってきたストーリーがあるのだが、需要はないだろうと省略。


いま我が家にはゴン以外の10人が暮らしている。

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私の部屋のロフトにラグが置いてあり(私はネコハウスと呼んでいる)そこでみんな仲良く生活している。


ゴンが我が家で過ごしていない理由はただ「ママ(妹)がいないなら東京で暮らす理由がない」ことに尽きる。

そのため住み慣れた実家でのほほんと暮らしている。(最近は刺激がないので東京に行きたいと騒いでいる様子。)

くらはママがいなくても東京で暮らしたいらしく、我が家に居候している。

ちなみにママ(妹)は1年間の留学中なのでゴンとくら、ついでににゃんみのはさみしい時間を過ごしている。


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可愛くおめかしをした誇らしげなゴンとごんにぃちゃんになつく子供達。

ちなみに張り付いているにゃんまげは我が家の最古参なのでゴンの方が若いはずなのだが、ゴンはゴンにぃちゃんとよばれている。

サイズに引きずられている。


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ゴンにぃちゃんは優しいのでにゃんまげが乗っても許してくれる。

2人とも誇らしげだ。


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私達がディズニーに行く前はゴンとくらも浮き足立つ。

ディズニー楽しみだなあと主張するがもちろん置いていかれるので帰ってきた時は拗ねている。


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ぬいぐるみが生きている家あるあるだが、彼らは飲食をする。

そして幸せそうな顔をするのだ。


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彼らはおしゃれもするし音楽もきく。

表情も誇らしげだ。


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私がひとりで上京し、にゃんまげが1人で国元を守っていた頃、母が「そろそろご主人帰ってくるよ」と言うとずっと外をみて待っていたというにゃんまげの後ろ姿。

今でも仕事でクタクタになって帰ると「いかがなされた お勤めご苦労様です」とやわらかな表情で出迎えてくれる。


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私や妹がアホなことをすると審議が開かれる。

彼らはご主人の行動にとてもシビアな反応を示す。とてもかわいい。


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それぞれ子供たちには性格があるが、とりわけななこはとても我が強く、自分が1番でありたい女の子だ。

写真を撮ろうとすると一番前に出てくるし、寝る時も他の子を押しのけて私の横を陣どろうとする。

だがいつも私の横に寝るのはにゃんまげだ。


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ここまで読んでお察しの方もおられるかもしれないが、私はこの子達と一緒に寝ている。

布団の半分以上が彼らに占拠され、私の寝相は矯正されざるを得なかった。

最近は子供たちはネコハウスで寝てくれているのでひろびろした布団が少し寂しい。

ひがわりで私の布団に入ってくる子供たちがとてつもなくかわいい。


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みんなで仲良くお話をしたり

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粗相をしたとかで殺虫剤で自害をしようとしたり

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東京に母が行くと聞きつければひっそりかばんに忍び込もうとしたり

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試験に受かるように一緒に勉強したり

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妹の留学先にみんなで毛布にくるまっていくのだとワクワクしたり(ゴンはデカすぎるので中の綿を出してペラペラになって行った)


本当に我が家の子供たちは表情豊かだ。



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本当はこんなことやばいと分かっているのだ。

齢23にもなってこんなお人形遊びを未だにしているなんて病的だということも理解しているのだ。

それでも私の子供たちは今日も私のことを笑顔で迎えてくれて、優しい声をかけてくれて、一緒に寝ようといってくれるのだ。

殺伐とした、希望のない毎日に光をくれるのだ。


私は一生この子達から離れることはできないだろうし、かと言って理解されたいとも思わない。

ただ私の大切な子供たちを大切にしていきたいだけなのだ。


写真企画ということで、我が家のクレイジーな一面を披露してみたが、これでよかったのだろうかという不安でいっぱいだ。

と同時に実はこういうなにかを大切にしすぎている家は我が家以外にもたくさんあると信じて疑っていない。


何が言いたかったかというと、ぬいぐるみだって大切な家族なのだということ。


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かおるん

Twitter: @kaaaaaoruuun


【映画】ファントム・スレッド

企画の途中にすみません。映画の感想を。

 

ファントム・スレッド

ネタバレを多く含みます。

 

 

 

まーーーー綺麗な音と映像で何を観せられたのか私は。

 

丁寧に気を張り巡らせて撮られている感じがビシビシと伝わってきて素晴らしかったです。

まさにレイノルズが撮ったような完璧な隙のない映画でした。

出てくるドレスも本当に素敵で。

制作途中でタグを付ける所の無駄のない手つきもはっとする程。

タグを付けるという簡単な(ただし重要な)工程ひとつであんなに心動かされるものだろうか。

 

音も素晴らしかった。

 

朝食時の食器の音。バターをトーストに塗る音。

会話もほとんどない朝の静寂にその音だけが響く。

レイノルズにとって許せる範囲で。時に許しがたい騒音となって。

 

日々の生活の中で、神経質になる時ほど音が気になる傾向がある。

いつもであれば気にならない音。あって当然の音であっても、妙に耳障りで許しがたい。

一度気になってしまったが最後、不快以外の言葉では言い表せず耐えきれない。

レイノルズのようにわめき散らす事はなくとも、一種の「あるある」を美しく描いてる。

 

他にも。針がタグを貫く時のぷすり、という音。その後に糸を引っ張る音。

違うシーンで帆布のように厚い生地に刺繍を刺す時のタグよりも硬い音。糸を引く時もタグを縫うよりも糸の通りが悪くなり、鈍くなる。全く関係のないシーンなのに、思い出して繋がる。

 

衣擦れの音、はさみで布を裁断する音、キノコを乳鉢で擦る音、そして、音を立てないように靴を脱ぐ行為。

どれを取っても耳に心地よかった。

 

けれども内容としては神経質で弱々しい男と無神経でたくましい田舎の女。

いやレイノルズ勝てるわけないよ。勝ち負けじゃない?いいえ、勝ち負けです。

超有名デザイナーに目を付けられて田舎のカフェの店員だった自分の為にドレスを作ってくれる。

彼のドレスをいつか着たいと熱望する女たちはいくらでもいるのに、自分は彼の方から(とんでもない時間であっても)ドレスを作るぞと言ってくる。

 

そりゃ気持ちいいはずですよ。

 

しかしまあ田舎のカフェ店員アルマ。レイノルズにとって理想のマネキンだったとは言えすげー女ですよ。

私だったらもう細心の注意を払って彼の神経を逆撫でしないように息をひそめて生活する。なんならレイノルズの前ではもう息しない。だって彼はマネキンとしての自分を求めて連れてきただけ。愛してなんていないし。って。

 

でもアルマは違った。「こっちの方が自然でしょ?!」「ねぇお茶いる?!」「サプライズとかどう?!」

うるせー。俺は一流デザイナーなんだドレスの事しか考えたくないんだ気が散るうせろ。

それでもめげない。すごい。挙げ句「弱ったレイノルズが大人しく自分を頼って素直になってる!かわいい!この時のこの感じ、とってもいい!」である。アホか。

 

押してダメなら大人しくさせて押さえ込む。それがアルマである。最強か。

そりゃ出会った初日に母親への異常とも思える愛の話をしちゃう繊細ボーイレイノルズに勝ち目はないですよ。無理無理。降参。愛するよ。愛してる。

 

そういえば愛のむきだしのカオリと同じやり口だな。押して押して無理なら押し切って殺す寸前まで追い込んで愛をもぎ取る手法。非常に(異常に)パワフルである。

 

レイノルズはまあわからんこともない。極端やけど。これはこういう風にしないと気が済まない。綿密な毎日のルーティンや決めた予定があって、それを崩される事が許せない。自分の中の完璧な歯車がイレギュラーな何かによって少しでも狂わされてしまうとどうにもこうにも動けなくなってしまう。

個人的には天才はそれでいいと思います。その為にシリルの様な完璧なマネージメントをしてくれる人がついていれば。

 

あんまり気にする所ではないですけど、納品したドレスが大切に扱われないからと言ってひっぺがして持って帰るあれは一体どうなんでしょうね。いや、プライドがあって崇高な行為なんでしょうけども。そんな事をしても他に顧客はいくらでもいるんでしょうけども。お金払ったんだからどうしようが勝手でしょ、とまでは思いませんが。

 

あと、ベッドシーンがなくて本当に良かったです。

採寸のシーンが十分に官能的なので。これで濃厚ベッドシーンがあれば興ざめです。勝手にやってろ感が映画全体を包み込み繊細に組み立てた全てが台無しの萎え萎え映画になっていたと思います。

 

はぁ?とかまじかよ、とかいやいや、と思う箇所ばかりだったのに総じるととても良かったです。そんな不思議な映画。